われもまたたがやすものなり

栽培をしなくなってから久しい。それでも栽培生活のブログを続けているのは、アクセス解析を見ると、毎日それなりのアクセスがあるようでもあるし、あと、引っ越ししたりタイトルを変更したりするやり方がよく分からないからだ。←なんじゃ、そりゃ。

 

きょうは、「栽培をしない=食料生産をしない」ことにからめた話。
お釈迦様が率いる僧団は生産的な活動を一切しなかった。乞食(こつじき)、すなわち、家々を巡って食べ物を恵んでもらって、それを食べて生きていた。
あるとき、お釈迦様があるバラモンの家のかたわらに立って食を乞うと、そのバラモンが、「わたしは耕して種をまき、そして食べる。あたたもそうするがいい」というような意味のことを言う。それに対してお釈迦様は、「わたしもまた耕して種をまき、そして食べている」みたいに答える。で、バラモンが、そんなことしてるの見たことないぞ、と反論すると、お釈迦様は、次のように言う。

信は種子なり、戒は雨なり
智慧は軛につなぎし鋤にして
反省はその柄、禅定はその縄
正念はわが鋤の先と鞭なり
身をまもり、語をまもり
食するに量を制し
真理をもって草刈をなし
楽住をたのしむはわが休息なり
精進はわがひく牛にして
われを静けき安穏に運び
行いて帰ることなく
到って悲しむことなし
かくのごときわが耕耘にして
甘露(涅槃)はその果実なり
われはかくのごとく耕して
すべての苦悩より解脱せり
(相応部経典7、11「耕田」 増谷文雄『阿含経典 第四巻』筑摩書房)

世の役に立ってから食えと言われて、おれだって役に立ってるんだぜと、相手が価値の根拠と考えていることをたとえに使って反論している、という図だ。
このやりとりでは、バラモンは最後には納得するのだが、納得しない場合だってありうる。納得するかしないかは、相手の価値観を理解できるかどうかにかかっている。
お釈迦様の教えそれ自体も興味深く、素晴らしいのだが、生産をしない僧団を、生産することを価値と考える世(社会)の中にうまくなじませ、組み込んでしまったお釈迦様の僧団運営の手腕も、たいしたものだと思う。

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中井久夫「いじめの政治学」

本棚を整理していたら、中井久夫さんの『アリアドネからの糸』(みすず書房)という本が出てきた。今日のタイトルは、この本の冒頭に置かれたエッセイだ。今、この文章に出会えたのは、わたしにとっては、グッドタイミングすぎる。
こどもで言えばいじめ、おとなで言えばいやがらせ、ハラスメントとも言う。建前では、してはいけないことになっている。しかし現実には、どうしようもなく蔓延していて、あるのが当たり前のように勘違いされている。
著者の中井さんは、いじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けて説明している。なるほどと思う。

 いじめはなぜわかりにくいか。それは、ある一定の順序を以て進行するからであり、この順序が実に政治的に巧妙なのである。ここに書けば政治屋が悪用するのではないかとちょっと心配なほどである。

悪用される心配をしておられるが、わたしには、自分が置かれた状況を意識化し、呪縛を解く力添えになった。
いじめ、いやがらせがあっても、周囲の誰も、それをいけないことだといさめる人がいなければ、助けを求めることができなくされる。いじめ、いやがらせの原因がいじめ、いやがらせを受ける側にあるかのような考え方を前提にした「いじめ、いやがらせを受けないようにするための助言」をするのも、被害者を追いつめる。いじめ、いやがらせをしていい理由なんてない。いじめ、いやがらせをやり返したのでない限り、いじめ、いやがらせは、それをやるほうが100%悪い。いじめ、いやがらせは犯罪だ。
さしあたって必要なのは、とにかくなんでもいいから、安全な逃避場所を作ることだろう。そして、そこから少しずつ、いじめやいやがらせのない世界をひろげていけたらいいのだろう。

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「献体」という選択

わたしは、「葬送の自由をすすめる会」のお世話になって、父の遺骨は山梨県内の森に、母の遺骨は宮城県内の森に散骨(自然葬)してきた。それで、わたし自身が死んだときにはどうしようかと考えた。わたしは、身内の者がいない独り暮らしなので、周囲の人たちに死んだ後の処理に面倒をかけるのは心苦しい。そんなときに思い浮かんだのが、「献体」という選択だ。どのような体でも、死んだ後にでも利用価値があるらしい。引き取っていただけるというのだ。わたしは、北海道大学白菊会というところに連絡して、献体を申し込んだ。引き取っていただく先方が迷惑に思っていないらしいところが、ありがたい。また周囲の人たち(ご近所とか職場とか)に、なぜそういう選択をしたかを解ってもらうための「大義名分(医学の進歩とか)」もあるのが、都合がいい。北海道大学には納骨堂もあって、利用された後は火葬されて、そこに納めてもらえるし、大学の関係者がお参りもしてくださっているそうなので、気持ち的にも落ち着けると思う。自分が死んだ後の葬送のやり方について考えている人は、選択肢の一つとして「献体」を検討してみてはどうだろうか。

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本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間~歌う生物学~』(日本コロンビア)

前回紹介したCD付き本『歌う生物学 必修編』の姉妹編みたいなものです。これは本ではなくて、CD。なので、詳しい解説は付いていません。けれど、本川先生の歌のノリは絶好調です。
『必修編』が高校の生物の学習内容を歌にしたものであったのに対して、こちらは生物学一般の範疇から、本川先生独特の視点から選ばれた内容を歌にしたもの。
「えんちゅうけい!」とか、「いったいぜんたい、なんだねこれは」とか、「いっしょにくらそう、てをとって」とか、一度聞くと耳について離れない。
日本コロンビアからCDとして発売されていたものを、同じ版元からCD-Rで再発売している。再版するほどは金は掛けられないけれど、一定数の需要はある、ということなのだろうか。

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本川達雄『歌う生物学 必修編』(阪急コミュニケーションズ)

著者の本川達雄さんは生物学者。東京工業大学教授。高校の生物の教科書の著者でもある。この本は、高校の生物の学習内容を歌詞にして歌ったものだ。作詞・作曲・歌唱、全部本川達雄さん。シンガーソングライターだ。
歌詞と楽譜と解説があって、付属の3枚のCDに全70曲が本川さんご本人の歌唱で収録されている。面白い。こういうことをやりたい気持ちがよく分かる。歌詞と曲調がぴったりで、感心することしきりだ。すごい才能だ。
初めて聞く歌なのに懐かしい。ご本人が「芸術ではないからいくらでも作曲できる」みたいなことをおっしゃっているが、まったく、素人の勝利という感じがする。玄人の作曲家、歌手には、こういうものは作れないだろう。悔しかったら、この中の曲のどれかをでも歌ってみたらいいだろう。それでもし売れたら、それはそれで面白い。
内容が濃い歌たちだ。これだけ大量の情報を詰め込んだ歌も珍しい。生物学を歌にするというのが斬新だ。生物学だけでも、まだまだいろいろな歌が作れるだろう。生物学に限らず、これをまねて、いろいろな分野の歌が生まれてきたら面白いと思う。本川さんは、今まで歌にされなかったようなことを歌にしてしまうことの先駆になるだろう。
この本をネットで検索すると、版元がCCCメディアハウスであったり、TBSブリタニカであったりするが、わたしが買ったのは阪急コミュニケーションズとなっている。出版に関して何か事情があるのかもしれないが、よく分からない。

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酒井映子『五行歌集 ひまわりの孤独』(市井社)

上記タイトルの本から。

ページを
めくったら
白紙だった
終わりは
突然がいい

小説の終わり方と人の生の終わり方とを重ねている。老人ホームで働いていると、人が死ぬ場面によく立ち会う。人は老いて、いつか死ぬ。昨日まで普通にお話ししていた人が、今日は死んでいる、ということは、よくある。いっぽうで、長く苦しみながら死んでいく人もいる。確かに、突然、ぽっくり死ねたほうが楽だろう。わたしもそういう死に憧れる。しかし、人生思うようにならない、というのも、事実だ。

もう一つ。

崩れかけた
廃屋
朽ちるという
やすらぎに
身を任せている

これも、老いを語る比喩だ。老い衰えていくことは自然なことだと思えば、それを厭わしく思うこともない。むしろ、老いることに抵抗しないで、老いを自ら受け容れていくことの平穏さは、清々しい。……と、言うのは簡単だけれど、得てして人の意識は老いに逆らうもの。これをなだめすかすのが難しいのだが。

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赤い実

Akaimi

部屋の掃除をしていたら、赤い実の写真がぽろりと出てきた。裏を見たら“FUJIFILM”の印画紙だ。銀塩写真だ。わたしが農業研修で浦幌に通っていたときに撮ったのだろう。8年前か。早、記憶の彼方。ここ50年間くらいの記憶がどんどん揮発していくようだ。ここはどこなんだろう? 自分は何なんだろう? と分からなくなることがある。
わたしのすぐ忘れる癖、ぼんやり生きる癖、空想する癖は、子供の頃に形成された。この癖は、少なくともそのはじまりにおいては、ある恐ろしい観念から逃れるために形成されたのだと思う。恐ろしい観念とは、キリスト教的な意味での「神」である。

わたしは小学校に行く前に、カトリック系の幼稚園に通っていた。家はキリスト教とは関係ないが、住んでいる所が田舎であったので、その幼稚園しか修学前の子供を預かってくれるところがなかったのだ。その幼稚園で教えられて、食事の前には何だかかんだか、祈りの言葉を唱えていたらしい。
その幼稚園の影響に違いないのだが、わたしは子供の頃、全知全能の神についてよく考えた。神という者は、いつでもわたしの行動を観察しているのだという。いつかわたしを裁くために。どこに隠れても見通せるのだという。外面に表れたことだけでなく、わたしが心の中でつぶやいたことさえも、神には分かってしまうのだという。
秘密がなければ自我意識は育たない。自分という者が何なのかよく分かっていない子供にとって、何もかも知られてしまうということは、自我意識を抜き取られることに等しい。それは、神の操り人形になってしまうことに等しい。それは茫然自失の、とんでもなく恐ろしいことなのだ。
神が世界を造ったのであれば、その一部であるわたしのことも、神はよく知っているはずだ。それなら神はなぜわたしを観察する必要があるのだろう。わたしが何を考え、どんな行動をとるかを観察するために、なぜわたしを泳がせる必要があるのだろう。そんなことは、何もかも知っている神であれば、あらかじめ分かっているはずだ。
この世という神の夢の流れのままに流される魂のない人形になることは、わたしには耐えられなかった。そこでわたしは、甘美な空想の世界に逃避した。それ以来ずっとわたしは空想の世界に遊び続けているのであり、あのころの幼稚園の先生方が望んでいたであろう「心の芯から善い子になる」チャンスを逃し続けている。

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スガワラ君ちの鳩時計

小学校の5年のときだったか、スガワラ君という小柄な男の子が転校してきた。農村の中で非農家の家、というのがわたしと同じだったし、一人っ子で親が共働きで、というのも、わたしと同じだった。同じ学級にタカダ君という大柄な男の子がいて、よくわたしにプロレスの技を掛けてわたしをいじめていたのだけれど、スガワラ君が来てからは、もっぱらスガワラ君をプロレスの相手にするようになったので、わたしは少し楽になった。
スガワラ君ちに遊びに行ったことがある。芝生の庭のある一軒家で、鍵を開けて入ると、応接間があって、壁に鳩時計が掛かっていた。その鳩時計は、鎖に付いたおもりを巻き上げて、それを動力に動いているもので、正時になると、小窓が開いて、鳩が出てきて鳴いて、時を知らせる仕掛けになっていた。
そんな鳩時計のある部屋で、スガワラ君がこんなことを言った。
「2つのものごとが同時に起こるということはないんだ。同時に見えても、精密に測定すれば、必ずどちらかが早くて、どちらかが遅いんだ」
これは言い換えれば、あるものごとが起きる時、そのものごとはそれが占有する固有の時に起きるのだ、ということになる。時というのは時間軸上の点だ。点は定義上無限小であり、幅を持たない。2つの別の物が同時に同一の場所にいられないように、2つの別のものごとが時間軸上で同時に起きるということはないのだろう。
わたしたちは、無限小ということを直接認識することができない。「限り・なく・小さい」と、否定の「なく」を入れることによって、認識したような気になっているだけだ。これは、無限大についても言える。「限り・なく・大きい」。英語でもインフィニテサマル、インファニトと、否定の接頭辞「イン」を付ける。英語と同じインド・ヨーロッパ語由来の「なむあみだぶつ」の「あみ」も同じ。アミターバ(無限の光)、アミターユス(無限の寿命)が語源だ。インとかアンとかは、否定を意味する。インポセブル、アンビリヴァブル……エトセトラ。
ところで、無限小の時が実在する、というのは、矛盾ではないだろうか。実在するのであれば、時間軸上で一定の幅を占めている。しかし、一定の幅を占めているのであれば、無限小という定義に反している。だとすれば、ここから導き出せる結論は、あらゆるものごとは実在しない、ということではないだろうか。お釈迦様は「諸法無我」と言われた。わたしもあなたも実在しないのかもしれない。
スガワラ君は、一人でいて、ものを考える時間がたっぷりあったのだろう。鳩時計を見ながら時間について、いろいろ考えていたのだろう。似たような境遇にあったわたしは、大いに共感した。

Goya2

ゴーヤを収穫した。ゴーヤチャンプルーを作って食べた。幸せ。

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チプサンケ

Chipsanke

仕事が休みだったので、初めてチプサンケを見てきました。アイヌ語でチプ(舟)+サンケ(下ろす)、つまり舟下ろしの意味。本来は、舟が新しく造られたことを川の神に報告し、木材を提供してくれた山の神に感謝する儀式です。

Tenpuku

丸太をくりぬいて造った舟は安定が悪く、油断すると転覆します。

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川を下っていく舟のステレオ写真です。


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カムイに捧げるイナウ(幣)のステレオ写真。

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増谷文雄『阿含経典』シリーズ

ちくま学芸文庫から増谷文雄編・訳の『阿含経典』のシリーズが三十数年ぶりで復刻されはじめた。原始仏典の抄訳だ。その昔、リアルタイムで新刊本として買って読みあさったのを思い出す。私は昔の元の本をまだ持っているので買い直すことはないけれども、そして原始仏典に関しては現在では網羅的な翻訳が何種類も刊行されているので、学術的な利用価値では他に譲るところもあるのだけれど、あの流麗な訳文には抗いがたい魔力がある。どうせ原始仏典を全部読み通す人なんてよっぽどの稀人なのだろうし、教養として、あるいは読むことの悦びとして読むのだったら、このシリーズぐらいの分量が丁度いいのかもしれない。それに訳文の美しさはもう絶品と言う他ないほどのものでもあるのだし。ともあれ、これら増谷氏による訳文が三十数年ぶりに手に入るようになったことを喜びたい。

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筑波常治さん

このブログで何度も話題にした筑波常治さんですが、今年の4月13日に亡くなっていたようです。Wikipedia を見て知りました。81歳でした。残された著作を繰り返し読んでいたいと思います。

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トンコリ完成

トンコリ、完成しました。

Tonkorikubi_2

首の部分。糸巻きはケヤキで造るのがいいらしいのですが、わたしのは、胴体と同じホオです。駒は、家にあった堅そうな木で造ったのですが、先生は見て「オンコ(イチイ)でないか?」と言っていました。

Tonkorikoma

下半身。アザラシの毛皮は、女性の陰毛になぞらえられています。
調弦は、音階で言うと、低い音から順にから A-C-D-F-G となります。楽器を構えた状態で、右手側から左手側に向かって、F-C-G-D-A となります。A は低い A です。A と C が太弦です。

Tonkoriheso1_2

中央の穴は、女性のへそになぞらえられます。わたしは、葉っぱが2枚並んだ形にしました。見て「サンタフェだ」と言った人がいました。以下、他の人が造ったトンコリのへその形のいろいろです。

Tonkoriheso2

菱形。

Tonkoriheso3

菱形×3。

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ハート。

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ハート+涙。

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トンコリ製作 その3

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トンコリ製作、こんな感じになっています。糸巻きを作るのが、きつすぎてもゆるすぎても駄目で、切り出しナイフと紙やすりとで微調整しながら削るのが大変でした。

中央の穴は、本来は「女のへそ」になぞらえられるもので、形は丸だったり、菱形だったりするのですが、わたしは葉っぱが2枚くっついたような形にしました。一緒に作っている仲間の中には、ハート形にした人もいました。

Tonkori05

弦は、三味線用の弦(絹糸)を使う予定です。この換え弦セットには太弦と中太弦と細弦が入っていますが、1弦と4弦に太弦を使い、2・3・5弦に中太弦を使う予定です。細弦は使いません。
手前の2つは、駒です。毛皮はアザラシの毛皮です。緒止めの所に牛革を貼り合わせて補強して使う予定です。これは、「女の陰毛」になぞらえられるものです。
塗装はどうしようか悩んでいます。白木もきれいなのですが、汚れやすいし、透明なニスをスプレーしてみようか、と考えています。

Odamaki

おまけ画像。先月も確かこの花の画像を貼ったような……。先月は、ただ単に「花」とだけご紹介しましたが、どうも、「オダマキ」という植物らしいです。今うちの庭で花が見られるのは、これとブルベリーぐらいです。チョウセンアザミも食用菊もアイビーも、消滅してしまったようです。桃も元気がありません。センペルビウムは、冬の間少し減ったのですが、また勢いを取り戻してきています。もう少ししたら、トルファン種の朝顔の種を植えようかと思っています。気候や土に合ったものが生き延びていくという、生き物の法則ですね。
こちら北海道では、6月に入っても朝晩は当たり前にストーブを焚いていたりします。6月で気温が氷点下になるところさえありますから。農家は気を揉みます。

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トンコリ製作 その2

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内側は丸ノミで、外側は平ノミで、厚さが5ミリくらいになるまで彫っていきます。
中にある黒い玉は、クルミです。トンコリの中には、このような物を何か入れます。トンコリ自体は女性の体になぞらえられますが、中に入れる玉は、心臓を意味します。音にはほとんど影響しませんが、トンコリを傾けると、中で転がってコロコロ音がします。

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甲板をボンドで貼ります。ボンドがない時代は、膠(にかわ)を使っていたそうです。

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トンコリを作りはじめました

樺太アイヌの伝統楽器であるトンコリを自作して演奏しよう!という企画に誘われて、参加しています。町内で木工工芸の仕事をしている方に、製作の先生をしてもらっています。
きょうしたのは、ドリルで穴を開けるように掘って(貫通させない)、ノミで荒削りをするところまで。もう少しできてきたら、また報告します。
トンコリは、木製の弦楽器で、中は空洞なのですが、板を貼り合わせたり、板をたわめたりしてではなく、角材をノミでくりぬいて作ります。
わたしが作っているのは、長さが125センチで、材質はホオです。

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ドリルで掘っておくと、ノミを入れやすい。

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掘ってます。

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ユイ・リーチョン(文)、チュ・チョンリャン(絵)『チュン チエ――中国のおしょうがつ――』(光村教育図書)

絵本を見て泣いてしまった。少女の「わたし」のお父さんは、遠くに働きに行っていて、年に一度、お正月(いわゆる旧暦)に帰ってくる。舞台が一人っ子政策の中国だから、きょうだいはいない。お父さんの帰りを楽しみにしている、という、ただそれだけのお話しなのだけど、しみじみとしていていいんだな。

ふるさとがあって、家族がいて、伝統行事を楽しむ地域社会があるということ。わたしが失っていることがここに描かれている、と思った。わたしだけでなく、日本人の多くが、多かれ少なかれ失っていることなのではないだろうか。それは、なんでもないことのようなものなのだけれど、失ってしまうと、とり戻すことの困難なもの。

奥付をみたら、きょうが発行日になっている。

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イナウ

イナウをつくる体験をできる機会があったので、参加してきました。イナウというのは、木を削ってつくる「ぬさ」のようなものです。飾りのようであって、カムイに捧げるものでもあります。
木は、ヤナギかミズキを使います。ミズキのほうが、より白くできあがります。
初めてつくったのですが、「初めてにしては上手だ」とほめられました。
写真は撮ったのですが、会場のチセ(家)に入ってから撮った写真が、なぜか全部真っ黒になっていて、お見せすることができません。

チセに入る前に撮った写真がありますので、載せておきます。

Cise これがチセです。かやぶきの家です。消防法の規定で、人が住むことはできません。儀式などのときに使われています。
ふだんは、バスで来る観光客に見てもらっているぐらいです。

Cip1 チプ(丸木舟)です。
昔は、こういう舟で漁をしたり、川を行き来したりしていたのでしょうねえ。今は、儀式のときにだけ使っています。

Cip2 チプのへさきには、模様が彫刻されています。

Iutap1 イユタプ(ばったり=水力を利用した精穀機)。
穀物を搗いて、殻を取ったり、粉にしたりしたものです。

Iutap2 イユタプの「かけひ」仕掛けの部分。
これは再現したもので、現在実用に使われているものではありません。

Pu_heperset 手前は、プ(高足倉=食料庫)。
奥は、ヘペレセツ(子グマを飼うおり)。

おしまいです。
何で、チセの中で撮った写真、黒かったのでしょうか。カムイに対して、何か失礼でもあったのでしょうか。

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オオウバユリ

平取アイヌ文化保存会の技能伝承講座で「トゥレップ(オオウバユリ)加工、保存」という催しがあったので、参加してきました。

Trep1 これが、オオウバユリです。根元の鱗茎を利用します。

Trep2

樽の中で鉈の背で搗いて潰しました。臼と杵でやってもいいです。

Trep3_2 水を加えて、ざるで濾して、液は、沈澱させて、でんぷんを取ります。

Trep4

ざるに残る、繊維が多く含まれるほうは、フキの葉っぱでくるんで、

Trep5 さらにヨモギの葉っぱでくるんで(ヨモギには、防腐効果があるそうです)、土に埋めて、発酵させたのち、乾燥させます。食べるときは、煮戻すそうです。

Trep6_2

でんぷんも、発酵乾燥させるほうも、すぐには食べられないので、オオウバユリの鱗茎を、茹でて、潰して、つなぎに市販のでんぷんを入れて、捏ねて、食べやすい大きさに丸めて、マーガリンを引いたフライパンで焼くという、北海道の料理「いも餅」(「いも餅」は、ジャガイモでつくります)式に調理して、食べました。繊維は、今回は庖丁で刻みました。
食べやすい、爽やかな風味です。繊維を含むので、腹持ちがいいです。 

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便所のハエ対策

今度引っ越してきた住宅は、くみ取り式の便所なので、ハエが発生します。今までは寒かったので、活動していなかったのですが、暖かくなってきて、きょう、室内に、初めて、成虫のハエを見ました。
ある方から、発酵剤をまいて、便槽の便の中の有機物を早く発酵させて無機物にしてしまえば、ウジは餌を得られなくなって、死滅する、という情報を得て、さっそく、発酵剤なるものを買いに行きました。

550320namagomishorizai

農協に「生ゴミ処理剤(EM菌入りボカシ)」というのが売られていました。これでいいのかなあ。写真載せていますが、これでうまくいくかどうか、分かりません。この商品をお勧めしているのでもありません。結果は、後日、報告します。農協には、ウジ用の殺虫剤も売っていましたが、ボカシでうまくいくなら、毒物を使うよりは、いいでしょう。

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枝打ちと枝条巻き

今朝の気温は、マイナス23℃でした。玄関のドアの内側の板と、金属のドアノブに霜が付いていました。冷凍庫の中に住んでいるみたいです。部屋には石油ストーブがありますし、いっぱい重ね着していますので、寒くはないのですけれどね。

きのうから、緊急雇用対策として行われている、町有林の枝打ちと枝条巻きの仕事に行っています。
枝打ちというのは、木の下のほうの枝を、長い柄が付いたのこぎりで切り落としていく作業です。節の少ない、上質の材木を育てるための作業です。
枝条巻きというのは、枝打ちで切り落とした枝を、若い木の幹のまわりに縛り付けていく作業です。シカが木の皮を食べたり角を木にこすりつけたりすることで木が傷むのを、少しでも防ぐために、このような障害物をつくります。
わたしは、今のところ、もっぱら、枝打ちばかりしています。底にスパイクを打ってある、山仕事用の長靴をはいて、ヘルメットをかぶって、弁慶のナギナタのようなのこぎりを持って、日がな一日、枝を切り落としています。

風が吹くと、木木の枝葉が揺れて、積もっていた粉雪が降ってきて、白い霧のようになって、そこに木漏れ日が当たって、奥行きのある放射状の光の筋が無数にできて、美しいです。
下のほうを見下ろすと、川が流れていて、川原には白く雪が積もっているのですが、川面には、靄が立ち上っています。川の水は温かいのでしょうか。
林の中の雪の上には、小動物たちの足跡が見られます。鳥の鳴き声も聞こえます。彼らは春まで、何を食べて生きているのでしょうか。

この仕事には、全部で40人近くの人たちが参加しています。緊急雇用対策なので、一人が働く日数は、一冬に15日と決められています。わずかに15日ではありますが、しかし、何もないよりは、ましです。灯油代ぐらいにはなるでしょう。もっと働きたい人、働ける人は、都会のほうへ職を求めて出て行きます。
一緒に働いている人たちと、いろいろ話ができて、楽しいです。町の特産品であるトマトの選果の仕事は大変で、目がまわるようだとか何だとか、町の産業や暮らしの様子などが、少しずつ分かってきています。

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