「すききらいで食べるのではない」

きのう(12月26日)の北海道新聞のコラム欄「卓上四季」(北海道新聞のホームページでも読めます)に、ホッチャレ(産卵を終えた後のサケ)の話が出ていました。

アイヌ民族の長老は、ホッチャレはうまいかと聞かれ「好みと言うより、摂理に従っているだけ」と答えたそうだ。

うまいから、それを選んで食べる、というのは、世界中からいろいろな食べものを輸入して、あふれるほどにある状況の中にいる人の発想なのでしょう。
わたしも、北海道に来て6年間、いろいろな作物を栽培してみましたが、気候や土質に合った作物だけが残ってきました。「あれが食べたい」という発想で、初めていどんだ作物もありますが、たいがいは、失敗しました。
主食系で、今残っているのは、秋まき小麦、イナキビ、タカキビ、ヒエ、ソバ、ジャガイモ、キクイモ、カボチャ、大豆、小豆、菜豆類、エゴマです。
今は、お店で買ってきた食べもの、人からいただいた食べものも食べていますが、量的には、片手間で栽培しても、かなりのところまで自給は可能なのではないかと思えるようになってきました。
こういうのが、「摂理」に乗る感覚なのかもしれません。ただ、「摂理」という語は、もともとはキリスト教の宗教用語で、神の意志(providence)の意味なので、仏教徒のわたしとしては、「因果の関係を理解する」ぐらいの表現にしておきたいですけど。

先ほど引用した、北海道新聞のコラムの中に「北海道サーモン協会」の語があったので、検索してみましたら、元ネタらしいブログを見つけました。北海道サーモン協会のブログです。
北海道新聞よりも、もう少しくわしく書かれています。

ある時、アイヌの萱野氏が対談で、質問者の「もっと下流のほうが赤い身のサケが獲れるのに、アイヌはホッチャレが好きなのか」との問いに、「アイヌは好きでホッチャレを食べているのではない。自然の摂理で生きているだけだ」と答えていた。

サケが川をさかのぼれないようにダムをつくってきたのは、わたしたちです。さまざまな動植物を得させてくれた谷・沢を、ダムの底に沈めたのは、わたしたちです。
二風谷ダムは、土砂がたまって、洪水が起きた場合には危険なダムになっているそうです。脱ダムどころではなくて、どうやって安全に廃ダムするかが、大きな課題になっています。
身近な自然を殺して、食べものは輸入する、という、これまでわたしたちがやってきた無理な生き方のツケを、いよいよ払わなくてはいけない時代になってきたのです。わたしたちは、将来の世代の人たちに、「あの時代の人たちがツケを残していった」と、うらまれることがないように、生きていかなくてはいけないと思います。

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「メ・シクーナ」第11号

「メ・シクーナ」の伊藤編集長、元気でした。ちょっと怒りっぽくなっていたみたいですけど。マスコミ報道とか、学校の先生の言うこととか、そんなのにいちいちまともに反応したって、しょうがないのにね。

この伊藤編集長の力作、フリー・ペーパー「メ・シクーナ」の第6~11号を、栽培生活友の会の会員に、無料でお送りします。会員頒布のページから、メールで申し込んでください。手元に残っている限り、お送りします。まだあるかどうかは、上記、会員頒布のページで確かめてください。

「メ・シクーナ」は、「ダイダラボッチ伊藤」さんが編集して、拓殖大学北海道短期大学食農研究会が発行しています。わたし田中も、連載を1本、書かせてもらっています。メールでのお問い合わせは、こちらへ、だそうです。→ me_sicuna@yahoo.co.jp
深川市に住んでいる人なら、拓大に行って、事務の窓口で「メ・シクーナ」はないですか?と聞いたほうが早いかも。それか、食農研の部室を急襲するとか。

第9号から最新の第11号までの目次をご紹介しておきます。

第9号
やっちゃば洋ベジ通信 その一 ズッキーニ
だれでもできる! 今日からできる! 食品保存の知恵袋。
「安い!」が世界を破壊する?! 「壊れていく食文化」
知っておきたい 「緑の革命」って何だ?
世界のまん中で飯を喰うのだ!! 「肉、喰う人々」の巻
適正技術 (田中敬三)
昨日晴耕,今日雨読。『くう・ねる・のぐそ』『水木サンの幸福論』
沖縄県 宮古島のお千代さんに会いに 其の四 (あかほりりゅうへい)
くらしに重曹を

第10号
反近代農業の系譜〔国外編〕 (田中敬三)
世界のまん中で飯を喰うのさ!! 「お茶する人々」の巻
それいけ!ケンコちゃん (ダイダラボッチ伊藤)
健康シリーズ1 「今日も元気だ」 (土田敏夫)
昨日晴耕,今日雨読。喰われる人々『被差別の食卓』『メメント・モリ』
やっちゃば洋ベジ通信 その二 パプリカ
「安い!」が世界を破壊する?! 「見えなきゃいいのさ環境破壊」
今日から始めるバイオトイレ

第11号
さよなら! Bad Mind Japan!!
世界のまん中で飯を喰うのだ! 「国境の町で飯を喰うのだ。」の巻
反近代農業の系譜〔国内編〕 (田中敬三)
埼玉県 風の丘ファーム短期研修 (あかほりりゅうへい)
やっちゃば洋ベジ通信 その三 アーティチョーク
健康シリーズ2 「今日も元気だ」 (土田敏夫)
不食と人間 自己家畜化とは…
「安い!」‥が世界を破壊する?! 「安~い人生、大量生産?」
年越し酩酊対談 農耕がもたらしたもの、破壊したもの。
今日からはじめる 甘酒生活。とにかく麹がスゴいんです!!

※ 「メ・シクーナ」は、字が小さいので、むしめがね必須です。

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青空文庫の「ケヶ」問題と「行頭括弧の字下げ」問題

『いたこニーチェ』の記事でも触れましたが、青空文庫では、「ケヶ」の問題と「行頭括弧の字下げ」の問題を巡る対立が、ずっと続いています。
青空文庫というのは、著作権保護期間を経過した本を、電子テキストとして入力して、インターネット上に公開して、無料で読めるようにしている団体です。入力・校正をしている人たちは、一部の人を除いて、多くは無報酬(ボランティア)でやっています。わたしも、つい最近やめましたが、9年間、無報酬で作業をしてきました。

「ケヶ」の問題のほうから説明しますと、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」という字があります。「三ヶ月」とか「金ヶ崎町」といった使い方をする字です。この「ヶ」は、片仮名で「三ケ月」とか「金ケ崎町」と表記することもあります。青空文庫のルールでは、底本(入力や校正に使う元になる本)で「ケ」であっても、物を数える際や地名などに用いる「ケ」はすべて「ヶ」に代えて、文末に「※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。」という註記を入れることになっています。

わたしとしては、底本が片仮名の「ケ」を使っているのであれば、そのとおり「ケ」で入力することが、その底本をつくった人たちの思いを継ぐことになって、いいと思うのですが、青空文庫では、それを認めてくれません。
ようするに、青空文庫の人たちは、物を数える際や地名などには小さな「ヶ」を用いるのが正しくて、片仮名の「ケ」を用いるのは間違いだ、間違いは正さなければいけない、と思っているのです。自分が正しいと思うやり方に、すべて統一させようとしているのです。

わたしがこのルールが間違いであることに気づいたのは、文末に入れさせられている「※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。」という註記をよく見ていたときでした。「ヶ」を大振りにつくっている?
わたしは、自分が底本に使った本を調べてみました。該当する文字をスキャナーでスキャンして、画像を半透明にして重ねてみたのです。

Keke_2

片仮名の「ケ」と大振りにつくられた「ヶ」とされている文字は、調べたすべての本で、形・大きさ・位置が、すべてぴったりと一致しました。ぴったりと同じ形・大きさ・位置の文字を、文脈から判断して使い分けている、ということはありえません。つまり、ここで使われているのは、大振りにつくられた「ヶ」ではなくて、明らかに片仮名の「ケ」なのです。「ヶ」に直させたがる人たちが、底本どおりに入力すべきだ、という批判をかわすために、この「ケ」は片仮名の「ケ」ではなくて、大振りにつくられた「ヶ」だ、という詭弁を弄していたのです。それが、画像を重ねてみることによって、嘘だとばれてしまったのです。

わたしは、底本が「ケ」ならば、そのとおりに「ケ」で入力することが正しいと思いますが、「ヶ」に直したい人たちの気持ちも分かるから、どちらでもいいことにしたらどうでしょうか、と提案してみましたが、受け入れてもらえませんでした。

わたしは、青空文庫の人たちに、青空文庫のルールを守れないのならば、そういうファイルは、どこか別のところで公開すればいいのでは?、という意味のことを言われました。
異論をもつ人を排除しようとしていると、最初は反発を感じたのですが、考えてみれば、電子テキストを青空文庫に集中させるよりも、個性的なテキストアーカイブがあちこちにできるほうが、文化現象としては健全なのかもしれない、と思いなおして、わたしは、青空文庫から離れることにしました。
納得できないことを無理して続けさせられるのも、いやですし。

「行頭括弧の字下げ」問題というのは、これも青空文庫のルールで、改行して、行頭を1ますスペースを空けて、括弧やかぎ括弧などが来る場合、この1ますスペースを取って、行頭から括弧やかぎ括弧を入力するように定められていることをいいます。
これなども、「ケヶ」問題と一緒で、「行頭に1ますスペースを空けてから括弧やかぎ括弧が来るのは間違いで、行頭から括弧やかぎ括弧が来るのが正しい、世の中のテキストは、すべてこの正しい流儀で書き改められるべきだ」という、自己中心的な発想に由来するルールなのだと思います。

青空文庫は、ずっとこういう理不尽なやり方で、作品の改変をやってきました。この責任は、青空文庫の呼びかけ人として名前が挙げられている、富田倫生、八巻美恵、LUNA CATの三氏が、とらなくてはいけないのだと思います。
わたしは、今後、青空文庫の作業に関わるつもりはありませんが、9年間関わってしまった責任から、青空文庫の間違いを指摘することは、続けていきたいと思っています。

          平成21年12月23日 田中敬三記す

Kaihenhantai_

脱会者の手記 別名、青空文庫を責めないで♪

自分の家庭をかえりみないで、戸別訪問スタイルの宗教の勧誘にのめり込む人たちが問題になっていますが、わたしの青空文庫での9年間は、あれと同じようなものだったんだと、ようやく気がつきました。
2000年の正岡子規「寒山落木」から、来年公開されるであろう有島武郎「北海道に就いての印象」まで、95作品のファイルに、名前が残ってしまいました。そのうち14作品には、あの「「ヶ」は大振りにつくられていますぅ」の、みっともない註記つきです。ああ、はずかしい。
相手が悪すぎます。協力ボランティアを「工作員」と呼び続ける人です。11月19日の「そらもよう」で「すべての魂の兄弟姉妹とともに。」なんて叫ぶ人です。そして、自分と違う意見は、まったく耳に入らなくなる人です。
わたしは今、自分が青空文庫に生まれなくて本当によかったと、胸をなでおろしています。(12月27日)

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丘浅次郎「所謂自然の美と自然の愛」

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栽培生活のホームページの「田舎の貸し本屋さん」のページで、丘浅次郎の「所謂自然の美と自然の愛」と「疑ひの教育」と「境界なき差別」と「固形の論理」の4作品を読めるようにしました。よろしかったら、どうぞ、お越しください。

丘浅次郎は、生物学者です。水生動物の比較形態学が専門でした。ダーウィンの進化論をベースにした独特な文明批評も書いています。

所謂自然の美と自然の愛
「博物学を授ける目的の一は生徒をして自然の美なるを感服せしめ、随つて自然物を愛するの情を起さしめるにある」という、文部省が掲げる「博物学の教育的価値」の観念性を批判しています。あるがままの自然は、美しくも醜くもあるんだ、と。そして、自然を利用しなければ生きていけない人間が、「自然を愛する」なんて口にするのは欺瞞ではないのか、と。

疑ひの教育
これも、教育批判です。教えられたことを信じる教育から、自ら疑うことができる教育への変換を訴えています。

境界なき差別
ものごとにはすべて差別があるが、それを言葉で表現すると、どこかに「違い」の境界線があるように錯覚してしまいます。言葉で現象を認識しようとする人間の認識の陥穽を指摘しています。

固形の論理
「境界なき差別」に続く文章。人間が頭の中でこねくりだした「論理」は、自然物にはあてはまらない。あるがままの自然物は、いつでも人間の認識からずれていく、という話。

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渡辺大濤「『忘れられた思想家―安藤昌益―』雑感」

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栽培生活のホームページの「田舎の貸し本屋さん」のページで、渡辺大濤(わたなべ・だいとう)の「『忘れられた思想家―安藤昌益―』雑感」と「安藤昌益の身元と遺稿につきて」をテキスト入力をして、読めるようにしました。よろしかったら、どうぞ、お読みください。

自給思想の源流といえば、真っ先に安藤昌益が挙げられるでしょう。農民をおだてる思想は、大昔からいくらでもありますが、誰もが自分たちで栽培して食え(直耕)と言ったのは、安藤昌益が世界で最初ではないでしょうか。
渡辺大濤という人は、古書店で偶然に安藤昌益の本を「発見」した狩野亨吉のもとで安藤昌益の研究をして、『安藤昌益と自然真営道』という本を出版した人です。

「『忘れられた思想家―安藤昌益―』雑感」
世界に1セットしかない安藤昌益の100巻92冊におよぶ自筆本『自然真営道』は、関東大震災のときに、保管先の東京帝国大学図書館で焼けてしまいます。全巻を読破したのは、狩野亨吉だけ……。
E.ハーバート・ノーマンの著書『忘れられた思想家―安藤昌益―』が出版されたころの、安藤昌益研究の進み具合が分かります。

「安藤昌益の身元と遺稿につきて」
文献を丹念に調べ、縁のある土地にその足跡を探す。少しずつ「証拠」が出てきて、江戸時代中期における、安藤昌益の活躍の様子がよみがえってきます。「忘れられた思想家」安藤昌益を、何とか現代によみがえらせようとする努力が感動的です。

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科学技術税

クライメートゲート事件というのがあります。田中宇さんのメールマガジンが、そのことを要領よくまとめてあります。

田中宇の国際ニュース解説 2009年12月2日
地球温暖化めぐる歪曲と暗闘(1)

要するに、「地球温暖化」は、二酸化炭素などの「温室効果ガス」が原因で起こる、という説を説明するために使われていた、地球の気温が、人類が二酸化炭素をたくさん放出するようになってから急激に上昇した、ということを示すグラフが、データの改ざんによって作られていた、という話です。
この改ざんは、何者かが、科学者たちのメールや、使用したコンピューター・プログラムをハッキングして、公開したことによって、発覚したそうです。
「ハッキング」と言えば、固守されていた情報をこじ開けたような印象を受けますが、メールなんて、いくつもの中継点を経由して送られるものですから、その気になって盗み見しようと思えば、いくらでもできるでしょうし、ひそかにコピーして内容を分析している機関がある、ぐらいのことは、想定しておいたほうがいいと思います。その意味では、こんなスキャンダルの証拠になるようなデータをメモリーに残しておくなんて、初歩的なミスと言っていいでしょう。
粉川哲夫さんが「メディア・ヌーディズム」を主張していますが、コンピューターを使って何かをしている人は、おおぜいの人たちから見られていることを前提に、活動をしなければいけないと思います。

クライメートゲート事件で気になるのは、どの辺の人たちまでが、地球温暖化温室効果ガス犯人説はうそだ、ということを知った上で言っていたのか、あるいは、「偉い」政治家・科学者・マスコミ・学校教育が言っているから本当だと信じて言っていただけ、つまり、「だまされていた」のか、ということです。
アルバート・ゴアは(←全く尊敬できないので、敬称はつけません)、完全に「知っていて言いふらしていた」口でしょうね。で、こういう人にノーベル賞を与えて権威づけた人たちも、同類でしょう。

ノーベル賞と言えば、ノーベル賞を受賞した日本の科学者たちが集まって、科学技術振興のための国家予算を減らすなと、鳩山総理に陳情に行ったそうです。日本は資源がないから、科学技術を大いに振興させていかなければだめだ、とか言っていたそうです。
わたしがふだん農業について言っていることを知っている人には分かってもらえると思いますが、資源がない国だからこそ、自給をしなくてはいけないのです。そして、科学技術で農産物の生産性を上げるのではなくて、生産者を増やし、かつ極力人力で生産することによって、地域に適した、安定した生産様式を確立していかなくてはならないのです。
スーパーコンピューターの開発に何百億円も使う金があったら、自給的生活を志す人たちが生きていきやすいように支援する分野に、その金を振り分けてほしいです。
槌田敦さんが『「地球生態学」で暮らそう』で、「科学技術税」を設けるべきだ、というようなことを、おっしゃっていました。今、その本をひとに貸していて、正確に引用できないのですが、トラクターやコンバインや温室や農薬なんかを使ったら、税金を取って、より人力に近い「適正技術」の方向に生産様式を向かわせていこう、ということだと思います。そう、科学技術税とは、科学技術を振興するための税金ではなくて、科学技術を規制するための税金なのです!
人びとが、自給の方向に生活を変えていきやすくなるように、まず自分の生活から少しずつ変えていって、小さくてもいい、一人一人が声を挙げて、社会がどういう方向に変化していったらいいと考えているか、その意思表示をはじめることが、大切なのではないかと思います。

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適菜収『いたこニーチェ』飛鳥新社

小説仕立てで、ニーチェの思想の核心を明らかにしてくれる本です。笑いながら、あっという間に読めてしまいます。
作者の適菜さんによれば、プラトン→パウロ→カント→吉田というのが、「負のスパイラル」と呼ばれる、まあ、いわば、ダメダメの系譜なわけです。吉田というのは、この小説の主人公で、どこにでもいそうな、ふつうの男です。このダメダメの系譜の特徴は、わたし流にまとめれば、ありもしない観念をでっち上げて、そこに普遍性を追求してしまう人たち、ということでしょうか。
普遍性を追求していくこととは逆の方向へどんどん進むと、最後は誰にも理解されない世界に生きることになって、これは、一般には「狂気」と見なされています。ニーチェは、晩年は「狂った」と言われています。ある意味、自分の思想を徹底的に実践してしまったのかもしれません。でも、それでは、どこにでもいる、ふつうのわたしたちに、ニーチェの思想は伝わりません。ですから、現代の日本人に乗り移って、その教えを説いてもらう必要があるのですね。
普遍性を追求する系譜は、わたしたちが教育されてきた民主主義とか、日本国憲法とかにも染み込んでいまして、これらを切り離すことは、容易なことではありません。そこでニーチェさんに降臨してもらって……と、続きは本を読んでいただくことにしましょう。思想的に、かなりスリリングなことをやっていますが、『ニーチェ入門』や『これがニーチェだ』よりは、断然、面白いです。

普遍性を追求するといえば、わたしは趣味で青空文庫の入力や校正の作業をしていますが、青空文庫の内部で「ケヶ論争」というのが、何年も前からくすぶっていまして、はたから見たら、異様なほどに険悪な雰囲気になっています。たとえば、今わたしが入力している作品の中に、「六ケ敷い(「むつかしい」と読みます)」という語が出てきますが、青空文庫のルールでは「六ヶ敷い」と、小さいヶで入力して、文末に「※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。」という註を挿入することになっています。いっぽうで、底本に大きなケが使われていたら、見えるとおりにケで入力すべきだろう、という人たちもいて、けんけんがくがく、いまだに決着がつかないのです。これなんかも、それぞれの主張をする人たちの間で、普遍性を追求している結果なのだと思います。普遍性を追求することによって起こる対立がひどくなると、内ゲバとか、国と国とで言えば、戦争とかになるのだと思います。

追記:
その後、青空文庫とは、縁を切りました。青空文庫って、『いたこニーチェ』に出てくる、デモをする護憲団体と似たようなものです。ダメダメな組織に関わっていると、こちらまでダメダメになってきます。もっと早く気づいていればよかったんですけど。
青空文庫がスーパーマーケットだとすれば、わが「田舎の貸し本屋さん」は小さな個人商店みたいなものでしょうか。日本語の電子テキストを青空文庫に集中するよりも、個性的なアーカイブがあちこちにたくさんできたほうが、文化としては絶対に健全です。

「ケヶ」問題についての記事を書きましたので、そちらもご参照いただければ、うれしいです。

栽培のブログなので、栽培に関係することを言いますと、「農法」についても、普遍性を追求するような物言いがなされることが、しばしばあります。なになに農法と名づけられているものは、たくさんあります。しかし、普遍的に正しい農法というものはないと、わたしは思います。
わたしはこんなやり方で栽培しています、と言うのは、けっこうです。でも、その農法を基準にして、他のやり方をこき下ろすのは、どうかと思います。ましてや、特定の農法の名の下に徒党を組んで、その農法に「改宗」するか、さもなくば栽培をやめるか、みたいにキリキリきついことを言うような人たちとは、おつきあいしたくないです。

舞踏家の田中泯さんが「みんじゃが」というジャガイモを栽培して売っていますが、あれは、農法で売っているのではなくて、田中泯さんという人、その人の生き様で売っているのだと思います。ありもしない観念を振り回して、周囲に迷惑をかけるのではなくて、田中泯さんのように、具体的な個と個の関係を大切にして生きていくのが、堅実で清澄な道ではないかと思います。
例として、知名度のある田中泯さんを挙げましたが、世界には、名もない田中泯さんがいっぱいいるのだろうと思います。空虚な観念の「農法」なんかに惑わされることなく、ひとりひとりのオリジナルの生き方をしていってほしいです。

【追記】
『いたこニーチェ』ですが、表紙と本文の挿画は、『くろずみ小太郎旅日記』の飯野和好さんですよ~。ニーチェの顔が、濃くて、渋い!!

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山本鼎「農民美術と私」

栽培生活のホームページの、「田舎の貸し本屋さん」のページで、山本鼎の「農民美術と私」が読めるようになりました。

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山本鼎は、リアリズムの画風の版画家として知られ、作品発表の場として、美術文芸雑誌を発行したりもしました。やがてフランスに留学しますが、ロシア経由で帰国する際に農民美術に触れて、啓発されました。日本農民美術研究所を設立して、農家の副業として美術工芸品をつくることを勧めました。また、学校教育の中で自由画を描くことを提唱しました。

山本は、この「農民美術と私」を書く1年前に、「美術家の欠伸」という文章の中で、次のように言っています。

美術は所謂余剰価値によって栄えてきた

そう、美術は直接間接に、余剰価値(富)によって擁護されますし、美術のがわからは、余剰価値がより栄えるように、それを讃美するのが、務めとなります。
余剰価値のルーツは、備蓄食料です。自然状態では、食料が手に入る量は波があって、それに合わせて、わたしたちの心も波打ちます。美しいものに出会えば感動して、その感動を仲間と共有することもあるでしょう。そのような、変幻する世界に対する自然な表現と、「余剰価値と美術」の関係とは、決定的に異なります。余剰価値というのは、文字どおり、本来必要のない無駄なものであるうえに、困ったことに、これが一度形成されると、継続的に増殖・強化されていってしまう傾向があるのです。
山本は、余剰価値と美術の関係に気づいていましたが、自身が美術家であることは、やめませんでした。山本は、子どもや農民に美術をさせることによって、自らを、非正統的な美術家へと、山本本人の表現で言えば「脱線」させたのでした。
余剰価値に従わせ、余剰価値をさらに蓄積させようとする美術を〈のぼりのエスカレーター〉にたとえるならば、山本は、この〈のぼりのエスカレーター〉の途上を、逆向きにおり続けるパフォーマンスをしてみせていたのではないでしょうか。
「農民美術と私」の中で山本は、次のように言っています。

昨年欠伸した美術家だつた私は(ずつと前から欠伸して居るのだが)今年は脱線した美術家になつてしまつた。

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白いニンジン

Shiroininjin

ニンジンを収穫していましたら、1本、白いニンジンがありました。
これ、増やしてみましょうか? 1本しかないので、味見はできませんが……。
北海道のお土産に、栽培生活の「白いニンジン」は、いかがですか?――なんて。

のちにブッダとなる子どもを懐妊したときに、母マーヤーは、白い象が来てそのことを告げる夢を見たといいます。ニンジンと象とは全く違いますけれど、白い珍しいものがやってくるのは、よいことが起こるきざしのような、気持ちのいい印象を感じます。

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幕内秀夫『かんたん!おいしい!低カロリー!手作りふりかけ』(学習研究社)

カラー写真のいっぱい載っている料理本を眺めているのは、楽しいです。でも、それらのレシピで実際に料理をするかどうかとなりますと、なかなか実際にはめんどうで、けっきょく、本を眺めているだけで終わってしまうことが多いです、わたしの場合は。
そんな中、この本だけは、つくってみる気にさせる力を感じます。めんどくさがり屋には、お勧め!なのです。ふりかけといえば丸美屋ですが、手づくりふりかけも、おいしそうです。この本には、これでもかーっというほど、いろいろなふりかけのつくり方が出ています。

いろいろある中で、基本だと思いましたのは、大根葉のふりかけです。大根は、うちでも栽培していますが、正直言って、葉っぱは捨てていました。でも、これからは、ふりかけにして、ちゃんと食べます。塩ゆでして、水を切って、細かく刻んで、から煎りすれば、できあがりです。
食べないでいたものを食べるといえば、出しを取ったあとのかつお節や昆布をふりかけにする、というのが、気に入りました。出しがらは、おいしい味を取ったあとの「かす」のように思っていましたが、ちょっと工夫すれば、まだまだおいしく食べられるのですね。
ぜひつくってみたいと思いましたのは、カボチャのふりかけです。カボチャは、うちにはいっぱいありまして、ふつうに煮て食べるのは、きらいではないのですが、さすがに毎日続くと、飽きてしまいます。ふりかけにすれば、見た目が変わって、新鮮な感じがします。カボチャを蒸し煮にして、つぶして、味をつけて、薄く広げて、オーブンで焼いて、さましてから、細かく刻む、というのが、つくり方です。つくり方、超端折ってご紹介しましたが、これだけでぴんときた人は、即台所へ Go! です。分からない人は、ていねいに解説されている本書をごらんください。
びっくりしたのが、米ぬかのふりかけというのです。米ぬかを食べちゃうの? まあ、玄米で食べれば、ぬかの部分を食べているわけですから、精米で別べつにしたものを、おかずにしてまたいっしょにすると思えば、どうということはないのでしょうが、習慣的にぬかを食べたりしないので(ぬか漬けだって、直接食べるわけではない)、へぇー!と思ってしまいました。

ふりかけにしておけば、日持ちがしますし、おかずが少なくて食卓がさびしいときに、サッと冷蔵庫から出せば、食卓がちょっとにぎやかになります。お弁当のおかずにするにも便利です。
ふりかけは、から煎りをしてつくることが多いです。この、から煎りをするときに熱を加えていますが、このときに使う〈火〉のイメージが、ふりかけの諸素材からくるイメージと相まって、ふりかけを食べる人の内に、光や熱のイメージをもたらして、豊かで満たされた気持ちにさせるのかもしれません。実際のふりかけは冷めていても、です。「ふりかけの詩学」なんて、どなたか、探究していただけませんか。

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来年の芽は、もう準備されている

Momome_2

苗木で買ってきて植えた桃の木が、3年たって、たわわに実をつけた話題を、8月の下旬に記事(「桃の実が生ったので、食べてみました」)にしました。
その桃の木は、現在は、ほとんど葉も落ちて、これから半年続く雪の季節をむかえようと、覚悟を決めて身構えているところです。よく見ると、来年出てくる芽が、すでに小さくできているのが分かります。先のことを見通して、静かに、着実に、準備しているのですね。

Momonemoto_2 桃の木の根元です。接ぎ木をしたように見えますが、そうではありません。じつは、この木は、一度、地上部が全部枯れたのです。ところが、根が生きていて、切られた株の横っちょから、また芽を出したのです。
たった3年のあいだに、いろいろなドラマがあったのです。
まわりの草が枯れて、見えやすくなったので、写真を撮りました。
そういえば、実がたわわに生って、桃の実の肌が、文字どおり〈桃色〉に色づいて美しかったころに、ちょうど運悪くカメラがなかったので、写真を残していなかったのは、残念でなりません。

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アピオスを収穫する

Apiosimo

初めて、アピオスを収穫しました。
長いつるの途中に、ぽこぽことふくらんだように芋ができています。思いもかけない方向に伸びていたりしますので、手でていねいに掘らないと、芋に傷をつけたり、つるの伸びていく先を見失ったりします。
今回の栽培では、全体の収量としては、種芋に使った量よりも少ないぐらいですけれど、何となくコツがつかめてきましたし、面白いので、来年も栽培してみたいです。

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木の種をまく

先月の31日から今月の3日にかけて、ナショナルトラスト・チコロナイの活動に参加してきました。畑で育てている苗木の植え替えと、10種類ぐらいの木の種を苗箱にまく作業をしました。
苗木は、植え替えをすると、丈夫になるそうです。大きくなった苗を選んで、来年の春に、山に移植する予定です。
木の種の中から、キハダとオヒョウニレとカツラの種を少しもらってきて、自宅でも、苗箱にまいてみました。

Kihadatane

これが、キハダ。この実を食べたり、木の内皮を煎じて胃腸薬をつくったりします。

Ohyoniretane

これは、オヒョウニレ。木の内皮を細く薄くはがして、紡いで糸をつくって、それを編めば、衣服をつくることができます。

Katsuratane

そして、これが、カツラ。木材として使われます。
木や草の名前を、実際に利用しながら、そして育てながら、少しずつ覚えていっているところです。

細く薄くはがしたオヒョウニレの内皮を、紡いで糸をつくっているところです。

Kaeka

窓際に下がっているのが、オヒョウニレの繊維です。
2本の繊維を、ひねりながらよっていきます。繊維の終わりのほうになったら、別の新しい繊維を重ねて、「クロスフェード」させて、どこまでもどこまでもより続けていって、あとで、必要な長さに切って利用します。

Saranip

これは、作品例。中にものを入れて運ぶ袋です。アイヌ語で「サラニプ」と呼ばれます。

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槌田敦『「地球生態学」で暮らそう』(ほたる出版)

この本には、エントロピー則に則った、持続可能な生態系をつくりだす方法が展開されています。森と農地と海の間で、必要な物質を循環させていこうではないか、と呼びかけているのです。

植物の栄養素(肥料分)がなければ、農地の作物は育ちません。これは、わたしも、以前、2年間ほど、丘の上の畑で栽培をやった経験から、よく知っています。無肥料で栽培ができる場所は、近くの森などから、何らかの栄養素(肥料分)が供給されています。
鳥や、川を遡ってくる魚など、野生の動物たちが、重力に逆らって、海から森へ栄養素を運びます。そして、その栄養素は、今度は重力に従って、水系を流れ下って、農地を肥やし、さらに、海の生物を育てることになります。
生きものが生きていく上で、なくてはならない物質に、鉄があります。窒素やリンがあっても、鉄がないために、プランクトンなどの生物が存在しない海域がたくさんあるそうです。鉄を、どのように上手に、生物が利用できる形にして活用していくかが、生態系を維持するポイントになるようです。

この本で紹介されていて、わたしも、もっと活用されたらいいと思った技術は、人間が食べない海産物を肥料として利用する、というのと、人間や家畜の糞尿を、ため池に入れて、コイや水草に処理させて、そのコイや水草を取り出して、やはり肥料として利用する、というものです。
森と農地と海の間で、このように物質を循環させれば、外部から肥料を輸入する必要はなくなり、自立した生態系を形成できるようになれるのです。
時間的にも、空間的にも、狭い範囲で観察したことを元に物事を考えると、何も問題がないように勘違いしてしまいがちですが、生態系は、ある意味「たやすく」崩壊して、砂漠化していきます。人間が与えてきた損害は、ため込まれています。森林伐採、ダム建設、そして農業……。未来のことを考えて、今のうちにやっておかなくてはならないことが、たくさんあるのです。

面白いと思ったのは、『みの虫革命』の中島正さんの考えを引き継ぎ、発展させているのだと思いますが、この本の著者の槌田さんも、自給以上の食料生産をしてはいけない、と考えているところです。つまり、農産物を自分たちが食べる以上に生産して、それを販売して生計を立てているプロの農家の存在は間違いである、というのです。余剰食料は、国家権力成立の源泉であって、余剰食料こそが、農民が支配される社会をもたらしたのだ、というのです。農民にとって農業は、自縄自縛なのですね。だから、プロの農家としては自己否定的な、しかし、自由に生きる人間としては自己肯定的な生き方が求められるわけです。そのような生き方を、槌田さんは、「半日自給農」という言葉で表現しています。

槌田さんは、また、安全保障の観点から、次のようにも言っています。

 国民が余剰食糧を生産しなければ、他の国々に狙われることも少ない。各家庭に隠されている食糧を探し出して徴発(強制的に取り上げること)するには手間がかかるから、完全徴発はできない。
 これは、かつてルソーがいった「幸福で平穏な共和国」、つまり「隣国の野心を誘発しない国」に相当する(ルソー『人間不平等起源論』1755)。

必要以上に働かない、あってもなくてもどうでもいいような無駄なものは最初から生産しない、これはある意味、知的で合理的な社会文化を目指す、ということなのでしょう。そういう社会は、もちろん、人口も少なくなっているはずです。『老子』にある「小国寡民」のイメージでしょうか。

槌田さんは、砂漠化を防止するために、科学技術といわゆる「自由貿易」にブレーキをかけよう、と呼びかけています。ひたすらに、生産性を向上させることを目指してきた近代農業のイデオロギーに毒されている人には、ぱっと読んで、何を言っているのかよく分からないかもしれません。食料備蓄=余剰価値の形成こそが、人間の文明の諸悪の根源なのですから、生産性を衰退させることは、人の生き方として正しいのです。必死になって食料生産してはいけません。消費することに酔い痴れてはいけません。やるべきことは、自然の恵みで楽して生きていけるような生態系をつくりだしていくことです。近代農業のイデオロギーを、壊されかかった自分の知性から引きはがして、正気を取り戻すためにも、この本を読んで、考え方をきちっと整理することを、わたしは強く強くお勧めします。

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小さな紅葉

Momiji

自宅の庭に、ブルーベリー、アロニア、ハスカップを鉢植えで植えてあるはずなのですが、放置状態で、ほとんど忘れていました。ふと目をやると、葉っぱを真っ赤にして、存在を主張していました。今の時期は、雪が積もる前に雪よけで囲ってやるぐらいで、特に何かできるというものでもありません。来年、雪がとけたら、大きめの鉢に移してあげようと思います。
まわりの緑は、コンパニオンプランツのつもりで植えたスペアミントです。

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カボチャ24きょうだい

Kabochakyodai

同じ一つのカボチャからとった種から生えてきたカボチャたちがつけた実です。見事に交雑していました。
先日の記事で、来年は種を買い直すと発言したのですが、気が変わりました。右上の一番大きい実から種をとることにします。基本、自家消費ですので、そろっていなくていいのです。いえ、そろっていないほうが、いろいろあって、楽しいかもしれません。
孫たちに、どんなふうなのが生まれてくるか、今から楽しみです。

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白鳥飛来

Hakuchoup

近所の、稲刈りが終わった田んぼに、白鳥の群れがやって来ていました。かなりの大群でした。

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ソラマメのひこばえ

Soramamehikobae

ソラマメなのですが、収穫が終わったので、根元からばっさり、鎌で刈り取ってあったのですが、根が生きていたらしく、また生えてきて、花まで咲きました。霜が降りる前に、実がつくところまでいけるでしょうか。
恐いぐらいのたくましさです。

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畝間1メートル

Komugiunema1m

秋まき小麦、芽が出てきました。
小麦は、当地では、このように条まきではなくて、全面まきに近いまき方をします。わたしは、畝間に1メートルをとりました。近所の人が見たら、なんて無駄な畑の使い方をしているのかと、驚くのではないかと思います。
いいのです。このぐらい畝間があったほうが、間を通って作業をするのが、しやすいのです。草刈りなど、刈り払い機を持って、ダーッと走れば、片付いてしまいます。やろうと思えば、耕耘機を入れて中耕もできます。
小麦だけではなくて、来年は、すべての作目で、畝間1メートルを標準にしようと思っています。秋まきの小麦と、先日植えたニンニクから、このルールを適用しています。
去年は50センチメートル、今年は75センチメートル、そして来年は1メートルと、畝間が年ごとに広がっていきます。いいのです。北海道には、余っている畑地は、いっぱいあるのですから。
今年は、草の勢いに負けて、作物が日陰になって、熟度にばらつきができて、収穫できなくて、無駄になった作物が多かったです(豆類など)。来年は、そういう無駄をなくして、さらに、作業の軽減化をも目指します。

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今年も、キクイモを販売します

Kikuimotohuku

強風で倒伏したキクイモを掘り出してみました。芋が食べられる大きさに育っていました。
今年も、キクイモを販売します。ご希望の方は、栽培生活の「会員頒布」のページから、お申し込みください。

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