« 2007年11月 | トップページ | 2008年2月 »

2008年1月

中島正『都市を滅ぼせ―人類を救う最後の選択』(舞字社)

中島正さんの本を4冊、読みました。発行された順に並べてみます。

中島正『増補版 自然卵養鶏法』(農文協)1980年 増補版2003年
中島正『みの虫革命―独立農民の書』(十月社出版)1886年
中島正『都市を滅ぼせ―人類を救う最後の選択』(舞字社)1994年
中島正『農家が教える 自給農業のはじめ方』(農文協)2007年

4冊とも、基本的な考え方は同じで、中島さん自身の経験に基づいて、自然卵養鶏を中心に、自給的農業をはじめることを勧めています。重点の置き方が違うだけで、主張そのものは、一貫しています。
家庭菜園、または自給的農業をはじめたい人は、『農家が教える 自給農業のはじめ方』を読むといいと思います。実用的で、これ1冊を参考にするだけでも、かなりうまく農業をはじめられるのではないかと思います。

中島さんは、ずっと、化成資材(ビニールやポリエチレンなど)からの独立を唱えていますが、『農家が教える 自給農業のはじめ方』で、初めて、「ポリマルチ」の使用を勧めています。それも、稲や小麦の栽培にポリマルチの使用を勧めています。ちょこっと、引用します。

 それは、ポリマルチ(以下、マルチ)という農協やホームセンターで売っている、ビニール製の覆土資材の利用である。文明の恩恵にはなるべく依存したくないが、この一つくらいは目をつむって容認し、やってみるとよい。
(『農家が教える 自給農業のはじめ方』)

「文明の恩恵に依存したくない」という言い方が、慣れない人には違和を感じるかもしれませんが、中島さんの本をずっと読んでくると、よーく、意味が分かってくるようになります。とにかく、中島さんがポリマルチを容認するようになったということに、「人間が丸くなったなあ」という印象を持ちました。
ポリマルチは、草を抑えるための資材ですが、寒冷地では、地温確保の意味合いが強くなります。草は、保水などの機能で、それ自体ポリマルチの役割りを果たすのですが(本当は逆で、ポリマルチが草のまねをしているのですが…)、夏場の植物の成長期に、作物のまわりに草が生えていると、地温があがりにくく、作物の成長が鈍る、という弱点があります。草マルチのかわりにポリマルチを使うと、その弱点を補うことができます。
ふつう、稲や小麦の栽培には、ポリマルチを使いません。それを、あえて使うように勧めているところが、驚かされます。そして、稲は、陸稲をつくるように勧めています。水がなくても主食がつくれるのは、ありがたいことです。本には、陸稲の種の入手先まで紹介されています。かゆいところに手が届くような、自給農業の入門書になっています。

『農家が教える 自給農業のはじめ方』や『増補版 自然卵養鶏法』は、いわば「実践編」で、「理論編」と言えるのが、『みの虫革命―独立農民の書』や『都市を滅ぼせ―人類を救う最後の選択』です。以下、その「理論編」のほうについて考えてみたいと思います。
なお、『みの虫革命―独立農民の書』は、書店では、手に入りにくいと思います。わたしは、「自然卵ネットワーク」のホームページから申し込んで、送ってもらいました。リンクしたトップページから、「ニュース」のページに進み、さらに「社会と出版情報」のページへ進むと、案内があります。「残部僅少」だそうですので、気になる方は、お早めに。

中島さんの問題意識は、二つに分けて考えられると思います。一つは、地球の自然環境の危機で、もう一つは、農村が収奪され続けているということです。そして、この二つは、どちらも都市が、その根本原因だとしています。
中島さんは、都市がもたらす自然環境の危機について、次のような項目をあげます。

森林を破壊する
農地を収奪する
大地や海岸をコンクリートでおおい、保水、汚物浄化などの機能をうばう
エネルギーや金属資源を浪費する
水を過大に消費する
大気を汚染する
オゾン層を破壊する
ごみ・汚泥・汚排水を垂れ流す
商品・サービスを氾濫させる
戦争をしかける

そして、さらに都市は、農村の自然の力や、農民が食料生産をする労働を収奪している、と言います。中島さんの考えでは、都市からもたらされるものは、本来不要で、害悪にしかならないものばかりだ、ということになります。そして、さらに都市は、生きるためには絶対に必要な食料を、農村から一方的に収奪している、と言うのです。
インドのカースト制で言えば、農耕・畜産・酪農民は、シュードラ、つまり、奴隷にあたりますが、日本でも、農民は昔から下層でして、しかも、ほぼ世襲制なので、インドと似たような事情にあります。広い田んぼを所有していて、大きな機械も所有していて、大量の農産物を出荷していながら、同時に膨大な負債を抱えていて、営農も生活も、「指導」されるとおりにしかできない、奴隷に見えない「奴隷」の方が、おおぜいいます。

農薬や農業機械で命を落とす人も、おおぜいいますす。わたしも、拓殖短大の新規就農コースの1年めの、農家へ行っての実地研修のときに、トラクターに乗って、棚田状の田んぼの「代かき」をやっていたのですが、長時間続くトラクターの騒音と単調な振動とで意識がしびれてきたころ、そこに正面から、目くらましのように暖かい陽がさしてきて、一瞬、睡魔に襲われたことがありました。次の瞬間、棚田の山側の土手にトラクターをぶつけて止まっているのに気がつきました。もしあれが、谷側へ進んでいるときだったら、トラクターごと転落して、死んでいたかもしれません。近代的な農作業は、多くの場面で、危険と隣り合わせです。

自然環境の危機と、農民からの収奪、これらの事柄について、どれぐらい深刻さを感じることができるかが、この、都市を批判する思想を理解できるかどうかの鍵になると思います。農村に住んでいる人のほうが、よく分かるのではないかと思います。足を踏まれる痛みは、踏んでいる人よりも、踏まれている人のほうが、よく分かりますから。
さて、ここで、中島さんは、安藤昌益の「直耕」の思想を援用します。

耕サズシテ貪リ食フハ、天地ノ真道ヲ盗ム大罪人ナリ。聖釈、学者、大賢トイヘドモ、盗人ハ乃チ賊人ナリ。
聖人トハ罪人ノ異名ナリ。君子ト云フハ道盗ノ大将ナリ。帝聖ト云フハ強盗ノ異名ナリ。
思ヒ知レ、後世ノ人、馬糞ト謂(イ)ハルトイヘドモ聖釈トハ謂ハルベカラズ。馬糞ハ益アリ。
即チ、コレヲ刑シテ、教フルニ足ラズ。タダ刑スベキモノハ聖人ノ失(アヤマ)リナリ。

自分では食料生産をしないで、農村から収奪するだけの都市住民は、教育しても無駄だから、処刑してしまえ、ということです。ひっとらえて獄舎につなぎ、「ソノ首ヲ斬ラント思フベキナリ」なんだそうです。

この、都市解体の思想を実践した人がいます。クメール・ルージュ(民主カンプチア)のリーダー、ポル・ポトです。貨幣を廃止して、都市住民を強制的に農村に移住させて、全員に農作業をさせました。この、貨幣の廃止と、都市住民を帰農させる考え方は、安藤昌益の本に、そっくりそのままに出ています。安藤は、実行できなかったけれど、ポル・ポトは実行した、という違いです。そして、ポル・ポトの革命は、どういう経緯だったのかは、よく知らないのですが、結局失敗して、その間、おおぜいの人が虐殺されて、ポル・ポトは「悪の権化」みたいな評価になっています。

こういう、安藤昌益やポル・ポトのような、イクところまでイッてしまう思想家は、こちらの日和見さ加減を逆照射してくれる、じつにありがたい存在だと思います。

中島さんは、安藤昌益やポル・ポトの考え方を高く評価しています。では、中島さんも、暴力的な革命を目指しているのかと言うと、ちょっと違います。中島さんは、自身が目指している運動を、「みの虫革命」と呼んでいます。どういうことかと言うと、みの虫がみのをつくって周囲から独立するように、農民も、周囲との関係を断ち切って、独立しなさい、という考え方です。引用します。

 すなわち、農業の自立と個の独立を果たすことによって、不耕起集団との絶縁(大量供給の拒否)を図るのである。これは百年の河清をまつ必要はなく、今すぐだれでも容易に、その気になったとき即日実践が可能であるのだ(もちろん耐乏は覚悟の上、耐乏がなければ浪費破壊汚染の防止は不可能と知るべし)。
 かくのごとくにしてここに独立農民が一人誕生すれば、その分確実に不耕(汚染破壊)人口を駆逐することができるのである(当然その分汚染源を減少させることが可能)。
 そしてそういう独立農業の「集積」が、やがて社会変革をもたらすに至る――これを「みの虫革命」というのである。
(『みの虫革命―独立農民の書』)

「不耕起集団」というのは、都市住民のことで、自然農の人たちのことではありません。念のため。
続いて、このような「みの虫革命」は、何からの独立なのか、ということに触れている部分を引用します。

独立農業とは貨幣からの独立であることを意味し、貨幣からの独立とはそのまま都市からの独立であることを意味する。そして都市からの独立とは、行政からの独立や農協からの独立、メーカーやサービス業からの独立、さらには極言すれば消費者からの独立をも意味するのである。買っていただいているのではなく、食べた(自給した)残りを恵んでやっているのであるから、それを停止することが即ち消費者からの独立を意味するのである。
(『都市を滅ぼせ―人類を救う最後の選択』)

この「みの虫革命」は、政治・経済に関する思考を、根底からゆさぶる破壊力を持っています。たとえば、消費税をどうするかとか、年金制度をどうすかとかいったことでも、お金を廃止してしまうのですから、そんなのはどうでもよくなってしまうのだと思います。食べ物は、自分で栽培すれば、いくらでもありますから、何も思いわずらうことはないはずです。
観光産業(グリーンツーリズムとか)なんかも、都市住民にこびへつらうことですから、なくなることになると思います。だいたい、ジェット機に乗せてお客をつれてこようと考えるなんて、環境破壊もいいところです。ジェット機といえば、ジェット機に乗って、世界を飛び回って、「講演パフォーマンス」をしまくって、環境にいいことをしたと、ノーベル平和賞をもらった人がいましたねえ。

さて、このような「みの虫革命」は、しゅくしゅくと進められなくてはならないと思います。急激に暴力的に革命を進めようとすると、暴力勝負なら負けないぞ、という短気な人たちが、反動派には、たくさんいますから、結局つぶされてしまうのではないかと思います。
やはり、教育しても無駄のような、「処刑するしかないような」、どうしようもないような人たちを相手に、根気強く教育し続けなくてはいけないのかもしれません。
そんな悠長なことをしていたら、地球が壊れてしまう、と心配されるかもしれませんが、未来というものは、どう転んでも、なるようにしかならないのですから、わたしたちはやはり、やれることをこつこつとやっていくしかないのです。早まってはいけません。

それともう一つ、大化の改新をどう評価するか、ということがあると思います。安藤昌益は、国が年貢をとりはじめた、悪のはじまり、と、とらえますが、中島さんは名前をあげていませんが、たとえば権藤成卿などは、律令制を、統一された制度で国民に農地を貸し出す制度として評価します。
おそらく、現状認識としては、安藤昌益のほうが正しいのでしょう。そして、「みの虫革命」がうまく進行していったあかつきには、国が、今のような国ではなくなって、年貢をとらない律令制(?)のようなものにかわっていくのかもしれません。

ただ、「みの虫革命」自体は非暴力でも、都市住民の教育が進む前に、農村への流入者が増えていって、無視できなくなっていった場合、残った都市住民(不耕貪食の徒)が牙をむいてくる恐れがないとも言えないので、いろいろな場合をシミュレートして、混乱が最小になるように準備しておきたいと思います。

以上のような、中島さんの「みの虫革命」の考え方は、こまかいところでは、まだ議論を詰めなくてはいけないところがありそうですが、大筋においては、わたしも賛同します。

わたしの今年の畑は、去年に比べて、規模を縮小しなくてはならなくなりました。去年までの畑の状況では、インターネットで注文を受け付けて、野菜の詰め合わせを発送することで、商売しようかと思っていました。しかし、今年の狭い畑では、自給的な農業しかできないなあと、いじけたような気持ちでいたのですが、そんなときに、中島さんの本を読んだところ、自給的な農業こそが、いいことなのだ、ということに気づかされて、今では、自分の農業のやり方に自信が持てる、前向きな気持ちになることができました。これは、わたしにとって、大収穫なのでした。

中島さんは、自給的な農業をはじめるには、自然卵養鶏を中心にするとやりやすい、と言います。でも、わたしは、自然卵養鶏をやりたいとは思いません。わたしが、2年めの農業研修の最後の2カ月間でお世話になった研修先が、まさにこの、自然卵養鶏を中心にして新規就農した農家だったので、この方法が新規就農に有効であることは、まのあたりに見て知っています。
わたしが自然卵養鶏をしないのは、一つには、玉子がきらいだからです。こういう「すき・きらい」をばかにするのは、よくありません。わたしは、三十数年間、自炊をしてきましたが、一度も玉子を買ったことがありません。ぬるぬるした、ヒヨコの元だと思うと、とても食べる気になりません。マヨネーズも、買ったことがありません。
ついでに言うと、わたしは肉も、あまりすきではありません。子どものころに、近所に養豚場があって、ブタがどんなものか知っていたので、食べたくありませんでした。ある日、小学校の教師が、給食で肉を残していたわたしに、給食指導だとか言って、無理に食べさせようとしたところ、気持ち悪くなって、わたしは食べたものを、お膳の上に全部はいてしまったことがあります。

人間とニワトリとの関係も、いい関係だとは思えません。自然卵養鶏農家での研修中、玉子集めをよくしたのですが、こちらがどんなに気配を消して近づいても、ニワトリたちは攻撃してきます。わたしたち人間は、ニワトリたちにしてみれば、自分たちが産んだ玉子を横どりにするドロボウなわけですから、そりゃ、憎らしいでしょう。気が立っているときのニワトリは、とても危険です。

それから、ニワトリの生態で、集団の中で強い・弱いの序列ができて、一番弱い個体が、死ぬまでつつきまわされる、というのが、見ていてたまりませんでした。お尻をつついて、内臓を引き出したりします。一番弱いのが死ぬと、今度はその次に弱いのが、ターゲットにされます。
歳をとって玉子の産みが悪くなったニワトリは、廃鶏といって、まとめて処分されますが、あれも、露骨に打算的で、いやな感じです。もともと、人間の食料生産のために飼われている生き物なのですから、そういう感傷は無用なのでしょうけれど……。

もう一つ、生き物を飼うと、家から離れられなくなる、というマイナスもあります。泊りがけでどこかへ出かける、ということができなくなります。このことは、例の、自然卵養鶏の農家さんが言っていたのですが、ウシでもブタでも、家畜を飼っているところでは、みんなそう言いますね、「出かけられない」って。

と、なんだかんだで、わたしとしては、できればニワトリはパスしたい気持ちが、99%ぐらいあります。土質改良のための、おまじない程度のボカシ肥以外は、無肥料の方向で行きたいと思っているので、肥料としての鶏糞がほしいとも思いませんし、ニワトリって、ケッコー鳴いて、うるさいですし。

中島さんは陸稲と小麦を栽培して、自給自足することを勧めます。わたしは、陸稲の種は、旭川産のものを、「さる筋」から入手したので、稲・小麦・大豆といった、主食級の作物は、今年からは、ほぼ自給できるのではないかと、期待しています。あと、野菜は、食べきれないほど超豊作にならない限り、売る必要がありませんので、自分が食べたい作目だけを、ちょろっと、つくろうと思っています。がんばらないで、ほどほどにやっていくつもりです。

【追記】
今、思いついたのですが、「つつかれ専用」の、ロボットニワトリって、つくったら、売れないですかね? センサーを装備しておいて、つつかれると、ギャーギャー泣きながら、逃げ回るようにプログラムしておくの。鶏舎の中での、情けないつつかれ役を、一手に引き受けるんだけど、じつは筐体が丈夫な超合金でできていて、見かけの弱っちさに反して、どんなにいじめても、絶対に死なないの。弱くて強いぞ、ロボコケッコ! あ、名前は、「ロボコケッコ」にしようと思います。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

ブッダの戦争観

前回、「聖書」の戦争観を見ましたので、比較の意味で、今回は、ブッダの戦争観を見てみたいと思います。(って、これ、何のブログだ? 興味のない方は、とばしてください。)

「相応部経典」に「戦いについての二つの語」という、短い二つの、対になるお経があります。はじめのほうは、マガダ国のアジャータサッツ王がコーサラ国のパセーナディ王に対して、カーシ国に攻め入ったため、パセーナディ王もカーシ国で迎え撃ったのですが、このときはパセーナディ王が負けて、都城のサーヴァッティーに逃げ帰ってきた、という状況です。ブッダや弟子たちはサーヴァッティーにいます。パセーナディ王は、日ごろ、よくブッダの説法を聞いて、影響を受けています。
サーヴァッティーの、ブッダたちの様子を描くところから、引用します。

 その時、おおくの比丘たちは、朝はやく、衣をつけ、鉢をもって、サーヴァッティーに入った。彼らは、サーヴァッティーに托鉢し、食をおえて、鉢を置くと、世尊のいますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐した彼ら比丘たちは、世尊に申しあげた。
「世尊よ、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王と、コーサラの国のパセーナディ王とが戦いました。その戦いにおいて、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、コーサラの国のパセーナディ王を破りました。コーサラの国のパセーナディ王は、その都城なるサーヴァッティーに逃げ帰りました」
「比丘たちよ、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、悪しき友、悪しき仲間、悪しき取巻きをもつ。比丘たちよ、コーサラの国のパセーナディ王は、善き友、善き仲間、善き取巻きをもつ。だが、比丘たちよ、コーサラの国のパセーナディ王は、今夜は、敗者として苦しい眠りをねむらねばならないだろう」
そして、世尊は、このように仰せられた。
「勝利は怨みを生み
 敗れては苦しくねむる
 ただ勝敗を捨てさってこそ
 静けく楽しくもねむるであろう」
(増谷文雄訳『阿含経典第四巻』筑摩書房)

と、まあ、世の中、必ずしも「正義が勝つ」わけではないわけです。もっとも、この場合、パセーナディ王は、「正義」のために戦争したのではなくて、攻めてこられたから、受けてたっただけなのですが。
ブッダは、負けたパセーナディ王の苦しみを気遣いながらも、「負けたからと言って、怨んじゃいけないんだ」ということを言っているわけです。
さて、対になるお経のあとのほうですが、また戦いが起きます。またしても、マガダ国のアジャータサッツ王と、コーサラ国のパセーナディ王との戦いです。今回は、パセーナディ王のほうが勝って、アジャータサッツ王は捕えられますが、やがて釈放されます。
戦場のカーシ国から、ブッダたちがいるサーヴァッティーに場面が切り替わるところから、引用します。

 その時、おおくの比丘たちは、朝はやく、衣をつけ、鉢をもって、サーヴァッティーに入った。彼らは、サーヴァッティーに托鉢し、食事をおえて、鉢を置くと、世尊のいますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐した彼ら比丘たちは、世尊に申しあげた。
「世尊よ、マガダの国のヴェーデーヒーの子アジャータサッツ王は、四軍をひきいて、コーサラの国のパセーナディ王に対し、カーシの国に攻め入りました。コーサラの国のパセーナディ王は、それを聞いて、王もまた四軍をひいて、これを迎え撃ちました。そして、その戦において、コーサラの国のパセーナディ王は、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王を破り、彼を生擒(いけどり)にしました。世尊よ、そこでコーサラの国のパセーナディ王は、かように考えました。〈このマガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、たとえ、なんの害も加えないわたしに害を加えようとするのであるとはいえ、やっぱり彼はわたしにとっては甥である。わたしは、むしろ、彼から彼のすべての象軍・馬軍・車軍・歩軍を奪い去って、そのうえで彼を放つこととしよう〉と。世尊よ、かくて、コーサラの国のパセーナディ王は、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王から、その四軍のすべてを奪い去って、彼を釈放いたしました」
その時、世尊は、そのことの意味を知って、つぎのような偈を誦したもうた。
「おのれに利のあるかぎり
 人は他を掠(かす)めてやまず
 また、他に掠めらるれば
 彼もまた掠(と)りかえす
 愚者はその悪のみのらざるかぎり
 そを当然のことと思う
 されど、ついにその悪のみのるとき
 彼はその苦しみを受けねばならぬ
 他を殺せば、おのれを殺すものを得
 他に勝てば、おのれに勝つものを得
 他を譏(そし)れば、おのれを譏るものを得
 他を悩ませば、おのれを悩ますものを得
 かくて業(ごう)の車は転がり転がって
 彼は掠めてはまた掠めとらる」
(出典同上)

これで、このお経は、終わりです。怒り・憎しみの気持ちを持てば、それはいつか必ず自分に向かってもどってきますよ、と。荒んだ感情の応酬はやめて、心の平安を求めなさい、と。そういうことですね。アジャータサッツ王は、一度は捕えられながらも、生きて帰れたのですから、これを教訓に、もう戦争をしようとしなくなるといいですね。

このお経はこれで終わりなのですが、インドに仏教を復興させた、あのビーム・ラーオ・アンベードカルが、この続きの話を書いています。たぶん、アンベードカルの創作だと思いますが、感動的なので、引用します。

 平和を勝ちとった勝者は、被征服民を奴隷化させないまでも屈辱を与える権利があると主張する。しかしブッダは全く違った考えを持っていた。平和に意味があるとすれば、勝者が打ち負かした相手の向上のためにその勝利を利用することにある。ビクたちにこう語った。
 「平和がもたらされた暁には、戦争の熟練者たちは有能で正しい人間として、丁寧な言葉、思いやりある態度、謙虚で打ちとけた、感じのいい客人として振舞い、出しゃばらず感官を制御して、賢く、人を脅かしたりしない人であらねばならない。厳しい制裁をもって卑屈な態度で膝まずかせてはならない。
 全てのものが幸せと平和に暮らし、強者も弱者も、身分の高いものも低いものも、遠くに住むものも近くにいるものも、生れたもの、これから生れてくるであろうものも、全てが平和に暮らせるようでなければならない。
 誰も仲間にへつらったり軽蔑したりせず、怒りや憎しみで他人を傷つけようとさせたりしてはならない。
 母親が我が子を命がけで庇おうとするように、生けるもの全てを我が子と思う心を抱き、全世界への愛、内に憎しみをもたぬ汚れなき、敵意を起こさせない愛を抱かしめよ。
 このように、汝らは立つ時も歩く時も、坐ったり横になったりする時も常に全力をもってこのことを考えよ。〝これが清らかな状態である〟」
(R.B.アンベードカル著 山際素男訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書)

絶対者に求め、与えられる平和ではなくて、ひとりひとりが全力で考えて、実現していく平和であることと、強者も弱者もある、身分の高いものも低いものもある、つまり、絶対者の下の平等=均等(イクオリティ)ではない、多様であることが許される世界にしようと、呼びかけているところが、ポイントです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「戦争について」

11月30日のエントリーで、日本の農業がおかれているきびしい状況を生き延びるためにも、アメリカ人の集団の無意識を通して大きな影響を与えている、ユダヤ・キリスト教文化について、批判的に考察しなければならないことを言って、さらにコメントで、ニーチェ、フロイト、マックス・ヴェーバーなんかを勉強しなくては……と、自分で課題を定めたのですが、なまけもので、まだ1冊も読んでいません(一応、買ってはあるのですが……)。で、とりあえずきょうは、このあたりの諸般の事情の総責任者である、「聖書」の言葉を引用して、問題提起に替えたいと思います。とりあえず、です。すみません。

「聖書」の中に、「戦争について」という見出しがつけられた文があるのを、皆さんはご存じでしょうか。本当に、こういう見出しがついているのですよ。「聖書」を持っている方は、確認してみてください。引用しますね。

戦争について

 ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられる敵の分捕り品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠く離れた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業(しぎょう)として与えられたる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあたなたちに教えて行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである。
新共同訳聖書 申命記 20.10-18)

以上の内容を一口に言ってしまえば、神によって下された、「異民族(異教徒)は、これを滅ぼしつくせ」という命令です。近くの国を攻めたら、必ず滅ぼしつくさなくてはならない、と。なぜなら、異教の神を信じないようにするためだ、と。そして、遠くの国は、降伏すれば、全員奴隷にして強制労働、降伏しなければ、男は皆殺しにして、女、子ども、家畜その他の財産は、ぶんどって、すきなようにしてよろしい、と、そういうことです。これが、「聖書」が教える、戦争のやり方です。
内政干渉をして、法律を変えさせて、食料を人質にして、自分たちの利益をごり押ししてくる相手国民の、そのメンタリティを規定するのに絶大な力を及ぼす宗教文化が、どのようなものか、理解しておくのは、絶対に必要なことです。
「聖書」を読めば、神が人間を、大量に、残虐に、殺しまくっていること、殺せと命令しまくっていることが、はっきりと書いてあります。このような血なまぐさい「聖書」を拠り所にする宗教が粗暴な性格になるのは、なんとも止めがたいものです。ユダヤ・キリスト教を、「愛と平和の宗教だ」などと言うのは、「聖書」のごくごく一部の表現だけを取り出して、極端に歪めた解釈だとしか、わたしは思えません。素直な気持ちで「聖書」を読めば、その暴力性は、明らかです。
だから、ユダヤ・キリスト教徒をやっつけちゃえ!などと言い出したら、向こうと同じレベルになってしまいます。病気は治療するべきなのであって、病人をいじめるのは、お門違いです。ユダヤ・キリスト教徒の皆さんが患っている病気を、彼らに自覚してもらって、どうやったら無害化していくことができるか、その道筋を、みんなで知恵を合わせて、考えていこうではありませんか。

【関連記事】
矢部正範・右京零『爆笑トリビア 解体聖書』コアラブックス

| | コメント (7) | トラックバック (1)

« 2007年11月 | トップページ | 2008年2月 »