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ブッダの戦争観

前回、「聖書」の戦争観を見ましたので、比較の意味で、今回は、ブッダの戦争観を見てみたいと思います。(って、これ、何のブログだ? 興味のない方は、とばしてください。)

「相応部経典」に「戦いについての二つの語」という、短い二つの、対になるお経があります。はじめのほうは、マガダ国のアジャータサッツ王がコーサラ国のパセーナディ王に対して、カーシ国に攻め入ったため、パセーナディ王もカーシ国で迎え撃ったのですが、このときはパセーナディ王が負けて、都城のサーヴァッティーに逃げ帰ってきた、という状況です。ブッダや弟子たちはサーヴァッティーにいます。パセーナディ王は、日ごろ、よくブッダの説法を聞いて、影響を受けています。
サーヴァッティーの、ブッダたちの様子を描くところから、引用します。

 その時、おおくの比丘たちは、朝はやく、衣をつけ、鉢をもって、サーヴァッティーに入った。彼らは、サーヴァッティーに托鉢し、食をおえて、鉢を置くと、世尊のいますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐した彼ら比丘たちは、世尊に申しあげた。
「世尊よ、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王と、コーサラの国のパセーナディ王とが戦いました。その戦いにおいて、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、コーサラの国のパセーナディ王を破りました。コーサラの国のパセーナディ王は、その都城なるサーヴァッティーに逃げ帰りました」
「比丘たちよ、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、悪しき友、悪しき仲間、悪しき取巻きをもつ。比丘たちよ、コーサラの国のパセーナディ王は、善き友、善き仲間、善き取巻きをもつ。だが、比丘たちよ、コーサラの国のパセーナディ王は、今夜は、敗者として苦しい眠りをねむらねばならないだろう」
そして、世尊は、このように仰せられた。
「勝利は怨みを生み
 敗れては苦しくねむる
 ただ勝敗を捨てさってこそ
 静けく楽しくもねむるであろう」
(増谷文雄訳『阿含経典第四巻』筑摩書房)

と、まあ、世の中、必ずしも「正義が勝つ」わけではないわけです。もっとも、この場合、パセーナディ王は、「正義」のために戦争したのではなくて、攻めてこられたから、受けてたっただけなのですが。
ブッダは、負けたパセーナディ王の苦しみを気遣いながらも、「負けたからと言って、怨んじゃいけないんだ」ということを言っているわけです。
さて、対になるお経のあとのほうですが、また戦いが起きます。またしても、マガダ国のアジャータサッツ王と、コーサラ国のパセーナディ王との戦いです。今回は、パセーナディ王のほうが勝って、アジャータサッツ王は捕えられますが、やがて釈放されます。
戦場のカーシ国から、ブッダたちがいるサーヴァッティーに場面が切り替わるところから、引用します。

 その時、おおくの比丘たちは、朝はやく、衣をつけ、鉢をもって、サーヴァッティーに入った。彼らは、サーヴァッティーに托鉢し、食事をおえて、鉢を置くと、世尊のいますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐した彼ら比丘たちは、世尊に申しあげた。
「世尊よ、マガダの国のヴェーデーヒーの子アジャータサッツ王は、四軍をひきいて、コーサラの国のパセーナディ王に対し、カーシの国に攻め入りました。コーサラの国のパセーナディ王は、それを聞いて、王もまた四軍をひいて、これを迎え撃ちました。そして、その戦において、コーサラの国のパセーナディ王は、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王を破り、彼を生擒(いけどり)にしました。世尊よ、そこでコーサラの国のパセーナディ王は、かように考えました。〈このマガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、たとえ、なんの害も加えないわたしに害を加えようとするのであるとはいえ、やっぱり彼はわたしにとっては甥である。わたしは、むしろ、彼から彼のすべての象軍・馬軍・車軍・歩軍を奪い去って、そのうえで彼を放つこととしよう〉と。世尊よ、かくて、コーサラの国のパセーナディ王は、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王から、その四軍のすべてを奪い去って、彼を釈放いたしました」
その時、世尊は、そのことの意味を知って、つぎのような偈を誦したもうた。
「おのれに利のあるかぎり
 人は他を掠(かす)めてやまず
 また、他に掠めらるれば
 彼もまた掠(と)りかえす
 愚者はその悪のみのらざるかぎり
 そを当然のことと思う
 されど、ついにその悪のみのるとき
 彼はその苦しみを受けねばならぬ
 他を殺せば、おのれを殺すものを得
 他に勝てば、おのれに勝つものを得
 他を譏(そし)れば、おのれを譏るものを得
 他を悩ませば、おのれを悩ますものを得
 かくて業(ごう)の車は転がり転がって
 彼は掠めてはまた掠めとらる」
(出典同上)

これで、このお経は、終わりです。怒り・憎しみの気持ちを持てば、それはいつか必ず自分に向かってもどってきますよ、と。荒んだ感情の応酬はやめて、心の平安を求めなさい、と。そういうことですね。アジャータサッツ王は、一度は捕えられながらも、生きて帰れたのですから、これを教訓に、もう戦争をしようとしなくなるといいですね。

このお経はこれで終わりなのですが、インドに仏教を復興させた、あのビーム・ラーオ・アンベードカルが、この続きの話を書いています。たぶん、アンベードカルの創作だと思いますが、感動的なので、引用します。

 平和を勝ちとった勝者は、被征服民を奴隷化させないまでも屈辱を与える権利があると主張する。しかしブッダは全く違った考えを持っていた。平和に意味があるとすれば、勝者が打ち負かした相手の向上のためにその勝利を利用することにある。ビクたちにこう語った。
 「平和がもたらされた暁には、戦争の熟練者たちは有能で正しい人間として、丁寧な言葉、思いやりある態度、謙虚で打ちとけた、感じのいい客人として振舞い、出しゃばらず感官を制御して、賢く、人を脅かしたりしない人であらねばならない。厳しい制裁をもって卑屈な態度で膝まずかせてはならない。
 全てのものが幸せと平和に暮らし、強者も弱者も、身分の高いものも低いものも、遠くに住むものも近くにいるものも、生れたもの、これから生れてくるであろうものも、全てが平和に暮らせるようでなければならない。
 誰も仲間にへつらったり軽蔑したりせず、怒りや憎しみで他人を傷つけようとさせたりしてはならない。
 母親が我が子を命がけで庇おうとするように、生けるもの全てを我が子と思う心を抱き、全世界への愛、内に憎しみをもたぬ汚れなき、敵意を起こさせない愛を抱かしめよ。
 このように、汝らは立つ時も歩く時も、坐ったり横になったりする時も常に全力をもってこのことを考えよ。〝これが清らかな状態である〟」
(R.B.アンベードカル著 山際素男訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書)

絶対者に求め、与えられる平和ではなくて、ひとりひとりが全力で考えて、実現していく平和であることと、強者も弱者もある、身分の高いものも低いものもある、つまり、絶対者の下の平等=均等(イクオリティ)ではない、多様であることが許される世界にしようと、呼びかけているところが、ポイントです。

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