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中島正『都市を滅ぼせ―人類を救う最後の選択』(舞字社)

中島正さんの本を4冊、読みました。発行された順に並べてみます。

中島正『増補版 自然卵養鶏法』(農文協)1980年 増補版2003年
中島正『みの虫革命―独立農民の書』(十月社出版)1886年
中島正『都市を滅ぼせ―人類を救う最後の選択』(舞字社)1994年
中島正『農家が教える 自給農業のはじめ方』(農文協)2007年

4冊とも、基本的な考え方は同じで、中島さん自身の経験に基づいて、自然卵養鶏を中心に、自給的農業をはじめることを勧めています。重点の置き方が違うだけで、主張そのものは、一貫しています。
家庭菜園、または自給的農業をはじめたい人は、『農家が教える 自給農業のはじめ方』を読むといいと思います。実用的で、これ1冊を参考にするだけでも、かなりうまく農業をはじめられるのではないかと思います。

中島さんは、ずっと、化成資材(ビニールやポリエチレンなど)からの独立を唱えていますが、『農家が教える 自給農業のはじめ方』で、初めて、「ポリマルチ」の使用を勧めています。それも、稲や小麦の栽培にポリマルチの使用を勧めています。ちょこっと、引用します。

 それは、ポリマルチ(以下、マルチ)という農協やホームセンターで売っている、ビニール製の覆土資材の利用である。文明の恩恵にはなるべく依存したくないが、この一つくらいは目をつむって容認し、やってみるとよい。
(『農家が教える 自給農業のはじめ方』)

「文明の恩恵に依存したくない」という言い方が、慣れない人には違和を感じるかもしれませんが、中島さんの本をずっと読んでくると、よーく、意味が分かってくるようになります。とにかく、中島さんがポリマルチを容認するようになったということに、「人間が丸くなったなあ」という印象を持ちました。
ポリマルチは、草を抑えるための資材ですが、寒冷地では、地温確保の意味合いが強くなります。草は、保水などの機能で、それ自体ポリマルチの役割りを果たすのですが(本当は逆で、ポリマルチが草のまねをしているのですが…)、夏場の植物の成長期に、作物のまわりに草が生えていると、地温があがりにくく、作物の成長が鈍る、という弱点があります。草マルチのかわりにポリマルチを使うと、その弱点を補うことができます。
ふつう、稲や小麦の栽培には、ポリマルチを使いません。それを、あえて使うように勧めているところが、驚かされます。そして、稲は、陸稲をつくるように勧めています。水がなくても主食がつくれるのは、ありがたいことです。本には、陸稲の種の入手先まで紹介されています。かゆいところに手が届くような、自給農業の入門書になっています。

『農家が教える 自給農業のはじめ方』や『増補版 自然卵養鶏法』は、いわば「実践編」で、「理論編」と言えるのが、『みの虫革命―独立農民の書』や『都市を滅ぼせ―人類を救う最後の選択』です。以下、その「理論編」のほうについて考えてみたいと思います。
なお、『みの虫革命―独立農民の書』は、書店では、手に入りにくいと思います。わたしは、「自然卵ネットワーク」のホームページから申し込んで、送ってもらいました。リンクしたトップページから、「ニュース」のページに進み、さらに「社会と出版情報」のページへ進むと、案内があります。「残部僅少」だそうですので、気になる方は、お早めに。

中島さんの問題意識は、二つに分けて考えられると思います。一つは、地球の自然環境の危機で、もう一つは、農村が収奪され続けているということです。そして、この二つは、どちらも都市が、その根本原因だとしています。
中島さんは、都市がもたらす自然環境の危機について、次のような項目をあげます。

森林を破壊する
農地を収奪する
大地や海岸をコンクリートでおおい、保水、汚物浄化などの機能をうばう
エネルギーや金属資源を浪費する
水を過大に消費する
大気を汚染する
オゾン層を破壊する
ごみ・汚泥・汚排水を垂れ流す
商品・サービスを氾濫させる
戦争をしかける

そして、さらに都市は、農村の自然の力や、農民が食料生産をする労働を収奪している、と言います。中島さんの考えでは、都市からもたらされるものは、本来不要で、害悪にしかならないものばかりだ、ということになります。そして、さらに都市は、生きるためには絶対に必要な食料を、農村から一方的に収奪している、と言うのです。
インドのカースト制で言えば、農耕・畜産・酪農民は、シュードラ、つまり、奴隷にあたりますが、日本でも、農民は昔から下層でして、しかも、ほぼ世襲制なので、インドと似たような事情にあります。広い田んぼを所有していて、大きな機械も所有していて、大量の農産物を出荷していながら、同時に膨大な負債を抱えていて、営農も生活も、「指導」されるとおりにしかできない、奴隷に見えない「奴隷」の方が、おおぜいいます。

農薬や農業機械で命を落とす人も、おおぜいいますす。わたしも、拓殖短大の新規就農コースの1年めの、農家へ行っての実地研修のときに、トラクターに乗って、棚田状の田んぼの「代かき」をやっていたのですが、長時間続くトラクターの騒音と単調な振動とで意識がしびれてきたころ、そこに正面から、目くらましのように暖かい陽がさしてきて、一瞬、睡魔に襲われたことがありました。次の瞬間、棚田の山側の土手にトラクターをぶつけて止まっているのに気がつきました。もしあれが、谷側へ進んでいるときだったら、トラクターごと転落して、死んでいたかもしれません。近代的な農作業は、多くの場面で、危険と隣り合わせです。

自然環境の危機と、農民からの収奪、これらの事柄について、どれぐらい深刻さを感じることができるかが、この、都市を批判する思想を理解できるかどうかの鍵になると思います。農村に住んでいる人のほうが、よく分かるのではないかと思います。足を踏まれる痛みは、踏んでいる人よりも、踏まれている人のほうが、よく分かりますから。
さて、ここで、中島さんは、安藤昌益の「直耕」の思想を援用します。

耕サズシテ貪リ食フハ、天地ノ真道ヲ盗ム大罪人ナリ。聖釈、学者、大賢トイヘドモ、盗人ハ乃チ賊人ナリ。
聖人トハ罪人ノ異名ナリ。君子ト云フハ道盗ノ大将ナリ。帝聖ト云フハ強盗ノ異名ナリ。
思ヒ知レ、後世ノ人、馬糞ト謂(イ)ハルトイヘドモ聖釈トハ謂ハルベカラズ。馬糞ハ益アリ。
即チ、コレヲ刑シテ、教フルニ足ラズ。タダ刑スベキモノハ聖人ノ失(アヤマ)リナリ。

自分では食料生産をしないで、農村から収奪するだけの都市住民は、教育しても無駄だから、処刑してしまえ、ということです。ひっとらえて獄舎につなぎ、「ソノ首ヲ斬ラント思フベキナリ」なんだそうです。

この、都市解体の思想を実践した人がいます。クメール・ルージュ(民主カンプチア)のリーダー、ポル・ポトです。貨幣を廃止して、都市住民を強制的に農村に移住させて、全員に農作業をさせました。この、貨幣の廃止と、都市住民を帰農させる考え方は、安藤昌益の本に、そっくりそのままに出ています。安藤は、実行できなかったけれど、ポル・ポトは実行した、という違いです。そして、ポル・ポトの革命は、どういう経緯だったのかは、よく知らないのですが、結局失敗して、その間、おおぜいの人が虐殺されて、ポル・ポトは「悪の権化」みたいな評価になっています。

こういう、安藤昌益やポル・ポトのような、イクところまでイッてしまう思想家は、こちらの日和見さ加減を逆照射してくれる、じつにありがたい存在だと思います。

中島さんは、安藤昌益やポル・ポトの考え方を高く評価しています。では、中島さんも、暴力的な革命を目指しているのかと言うと、ちょっと違います。中島さんは、自身が目指している運動を、「みの虫革命」と呼んでいます。どういうことかと言うと、みの虫がみのをつくって周囲から独立するように、農民も、周囲との関係を断ち切って、独立しなさい、という考え方です。引用します。

 すなわち、農業の自立と個の独立を果たすことによって、不耕起集団との絶縁(大量供給の拒否)を図るのである。これは百年の河清をまつ必要はなく、今すぐだれでも容易に、その気になったとき即日実践が可能であるのだ(もちろん耐乏は覚悟の上、耐乏がなければ浪費破壊汚染の防止は不可能と知るべし)。
 かくのごとくにしてここに独立農民が一人誕生すれば、その分確実に不耕(汚染破壊)人口を駆逐することができるのである(当然その分汚染源を減少させることが可能)。
 そしてそういう独立農業の「集積」が、やがて社会変革をもたらすに至る――これを「みの虫革命」というのである。
(『みの虫革命―独立農民の書』)

「不耕起集団」というのは、都市住民のことで、自然農の人たちのことではありません。念のため。
続いて、このような「みの虫革命」は、何からの独立なのか、ということに触れている部分を引用します。

独立農業とは貨幣からの独立であることを意味し、貨幣からの独立とはそのまま都市からの独立であることを意味する。そして都市からの独立とは、行政からの独立や農協からの独立、メーカーやサービス業からの独立、さらには極言すれば消費者からの独立をも意味するのである。買っていただいているのではなく、食べた(自給した)残りを恵んでやっているのであるから、それを停止することが即ち消費者からの独立を意味するのである。
(『都市を滅ぼせ―人類を救う最後の選択』)

この「みの虫革命」は、政治・経済に関する思考を、根底からゆさぶる破壊力を持っています。たとえば、消費税をどうするかとか、年金制度をどうすかとかいったことでも、お金を廃止してしまうのですから、そんなのはどうでもよくなってしまうのだと思います。食べ物は、自分で栽培すれば、いくらでもありますから、何も思いわずらうことはないはずです。
観光産業(グリーンツーリズムとか)なんかも、都市住民にこびへつらうことですから、なくなることになると思います。だいたい、ジェット機に乗せてお客をつれてこようと考えるなんて、環境破壊もいいところです。ジェット機といえば、ジェット機に乗って、世界を飛び回って、「講演パフォーマンス」をしまくって、環境にいいことをしたと、ノーベル平和賞をもらった人がいましたねえ。

さて、このような「みの虫革命」は、しゅくしゅくと進められなくてはならないと思います。急激に暴力的に革命を進めようとすると、暴力勝負なら負けないぞ、という短気な人たちが、反動派には、たくさんいますから、結局つぶされてしまうのではないかと思います。
やはり、教育しても無駄のような、「処刑するしかないような」、どうしようもないような人たちを相手に、根気強く教育し続けなくてはいけないのかもしれません。
そんな悠長なことをしていたら、地球が壊れてしまう、と心配されるかもしれませんが、未来というものは、どう転んでも、なるようにしかならないのですから、わたしたちはやはり、やれることをこつこつとやっていくしかないのです。早まってはいけません。

それともう一つ、大化の改新をどう評価するか、ということがあると思います。安藤昌益は、国が年貢をとりはじめた、悪のはじまり、と、とらえますが、中島さんは名前をあげていませんが、たとえば権藤成卿などは、律令制を、統一された制度で国民に農地を貸し出す制度として評価します。
おそらく、現状認識としては、安藤昌益のほうが正しいのでしょう。そして、「みの虫革命」がうまく進行していったあかつきには、国が、今のような国ではなくなって、年貢をとらない律令制(?)のようなものにかわっていくのかもしれません。

ただ、「みの虫革命」自体は非暴力でも、都市住民の教育が進む前に、農村への流入者が増えていって、無視できなくなっていった場合、残った都市住民(不耕貪食の徒)が牙をむいてくる恐れがないとも言えないので、いろいろな場合をシミュレートして、混乱が最小になるように準備しておきたいと思います。

以上のような、中島さんの「みの虫革命」の考え方は、こまかいところでは、まだ議論を詰めなくてはいけないところがありそうですが、大筋においては、わたしも賛同します。

わたしの今年の畑は、去年に比べて、規模を縮小しなくてはならなくなりました。去年までの畑の状況では、インターネットで注文を受け付けて、野菜の詰め合わせを発送することで、商売しようかと思っていました。しかし、今年の狭い畑では、自給的な農業しかできないなあと、いじけたような気持ちでいたのですが、そんなときに、中島さんの本を読んだところ、自給的な農業こそが、いいことなのだ、ということに気づかされて、今では、自分の農業のやり方に自信が持てる、前向きな気持ちになることができました。これは、わたしにとって、大収穫なのでした。

中島さんは、自給的な農業をはじめるには、自然卵養鶏を中心にするとやりやすい、と言います。でも、わたしは、自然卵養鶏をやりたいとは思いません。わたしが、2年めの農業研修の最後の2カ月間でお世話になった研修先が、まさにこの、自然卵養鶏を中心にして新規就農した農家だったので、この方法が新規就農に有効であることは、まのあたりに見て知っています。
わたしが自然卵養鶏をしないのは、一つには、玉子がきらいだからです。こういう「すき・きらい」をばかにするのは、よくありません。わたしは、三十数年間、自炊をしてきましたが、一度も玉子を買ったことがありません。ぬるぬるした、ヒヨコの元だと思うと、とても食べる気になりません。マヨネーズも、買ったことがありません。
ついでに言うと、わたしは肉も、あまりすきではありません。子どものころに、近所に養豚場があって、ブタがどんなものか知っていたので、食べたくありませんでした。ある日、小学校の教師が、給食で肉を残していたわたしに、給食指導だとか言って、無理に食べさせようとしたところ、気持ち悪くなって、わたしは食べたものを、お膳の上に全部はいてしまったことがあります。

人間とニワトリとの関係も、いい関係だとは思えません。自然卵養鶏農家での研修中、玉子集めをよくしたのですが、こちらがどんなに気配を消して近づいても、ニワトリたちは攻撃してきます。わたしたち人間は、ニワトリたちにしてみれば、自分たちが産んだ玉子を横どりにするドロボウなわけですから、そりゃ、憎らしいでしょう。気が立っているときのニワトリは、とても危険です。

それから、ニワトリの生態で、集団の中で強い・弱いの序列ができて、一番弱い個体が、死ぬまでつつきまわされる、というのが、見ていてたまりませんでした。お尻をつついて、内臓を引き出したりします。一番弱いのが死ぬと、今度はその次に弱いのが、ターゲットにされます。
歳をとって玉子の産みが悪くなったニワトリは、廃鶏といって、まとめて処分されますが、あれも、露骨に打算的で、いやな感じです。もともと、人間の食料生産のために飼われている生き物なのですから、そういう感傷は無用なのでしょうけれど……。

もう一つ、生き物を飼うと、家から離れられなくなる、というマイナスもあります。泊りがけでどこかへ出かける、ということができなくなります。このことは、例の、自然卵養鶏の農家さんが言っていたのですが、ウシでもブタでも、家畜を飼っているところでは、みんなそう言いますね、「出かけられない」って。

と、なんだかんだで、わたしとしては、できればニワトリはパスしたい気持ちが、99%ぐらいあります。土質改良のための、おまじない程度のボカシ肥以外は、無肥料の方向で行きたいと思っているので、肥料としての鶏糞がほしいとも思いませんし、ニワトリって、ケッコー鳴いて、うるさいですし。

中島さんは陸稲と小麦を栽培して、自給自足することを勧めます。わたしは、陸稲の種は、旭川産のものを、「さる筋」から入手したので、稲・小麦・大豆といった、主食級の作物は、今年からは、ほぼ自給できるのではないかと、期待しています。あと、野菜は、食べきれないほど超豊作にならない限り、売る必要がありませんので、自分が食べたい作目だけを、ちょろっと、つくろうと思っています。がんばらないで、ほどほどにやっていくつもりです。

【追記】
今、思いついたのですが、「つつかれ専用」の、ロボットニワトリって、つくったら、売れないですかね? センサーを装備しておいて、つつかれると、ギャーギャー泣きながら、逃げ回るようにプログラムしておくの。鶏舎の中での、情けないつつかれ役を、一手に引き受けるんだけど、じつは筐体が丈夫な超合金でできていて、見かけの弱っちさに反して、どんなにいじめても、絶対に死なないの。弱くて強いぞ、ロボコケッコ! あ、名前は、「ロボコケッコ」にしようと思います。

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コメント

 <雑草の言葉>で話題にして戴いた件の本面白そうですね。
『都市を滅ぼせ―人類を救う最後の選択』
のタイトルだけでもなかなか過激なのに、田中敬三さんのご紹介の文を読むともっと過激な内容のようで、ますます読みたくなりました。

「みの虫革命」を現実に起こすにはなかなか色んなハードルが高くてかなり難しいと思いますが、実現した場合の価値観の変容がいいですね。このパラダイムシフトは魅力的です。
中島正さんの思想は、ディープ・エコロジーと言うものにも通じますね。

 現在、大虐殺のリーダーのように言われているポル・ポトの考え方を理解している点も注目です。

>貨幣を廃止して、都市住民を強制的に農村に移住させて、全員に農作業をさせました。
 
と言うのは、素晴らしい発想かも知れません。ポル・ポト革命が失敗したのは、強制した事よりも、欧米の介入とプロパガンダかも知れません。昨年末に20世紀の映像を見直しして、ポル・ポトって実は理想主義者なのか?とも感じましたが、こちらの文で、なるほどと繋がりました。

 田中さんは、「みの虫革命」の実現性をどう思いますか?  

投稿: 雑草Z | 2008年1月22日 22時51分

雑草Zさん

「みの虫革命」は、それをはじめる本人の意志があれば、はじめること自体は、そんなに難しくないと思います。ただ、賛同者が増えて、そのせいで都市住民の生活に影響が出てくるようになったときに、都市住民との調整作業や、教育活動なんかが、そのごの革命の成否を決めることになる、と思います。

都市住民側の抵抗は、権力を動員して、農地を占拠して、農業生産を強制する、という形をとることになるのではないかと、わたしは予想しています。そうなったときには、独立を旨とする「みの虫革命」といえども、連帯して行動することが必要になってきますが、それが、日本人にできるのかどうか。どうなのでしょうね。

「都市」という「がん細胞」の弊害を、どこまで明確に示せるか、どこまで思想を深化できるか、そこに、人類の未来がかかっていると、思います。人類は、どんなに環境が悪化しても、誰か一部の強い人たちは生き残るのでしょうけれど、ただ生き残るだけではなくて、美しく生き残ってほしい、という願いは、わたしはこれを捨てることができません。

投稿: 田中敬三 | 2008年1月23日 00時37分

お久しぶりです^^

なんだか、読書三昧の日々を送っていらっしゃるみたいですね。わたしは本はほとんど読みません。さいきん、どんどん「手で触れられる身近な世界」以外のところへの関心が薄れているように思えます。それは、わたしが都市でなく田舎で、自足的に生きているから…だ、と、こないだ東京に行ってみて、つくづく思いました。

関東圏に日本の総人口の1/10が暮らしていて、今もまだ増え続けているのですから! 何ともクレイジーな話です。仕事があるとかないとかの話でなく、いずれ大きな地震が来ることがわかっているような場所(それも超過密地帯)にあえて移り住もうとするのですから…。

東京はバビロン、あるいはソドムとゴモラの街…と、仏教的な言い方がわからないので、キリスト教的にたとえてみました^^;

>ニワトリ
わたしのところには5羽います。ぜんぶメスだからでしょうか? つつかれ役の個体はおらず、みな仲良くやってます。

ウチで生産する卵は自家用というより、隣近所さんとのコミュニケーションに役立ってます。手土産を持って訪問すると自然と会話も進むというか…。ムードが和やかになります。幸い、近所で鶏飼っているのがウチだけなので、ほとんどの方が喜んで受け取ってくださいます。

でも、田中さんとこには卵は持っていけない感じですね、、、。わたしは「お肉を食べない人」なので、田中さんの気持はよくわかります。なんにせよ、押し付けられるのは嫌なことなので、そうされる前にちゃんと「自己主張する」というのは大事なことだと思います。そして、それに「行動」が伴えば、いうことなし!って思います。

投稿: poo_lee | 2008年1月24日 07時38分

poo_leeさん

ごぶさたしています。

東京は……、ほんと、地震が来る前に、逃げたほうがいいと思います。立体交通とか、地下街とか、想像すると、こわいです。浜岡原発も危ないですし。
昔はよく、神様が厳罰をくだしたものでしたが、最近は、ぜんぜん音沙汰なしですね。人類は、神様にも、見限られたのでしょうか。
ブッダは、「滅びるものは、しょうがない」の人です。自分の出身国が滅ぼされるときも、離れたところで見ているだけでしたし。

ニワトリ、5羽ってのは、すごい、適正規模でないでしょうか。
「つつき」は、繊維不足が原因だと、中島さんの本には書いてあります。おがくずをえさにまぜると、おさえられるそうです。

そうそう、わたし、玉子だけでなく、野菜も、ものすごい偏食です。『おろしや国酔夢譚』の大黒屋光太夫のセリフじゃないですけど、「食わねえと、死んじまうぞ!」な状況にでもならないかぎり、食べたがならいものが、いっぱいあります。日ごろから「すき・きらい」を表明しておくのは、いいことですね。

投稿: 田中敬三 | 2008年1月24日 09時03分

昨年暮れ、中島正『農家が教える自給農業のはじめ方』を読んで感銘を受け、すぐに「みの虫」を読みました。「同じような人誰かおらんかな~」と探していたらこのサイトにたどり着きました。

じつは、中島正さんは、『農家が教える 自給農業のはじめ方』を書いてすぐ、『今様、徒然草』という本も出版しているんですよ。内容は、『みの虫』『滅ぼせ』とほとんど共通で、とくに真新しいことはなかったです。

私は農の経験がほとんどないので分からないんですが、田中さんが『自給農業』を読んで、「この記述内容はちょっと眉つば」という個所はありましたか? 
鶏を育てるにしても、作物を育てるにしても、新規就農の場所を探すにしても、この本にあるように簡単にコトが進むとは思えない個所がいくつかあります。

たとえば
鶏は「80~150羽のグループだと尻つつきが出やすくなるので避けるほうがいい」との情報がありますが、そういった一群の羽数について無頓着。
モグラ対策に、もぐら捕り器やもぐらよけプロペラが紹介されているが、ネットを調べると「これらの道具は効果なかった」という情報が複数ある。
自給といっても、まかなえるのは「衣食住」の「食」だけ。「衣」にはたいしてお金がかからないにしても、住処や光熱費にかかる『住』はどうすればいいのか。

このあたり、どうお考えですか。

投稿: krishunamurti | 2008年2月22日 21時23分

『今様、徒然草』は知りませんでした。版元が、よりによって、あの新風舎! 評判悪いみたいですね、新風舎。何にせよ、中島ファンとしては、買わないわけにはいきません。

ああ「尻つつき」! 研修先で見ました。中島さんは、おがくずをえさに入れれば防げるようなこと言ってますね。
つついても、「ニワトリはそういうものだ」と割り切って、ロスとして計算するのも手かもしれません。

モグラは、意識したことないです。

「住」にかかる費用は、「農業以外の仕事でかせいでください」としか、わたしには言えません。
もともと農家に生れついた人には、家も畑も持っているので、何も心配ないのでしょうが、家も畑もない人には、どうやって出費をへらすか、という方向で知恵を働かすしかないと思います。

投稿: 田中敬三 | 2008年2月22日 23時54分

レスありがとうございます。

新風舎は倒産してしまいましたからね~。例の本、在庫はどうでしょう?

全国には、非農家でありながら、「食」はもちろん、「住」もかなりの程度自給している慧眼がいるようです。

たとえば、家のセルフビルド。
太陽光発電。
バイオガス。
薪ストーブ。
ペレット燃料?(木から作る燃料)。
さらには、食器を陶芸で自作という兵もいます。
いずれもやろうと思えば個人レベルで可能らしいのです。

『自給農業のはじめ方』では食の自給のためのノウハウがありますが、中島さん思想に流れる、

「必要なものは金であがなうのではなく、自分で作る」

という通奏低音は「食」の領域に限定されるものではないと思います。と僕は思ってま~す。
こちらで食の自給にむけた勉強をさせていただきながら、別媒体で食以外の自給についての更なる思耕と研鑚に勤めたいと思います。

投稿: krishunamurti | 2008年2月25日 01時09分

『自給農業のはじめ方』の陸稲と小麦、その他の野菜のマルチについて。

本によると、畝立てはやらなくていいみたいなんですが、全国どこでもそれは当てはまるんでしょうか。

たとえば南関東は関東ロームという土で水はけがよく、もともと畝立て不要の地域といいます。そういう地域なら、話は単純明快です。

でも、全国的にはマルチをするとき畝立てする地域のほうが多いんのではないでしょうか。

そんな場合でも本の説くとおり畝立てなしで大丈夫なのでしょうか。

ひょっとして、中島さんの住んでいる地域は畝を立てなくてもいい地域で、よその地域の土質は一顧だにせずに本にしてしまったのではと懸念されます。

投稿: krishunamurti | 2008年2月25日 01時21分

『今様、徒然草』、注文しましたが、手に入るかどうか、分かりません。

「食」「住」ときたら、「衣」の自給にも挑戦したくなりますね。

水はけの悪い畑は、うね立ては必要です(きっぱり)。

『農家が教える自給農業のはじめ方』で、マルチ全面張りっぱなしを勧めていますでしょう? で、水は、植えるときだけ穴からジョウロで、って言ってますでしょう? あれ、疑問なんですよね。
深川でも、マルチ全面張りっぱなしは、やってる人がいます。花卉とイチゴで、です。でも、必ず潅水チューブを入れるんです。雨水を流してしまって、あらためて潅水するなんて、すごい無駄だと思うんですよね。
全面張りっぱなしで雨水を流しておいて、潅水しなかったら……作物、本当に大丈夫かい?
わたしは、マルチは、草を抑えるため、というよりは、地温確保のために張るつもりなので、うね間には張らないで、そこから雨水がしみ込むようにしようと思っています。

投稿: 田中敬三 | 2008年2月25日 06時32分

『今様、徒然草』ははじめ地元の図書館にリクエストして読もうとしましたが、「出版社に品切れで入手不可です」との返答。
家でネットで検索すると、どのオンライン書店も絶版。ライブドアブックスとかいうところだけ「2~3日で発送」となっていました。この「2~3日で発送」は「在庫あり」を保証するものではなかったので、どうせないだろうとタカをくくっていたんですが、届きました。これが1週間ほど前のことです。

畝たてとマルチの話ありがとうございます。やっぱりそうですか。あの本を全部鵜呑みにするわけにはいきませんね。

投稿: krishunamurti | 2008年2月25日 23時07分

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