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「有機」ということについて

きょうは、「有機」という語について、考えてみたいと思います。

「有機農法」「有機農産物」などのように、農業に関連して「有機」という語が使われる場合、基本的には、「有機物を資材に使う農業」という意味になります。有機物というのは、生き物、または生き物が作り出したもの(枯れ草とか、家畜の糞とか)を指します。しかし、有機物、すなわち、生き物由来のものならば何でもいい資材なのかと言うと、そんなことはありません。たとえば、緑肥(草)をすき込むにしても、やり方を間違えれは、地中にガスが発生して、作物の根を傷めます。また、たとえば、完熟させない厩肥を使うと、害虫が発生したり、作物が病気になりやすくなったりします。
「有機」という語はまた、上記のような使われ方のほかに、自然や社会を生き物にたとえる言い方でも使われます。この、有機物/無機物の別を言う使い方と、自然や社会を生き物にたとえる使い方との、2つの使い方があるのは、中国語由来の「有機」でも、英語の「オーガニック」でも、同じです。「有機」という語も「オーガニック」という語も、同じような使われ方をするのは、偶然ではないと思います。
「有機」という語の使われ方の中に、「生き物や生き物が作り出したものには価値がある」という偏見や、「生き物をモデルに自然や社会を形成することには価値がある」といった偏見などが、含まれているのを感じます。偏見と言うよりは、実体化された「生き物」とか「生命」とかいう観念(これらを総称して「有機体」という)自体が、幻想なのだと、仏教的な立場(無我説)からは、言えると思います。
「有機」という語の使われ方の例を見てみましょう。日本の有機農業の推進役を果たしてきた、NPO法人「日本有機農業研究会」のホームページから引用します。

  会の名称に使われた「有機農業」という言葉は、後に一楽照雄が邦訳した『有機農法』(ロデイル著、原題 Pay Dirt ) にヒントを得たものだが、漢書にある「天地、機有り」からとったものだ。「機」とは、英語ではダイナミズム、自然の原理、天地の動きには法則があるという意味であり、農業というものは、自然の原理に順応してそれを助け合うものであることを表している。後にはさらに、特に生産者と消費者の間の「有機的な人間関係」を築くことが重要であるという意味あいも付与された。
(日本有機農業研究会 「生産者と消費者の提携」)
http://www.joaa.net/mokuhyou/teikei.html

農業資材として有機物を使う、というだけではなくて、自然観の「たとえ」としての有機、社会観の「たとえ」としての「有機」が語られているのが分かると思います。ここに見られるのは、言いかえれば、「自然=有機体」説、「社会=有機体」説です。何かを何かにたとえるのは、直感的に分かりやすく説明するための方便ではありますが、あくまでも自然は自然、社会は社会です。たとえ話には限界があること、場合によっては、不合理な面もあることを、忘れないでいたいと思います。
有機体説は、全体主義と親和性があります。自然なり社会なりを、一つの有機体とする考え方です。一つの生き物ですから、その中には、頭もありますし、心臓もありますし、足の裏もありますし、尻の穴もありますし、いろいろな部分があるわけです。個人のあり方から、その集合としての全体のあり方を考えるのではなく、先に全体のあり方を考えて、それを成り立たせるように、個人のあり方を規定していく考え方が、全体主義です。
全体主義の身近な例としては、日本の「国体論」があります。かつて文部省は、『国体の本義』という冊子を発行して、これを学校で配布して、「日本には昔から優れた「国体」というものがあるので、これを守らなくてはいけない」という考え方を普及させました。まず、国のあり方を定めて、それを成り立たせるように、個人のあり方を考える、という順序です。
わたしのような「はずれぎみ」の人間としては、先に枠を決められて、そこにはまってください、と言われると、なかなか適応しにくいものがあります。そんな堅苦しいことは言わないで、いろいろな人がいるのですから、まず身近な人たちの中で、快適な付き合い方をさぐっていって、その積み重ねとして国ができていく、という順序で考えてもいいのではないか、と思うのですが、そのへんは、「まあまあふつう」に生きてきて、死ぬまで「ふつう」に生き続けたいと願っているような方たちとの、人生に対する美学的な違いもあるのでしょうか。
わたしは、日本有機農業研究会が全体主義だ、と言っているのではありません。ただ、「有機的な人間関係」のような、何気なく使われる表現の中にあらわれる、実体化されて、たとえ話にされる「生き物」や「生命」の観念を指摘しておきたいだけです。

海野弘さんの『陰謀の世界史』(文春文庫)という本に、トマス・ヒル・グリーンという人のことが出てきます。キリスト教福音主義派牧師の息子として育った人です。『国体の本義』の思想のイギリス版的な思想をつくった人です。引用します。

二十世紀のはじめ、社会主義や自由主義・植民地主義が奇妙に結びつき、社会帝国主義があらわれる。そこで大きな役割りを果したのがトマス・ヒル・グリーンであった。彼は牧師の子としてヨークシャーに生れ、オックスフォードの道徳哲学教授となった。絶対我(絶対意識)がまずあり、自我はそれに向って人格を形成していくのだ、とした。絶対我は自我の自由の実現であり、国家とは、その実現のための道徳的共同意志のあらわれである。つまり国家は、人間を自由にし、生活を向上するために積極的に介入すべきものである。これがグリーンの〈有機的国家〉の考えで、個人対国家というそれまでの対立に代って、国家を積極的に認める社会改革主義の道を開いた。自由放任主義の行きづまりを恐れていた英国は、自由帝国主義を受入れたのである。共同体とか愛国主義への関心が復活する。

Thomas Hill Green。緑の丘です。で、まあ、彼の思想が契機となって、今の労働党政権につながるような世界観のレールが敷かれることになったわけです。有機的国家、つまり、一つの生き物のような国家ですから、そこからは当然、優れた頭脳が体全体をコントロールする、という、一種のエリート主義が形成されることになるのです。

幻想に浸りつづけることがいいのか、頭を冷やして、人間のあるがままの状態を直視しようとすることがいいのか、人間が持っている知恵と慈悲の力が、試されることになるのでしょう。

【関連記事】
一楽照雄と日本有機農業研究会
藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房)

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