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クライブ・ポンティング『緑の世界史(上)』(石弘之ほか訳、朝日新聞社)

クライブ・ポンティングさんの『緑の世界史(上)』(石弘之ほか訳、朝日新聞社)を読みました。これは世界史の本なのですが、戦争で勝った負けたの歴史ではありません。「緑」が主人公の世界史です。自然と人間のかかわりとか、農とは何なのか、とかといったことを考えるためのアイデアが、ぎっしりと詰まっている、すばらしい本です。
本質に迫る書き方をしているのに、分かりにくい箇所がまったくない、読んで100%理解できる、というのがすごいで
す。こういう本を教科書にして、学校が中学生や高校生に教育をしてくれると、ものを考える国民が育って、日本も、もっといい国になるだろうになあ、と思います。
17年前に書かれた本なので、新しいデータは載っていません。そのへんは、自分で調べなおさないといけません。しか
し逆に、17年前の時点で、こんにち読んでも、大切と思われる論点をはずさない書き方ができている、という意味で、この本は、執筆された時代の流行を超えた、古典的な価値を有する内容を持っている、と言えると思います。
「栽培生活blog」おすすめ度:
★★★★★、です。

上巻は、10章あります。順を追って、感想を述べていきます。下巻も、読んでから、感想を述べます。

第1章「イースター島の教訓」
絶海の孤島、イースター島に、はじめてヨーロッパ人が来たとき、3000人ほどの島民は、草ぶきの小屋や洞くつで暮ら
し、乏しい食料を奪い合って、戦闘を繰り返していたそうです。その一方で、島には、平均して6mを超える、数十トンの重さの巨大な石像が600体以上散在していました。「モアイ像」と呼ばれる石像です。これらの巨大石像群がどのようにつくられ、どのように運ばれたかは、島民の惨めな生活状況からは、想像できないものでした。
じつは、イースター島には、高度な文明があったのですが、森林を完全に切りつくしてしまったのが原因で、その文明
が崩壊したのでした。木は、家の建築材料であり、調理の燃料であり、海に漁に出るための船を建造する材料であり、特にイースター島の人たちにとっては、巨大石像を運ぶときの「ころ」として利用されてきました。森林を切りつくしたことにより、土壌流出がはじまって、農産物の収量が落ちて、人口を支えきれなくなったのです。
森林の存在が、文明を支えていたにもかかわらず、イースター島の島民は、その大切な森林を切りつくしてしまって、
みずから、文明を崩壊させてしまったのでした。この、自然・天然の資源を「つかいつくす」ということは、人類が、現代に至るまで、繰り返しおこなってきたことです。現代のわたしたちも、「つかいつくし」に加担しているわけで、文明崩壊のただ中にいる、と言ってもいいと思います。人間というのは、文明が一度ある方向に動きだすと、その先に崩壊の危機があると分かっていても、やめられない、とまらない、かっぱえびせんみたいなことになるようです。イースター島の教訓は、生かされていないのです。

第2章「歴史の礎」
この章は、生態系についての基本的な考え方を扱っています。大陸移動のこと、気候変動を規定する太陽と地球の位置
関係にもとづく3つの長周期のこと、食物連鎖のこと、などが取りあげられています。基本中の基本のような知識なので、きちんとおさえておくといいと思います。

第3章「人類史の九九パーセント」
人類の発生から現代までの歴史を人類史として、時間軸に照らして、全体を100%とすると、はじまりから99.5%ぐらいまでと、現代に近い、最後の0.5%とは、はっきりと違う性質を持っています。前者は、生活様式が狩猟・採集が中心で、200万年ほどの間、比較的安定して営まれていたのに対して、後者は、農業や牧畜を中心にしたもので、最近の1万年ほどの間によく見られる現象です。
この章は、農業がはじまる前の、狩猟・採集で生活していた人類を扱っています。マーシャル・サーリンズさんの『石
器時代の経済学』にも出てきましたが、総じて言えば、狩猟・採集で生きていたころの人類の労働時間は、とても短く、それでいて栄養も十分足りていて、世界の総人口も、400万人を超えることはなかったであろう、ということです。人類は、けっこうこじんまりと、つつましく生きてきたわけです。
狩猟では、多くの動物の種が、人類による狩猟によって絶滅されてきました。第1章で扱った、イースター島での、木
の切りつくしのように、利用しやすい動物をとりつくしてしまう、ということが起こったのでしょう。それでも、まだ人類は、総人口がそんなに多くありませんでしたから、人間のがわからすれば、別の地域へ移動すればよいというだけの話で、地球規模での危機は、訪れませんでした。
このようにして、約200万年前に南アフリカや東アフリカに発生した人類は、約1万年前までに、南極以外のすべての
大陸に、分布を広げていったのでした。

第4章「最初の大転換」
約1万年前に、人類に「最初の大転換」が訪れます。農業や牧畜がはじめられるようになったのです。この章のはじめ
の段落が、総論的にまとまっているので、引用します。

 二〇〇万年このかた、人類は狩猟と採集の生活を送り続けてきた。しかし、わずか数千年の間に、以前とは劇的に異なる生活様式が出現した。すなわち、作物を栽培し家畜の放牧をして自然生態系を大きく変えることになった。この集約的な食糧生産方法は、核となる世界の三ヵ所の地域――西南アジア、中国、中央アメリカ――でそれぞれ独立に発達し、人類史上もっとも画期的な転換期となった。この結果、従来に比べてはるかに大量の食糧の供給が可能になり、階級制を持つ複雑な定住社会が発展して人口も急増していった。

簡単にまとめると、「定住」「人口増」「農業・牧畜」がはじまって、「都市」「軍隊」「王権」「強権・抑圧的な宗教」が形成されてくるわけです。この、約1万年前という、だいたいこの時期に、人類に大きな変化が起きていて、そのころに形成された社会の原形が、現代にまで引き継がれているわけです。個別には、地域によって、いろいろ違いがあるのですが、おおざっぱに言うと、そう言えるわけです。何が根本的な原因でそうなったのかは、分かりませんが。
わたし個人のこのみとしては、都市なし、軍隊なし、王権なし、強権・抑圧的な宗教なしで、定住はするけれど、ほど
ほどの農業で、ほどほどの人口で、こじんまりと生きていく路線、というのがいいのですが、一度農業をはじめてしまうと、「ほどほどで」というわけにはいかないのが人間なのでしょう。こっちは「ほどほど」でよくても、おとなりが強くなれば、干渉されて、気がついたときには、飲み込まれてしまっていたりするわけです。
この問題を、わたし自身の生き方に引き付けて考えると、中島正さんが言っている「みの虫革命」みたいな、他者との関係をなるべく断ち切って、やれる人から、自分一人から、とにかく自給をはじめましまう、という戦略に、わたしは魅力を感じますが、仮にそれがうまくやれたとしても、一人で勝手にやっている限りは、自己満足に過ぎなくて、社会的な意味は薄いのではないのか、とも思います。連帯して行動することが苦手な、分断された個人が多くなった時代に適応した、抵抗する生き方の形なのかもしれません。いや、もしかしたら、個人レベルまで、とことん分断を進めさせよう、という(よい意味での)戦略なのかもしれません。

第5章「破壊と生存」
農業によって都市が形成されるようになるのですが、それらの古代都市も、遠からず、崩壊の危機を迎えることになり
ます。つまり、一般的な農業は、持続可能な食料生産の技術ではなかったのです。森林破壊と、畑の塩類集積という、2つの基本的な崩壊パターンがありますが、少し、この章で展開される各地の個別の文明崩壊の様子をなぞってみましょう。
メソポタミア文明を支えたチグリス、ユーフラテスの両河の水位は、畑の作物が一番水を必要とする8月から10月に
かけて、逆に最低になりました。そこで、人びとは貯水と潅がいをおこないました。この結果、地下水の水位が上昇して、水がよどむ「帯水現象」を起こしました。また、高地の森林が破壊されて、土砂が川に流入して、水のよどみは一層ひどくなりました。帯水現象は、地中の塩類を地表に運び、水分の蒸発によって、厚い塩類の層を形成します。作物の収穫は、紀元前2400年から1700年の700年間に65%低下したそうです。当時の記録には、「大地が白くなった」という記述があるそうです。この畑の塩類集積が、メソポタミア文明崩壊の原因となったのでした。
インダス川は、広い地域にわたって氾濫して、その流路をかえる性質を持っていました。人びとは収量を増大させるた
めに、流路を固定して、潅がいをする工事をしました。また、森林破壊もおこなわれ、メソポタミア文明と同じような環境悪化をもたらしました。インダス川流域も、メソポタミア文明と同じように、塩類集積と、森林破壊による土壌流出と地力の低下によって、国力を弱めて、滅びました。
中国では、最初の定住社会が勃興したとき、土壌は肥沃だったのですが、地表をおおっていた草を、キビ畑をつくるた
めにとりのぞくと、土壌浸食がはじまり、大きな溝や谷に発達しました。それと同時に、燃料や建材の目的に樹木が伐採され、中国の高原地帯における大規模な森林は消失し、黄河は、ひんぱんに氾濫して、流路をかえ、大きな災害を引き起こすようになりました。
中世エチオピアのキリスト教王国では、森林破壊による土壌浸食によって、植物が育たなくなり、何度も首都を移して
います。
地中海地域の本来の植生は、常緑樹と落葉樹が入り交じった森林でしたが、農地造成、調理や暖房の燃料、家や船の建
材として伐採され、さらに家畜の過放牧が追い討ちをかけました。紀元前2000年ごろまで、モロッコからアフガニスタンまでをおおっていた森林は、現在ではその10%程度しか残っていないそうです。
ギリシャも、森林破壊と、土壌浸食が起きています。強い根を持っていて、土壌浸食の激しいところでも成育可能なオリーブを植えることが奨励されました。
北アフリカ帝国は、ローマ帝国を支えた穀倉地帯でしたが、農地を拡大するために森林を破戒したことにより、土壌浸
食がはじまり、最後は砂漠になってしまいました。
高度な文明を発達させたマヤ文明の崩壊も、森林破壊による土壌浸食と過剰潅がいが原因だったのではないかと推測さ
れています。
ナイル川は毎年洪水を起こしていました。上流の高地で森林破壊によって土壌浸食が起こり、この泥土が、ナイル川の
氾濫とともに下流に運ばれ、流域は、ちょうどいい時期に、肥沃な土壌と適当な水が得られることになって、農業が栄えました。メソポタミアの場合のような塩類集積は起こらなかったのですが、氾濫は自然まかせなため、水位が低い年は、十分な面積での栽培ができませんでした。1840年代に人工的な潅がい施設がつくられると、20~30年のうちに、塩類集積がはじまりました。イギリス人の農業技師は、「地表をおおう白い塩が日に照らされて、新雪のように輝いている」と言ったそうです。20西紀に入って、アスワンダムとアスワンハイダムがつくられると、ナイル渓谷の地力が失われて、肥料を多投する現代の農業方式に移行せざるを得なくなったのだそうです。
森林を開拓して畑を造成することも、潅がいをして収量を上げることも、実施した初期には、効果をあげたのだと思い
ます。しかし、そのような無理をして収量を上げようとすることが、数十年後、数百年後に、決定的なダメージとなってはねかえってくることを、予想することができなかったか、短期的な利益しか考えられなかったかして、結果として、諸文明は滅んでいきました。
肥料と水を与え続ければ、作物に吸収されない成分が地表にたまり続けるのは、当たり前のことです。わたしが研修させてもらった稲作農家では、稲の苗床(ハウス)の跡に、大豆を植えて、実がなった時点で根っこごと抜いて、トラックに積んで、山に捨てていました。一かかえもらって帰って、枝豆にして食べたのを覚えています。自分ちの山に捨てるのなら、不法投棄にはならないのですかね。過剰に施肥しておいて、あとからクリーニング・クロップに吸いとらせて、抜いて山に捨てて……無駄というか何というか、ほんとにほんとにご苦労さんな話です。

第6章「長い戦い」
この章は、飢餓との戦いについての研究になっています。中国とヨーロッパでは、飢餓の存在が常態化していたことが
示されています。アイルランドのような、ヨーロッパの「先進」地域でも、19西紀になっても、100万人の餓死者が出る事態が起こっています。当時、アイルランドには、十分な食料があったにもかかわらず、食料価格が高騰して、貧しい人びとがおおぜい餓死したのです。
また、1930年代初頭のソビエト連邦では、政府は食料を都市に優先的に供給して、農村で餓死者が出る事態となったこ
ともあげています。藤田弘夫さんが、その著書『都市の論理 権力はなぜ都市を必要とするか』(中公新書)の中で「古今東西、農村に飢えはつきものだが、都市が飢えることはめったにない。自らは食糧の生産を行わない都市のほうが、農村よりも飢えないのである。」と言っていたのを、思い出します。戦争中、日本では、農家は、食料を強制的に供出させられました。どこかに隠していないか、きびしく調べられました。
この『緑の世界史』の著者のポンティングさんは、農耕民の社会を狩猟採集民の社会と比べて、次のように言っていま
す。

 突き詰めて考えれば、飢餓の原因は人類と食糧との関わり方が農耕の開始によって変化したことにある。かつての狩猟採集民にとって、食糧とは取引するものではなく、集団の中で分け合うものだった。だが、定住農耕社会が成立すると、土地や食糧に対する所有権という考え方が生まれた。また、限られた土地に対する依存度が高まったために、収穫の多寡が大きな意味を持つようになり、不作の年には貧しい人々は食糧を得ることができなくなった。

飢餓というのは、多くの場合、食料の不足の問題ではなく、食料の配分の問題なのです。

第7章「ヨーロッパの植民地の拡大」
中世のヨーロッパには、東方植民といって、ヨーロッパ西部・中部への居住地の拡大があります。もともと95%ぐらい
が森林だったところが、この東方植民によって、森林面積が20%ぐらいまでに減らされてしまいます。焼き畑農業もおこなわれています。この開拓には、修道士が活躍します。修道士という言葉から、わたしなどは、禁欲的な生活をして、静かに神に祈っている人たちのようなイメージを勝手にいだいてしまいがちなのですが、十字軍時代に騎士修道会というのがあったように、この開拓にあたった修道士たちは、武装していました。それから、金属精錬なんかの技術も持っていたらしいです。とにかく、強烈な人たちだったようです。岸田秀さんとの対談(『生きる幻想 死ぬ幻想』)で小滝透さんが、この修道士たちについて、「森林伐採には宗教的な意味もありまして、森を残しておくと、土着的な精霊信仰が生き残って、異端や異教が生まれるので、キリスト教を広めるという意味でも、森林を伐採した。」と言っています。宗教的情熱に駆られて、執念で森林を切り開いていくわけです。その結果、フクロウとか蛇とかがいなくなって、野ネズミが大発生して、それにペスト菌を持ったノミが寄生して、ペストの大流行を招きます。このことも、小滝さんは語っています。今回読んでいる『緑の世界史』には、フェラリッヒの修道院長の言葉が紹介されていて、当事者の心境を伝えています。曰く、「フェラリッヒ周辺の森林は、まったく役立たずなうえ耐えがたいほど有害ですらある」。
森林伐採のほかに、大きく自然をかえたの
は、イギリス・フランス・オランダなどでおこなわれた、湿地や沼沢地の干拓や埋め立てでした。
ヨーロッパ人による植民地化の波は、世界中に広がっていきます。ポンティングさんは、ヨーロッパ人が破壊した先住
民族社会をあげ連ねています。ヨーロッパ人は、アステカ帝国、インカ帝国、北アメリカのインディアン、南アメリカのインディオ、オーストラリアのアボリジニ、太平洋の島じまの先住民などの、土地と労働力を搾取しました。イエズス会は奴隷狩りの遠征を行ない、捕えた奴隷に焼印を押して、伝道所で強制労働をさせました。ニューイングランドでインディアンとの間で戦争がはじまるころ、清教徒たちは、異教徒であるインディアンを殺戮することが、神の意思にかなうことだと信じていました。
そして、忘れてならないのは、徹底的に搾取された大陸、アフリカです。内容は、本書にくわしいので、読んでほしい
のですが、一つ、ヨーロッパ人がアフリカ人を人間視していなかった証拠をあげた部分を引用します。

 ヨーロッパ人の心の中には、アフリカ人に対するほとんど隠そうともしない侮蔑の念があった。たとえば、一九〇〇年六月にドイツ人入植者の一人が南西アフリカの植民地政府に提出した次のような嘆願書が残っている。
「遠い昔から、現地民たちは怠惰と粗野と愚行に慣らされてきました。彼らは悪に手を染めていなければ安心できない
のです。われわれは現地民に交じって生活していますが、ヨーロッパ人の感覚では、どう考えても彼らが人間であると信じることはできません」

第8章「思想の変遷」
この章は、ヨーロッパの思想の中に、植物や人間以外の動物は人間のためにつくられている、という、人間中心的世界
観を浮き立たせて、それが大規模な開拓や、動物の殺戮などの自然破壊につながるとこを、明らかにしています。この、「人間中心主義」という、問題の切り出し方が、わたしには新鮮で、分かりやすく思われました。たとえば、アリストテレスについては、ポンティングさんは、次のように言います。

 究極的な人間中心的世界観のもうひとつの先駆的著作は、アリストテレスの手によるものだ。彼は『政治学』で、植物は動物のために存在すると主張し、「もし自然が作り上げたものに不完全なものはなく、また何事も無目的には作らないとすれば、自然はすべての動物を人間のために作ったということになるだろう」と結論づけている。

この、人間中心主義は、聖書中にも、見出すことができます。

神は五日間の天地創造の後、その集大成として人間を創造する。そして神は人間に対して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と祝福し、他の創造物に君臨する権利を与えるのである。
(中略)
まず初めに男性が創造され、次に生き物の満ちあふれるエデンの園、最後に女性という順で創造されていく。ここでも
動物は人間のために作られており、それらに名前をつけるのはアダムである。神は後になって大洪水を起こして世界をほぼ壊滅させるが、その後に人間界で唯一の生存者であるノアとその家族に対して、前にも増して強い口調で世界の支配者になるよう、こう命じている。
「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じよう
にあなたたちに与える……地のすべての獣と空のすべての鳥は地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる」
 このような、世界に君臨すべき存在としての人間という主題は、聖書に取り込まれたユダヤ教聖典の中に数多く見出
される。たとえば詩篇第八番には、「神に僅かにおとるものとして人を造り、御手によってつくられたものすべて治めるようにその足もとに置かれました」とあり、同第一一五篇には、「天は主のもの、地は人への賜物」と書かれている
 古代や中世のキリスト教思想家は、「人間は自らのために動植物を始めとした全世界を利用する権利を神から授かっ
ている」としてユダヤ教思想より受け継いだ見解に、ほとんど異議を唱えることはなかった。自然は神聖なものとは見なされず、したがって人間は自然を自らのために利用するのにいささかの良心の咎めも感じる必要はなかった。人間は自然を自分の好きなように利用する権利がある、とされていたのである。

この聖書に見られる人間中心的思想の変奏として、トマス・アクイナスやアッシジの聖フランチェスコなどが、あげられています。
このあと、科学的自然観を検討することになりますが、科学的自然観も、人間中心的という意味では、聖書の思想の延
長線上にあることになると、著者のポンティングさんによって位置づけられています。例として、デカルトやベーコンやスペンサーやカントやジョン・スチュアート・ミルやフロイトが引用されています。マルクスも、この系列に入ります。
日本人の感覚では、宗教と科学というのは、対立するような印象があるのですが、じつは、聖書の世界観と科学的
世界観というのは、しっかり地続きなんだ、ということを、今回この本を読んで、わたしは理解しました。
このあたりの事情をまとめてある部分を、もう一カ所、引用します。

一九世紀末までに、ヨーロッパ思想の多くから宗教色は大幅に減退するか、あるいはまったく消失してしまっていた。しかし、二〇〇〇年間にもわたるキリスト教思想の中核をなした考えの多くは、それに先立つ古典思想やユダヤ思想の影響とともに、ほぼ無意識のうちにヨーロッパの世界観を形成する中に取り込まれていた。そこでは人間は自然界から切り離され、しかもそれより優位に立つ存在と見なされており、その結果、人間は自然界を自らの思うように収奪する権利があると考えられていた。しかも、この自然の収奪はまったく当然のことであり、むしろ未完成で不完全な自然環境を改善していく手段であると見られた。
 また、人間活動は有益な結果をもたらし、必然的に未来へと続く一貫した進歩の過程の一部であるとされた。この世
界観は、ヨーロッパの拡張の最盛期を支え、ヨーロッパが大成功を収めたために、ヨーロッパ人やその高度の物質文明と接触した人々をも巻き込んでいった。

第9章「自然の蹂躙」
この章では、動物を殺しまくってきた、人間の歴史が展開されます。ほんとに、よくもここまで殺しまくったものだと
、感心するほどです。要約しても、ちょっとここでは紹介しきれません。本書を読んで、人間の傍若無人ぶりを知ってください。もし人間がいなかったとしたら、地球は今よりもはるかに美しく、はるかに豊かだったろうと思います。
農業に関しても、害虫・害鳥・害獣は殺しつくせ、という考え方が主流でした。農薬が作られるのも、殺しつくしの考
え方の延長線上にあるものです。天敵を利用したり、異なる作物を混植したり、といった、自然のバランスで虫を抑える、という発想は、なかなかあらわれなかったわけです。

第10章「第三世界の成立」
ヨーロッパによる植民地支配についてです。前章の「自然の蹂躙」の対人間版で、ひどい話が続きます。農業に関係あ
るところでは、それぞれの地域によく適応した伝統的な農業が崩壊させられて、プランテーションで、自然と人間が収奪されることになるあたりですね。日本は植民地になったことがないと言われますが、これからどうなるかは分からないので、奴隷と強制労働の歴史を勉強して、心の準備をしておくといいのではないでしょうか。
もう一つ、リン肥料の原料であるリン鉱石が枯渇した場合、施肥を大前提にしている今の農業は、どうなってしまうの
だろうと、心配になりました。

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