« 人口抑制策批判 その1 | トップページ | クライブ・ポンティング『緑の世界史(上)』(石弘之ほか訳、朝日新聞社) »

マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』(法政大学出版局)

自給的社会を構想する参考にしようと思いまして、マーシャル・サーリンズさんの『石器時代の経済学』(山内昶訳、法政大学出版局)を読んでみました。いわゆる「未開」の民族の社会を観察・研究した本です。扱われているのは、農耕民も少しありますが、狩猟採集民が多いです。わたし自身の関心としては、自給的農耕民の社会・生活が気になりますが、狩猟採集民も自給をしているという意味では、参考になるのではないかと思って、読みはじめました。おそらく、農耕をはじめた民族は、たやすく開発化社会に飲み込まれてしまって、または開発化社会へ発展してしまって、「未開」ではなくなってしまうのでしょう。
わたしは、社会学や経済学や文化人類学などを勉強したことがないので、こういう専門的な本の読み方が分かっていま
せん。日本語に訳されているのですから、書かれている意味は読めば分かるのですが、それが何を言いたいのか、ということが分からないので(特に、数字を扱うのが苦手)、読んだ内容が頭に入ってこないのです。ですから、わたしのこの本の読み方は、ポイントをはずしていて、浅薄だ思います。面白いと思ったところや、都合のいいフレーズだけを抜き出して、コメントするような形になりますが、そのへん、あらかじめご承知置きください。

自給的社会での労働や社会構造はどのようなものなのか、ということが、わたしの関心にあるのですが、『石器時代の経済学』を読む前に、自給的ではない、つまり他給的な社会での食料生産労働がどのようなものかを、日本を例にとって、ざっと概観してみようと思います。
まず、農林業就業者の割合は、全就業者中、4%ぐらいです。
労働者の賃金を産業別に比べると、1日あたりの賃金が、建設業は約1万5千円、製造業は約1万6千円、運輸・通信
業も約1万6千円、卸売・小売業・飲食店は1万2千円なのに対して、農業の臨時雇いの場合は、男女別の金額が分かっていまして、男は約9千円、女は約7千円、となっています(いずれも百円の桁で四捨五入、2003年統計)。男と女の額の中間をとって8千円としますと、製造業や運輸・通信業の約半分、ということになります。いや、うちの農場は、もっと出すぞとか、あそこの工場は、もっと安かったとか、個別の事情はあるでしょうが、平均して半分の給料、という数字は、どうにもなりません。かせぎたいなら、農場よりも工場、というわけです。
自営農業の年間労働時間(自営農業労働時間÷家族農業就業者数)は、作目区分ごとの数字があるのですが、たとえば
稲作では1623時間、豆類では1530時間、露地野菜では1666時間、採卵養鶏では3100時間、となっています。実際の作目は複合的ですし、兼業農家も多いですから、この数字は、あくまでも目安です。
日本人が食料の多くを輸入に頼っていることは、改めて言うまでもありません。

ということで、いよいよ本題です。『石器時代の経済学』は6つの章からなっていますが、第1章は「始原のあふれる社会」です。英語の原題は“The Original Affluent Society”で、ジョン・ケネス・ガルブレイスの『ゆたかな社会』(“The Affluent Society”)への皮肉がこめられています。
「飢えに苦しむ野蛮人」とか、「朝から晩まで食べもの探しに明け暮れて、それでも必要な栄養を満たせない原始人」
というのが、伝統的な未開社会観なのですが、本当にそうなのか?というのが、サーリンズさんの問いかけです。サーリンズさんは、こう言います。

欲望は、多く生産するか、少なく欲求するかによって、《たやすく充足》できる。

多く生産するだけではなくて、少なく欲求することによっても、「あふれるゆたかさ」を実現することができる、というのです。この、少なく欲求することを、「禅の道」とも言いかえています。そして、デステュット・ド・トラシという人の次のような言葉をあげています。

「貧国とは人民が安楽に暮している国」であるが、これにたいして富国とは「人民が概して貧しい国である」

この言葉は、そのままでは分かりにくいのですが、わたし流に言いかえると、「富を集積しない小国は、人民が安楽に暮らすが、富を集積する大国は、人民が苦労する」となります。老子の「小国寡民」のようなのをイメージするといいのではないでしょうか。「ユートピア」というと都市的で、農奴を必要としますが、小国寡民の里は、生活の糧を自給しますから、安楽なのです。
サーリンズさんは、多くの物を所有しないことは、貧しいのではなくて、所有しなければならないとする観念から自由なのだ、と言います
。本当はほしいのに、がまんする、というのではありません。これは、負けおしみではありません。考えてみれば、わたしたちは、なくてもいいような多くの物に囲まれながら、それらのガラクタどもを得るために、あくせくと働いているのです。
狩猟採集民は、労働時間は短く、余暇が豊富にあって、昼寝の時間が長いです。ブッシュマンやオーストラリア土着民
は、1日の平均労働時間は4~5時間なのだそうです。それしか働けないからではなくて、生産性をあげようと思えばもっと働けるのに、その程度しか働こうとしないのだそうです。そして、それだけの労働で、十分な食料を得ているのだそうです。
サーリンズさんは、次のように言います。

(一人当りの)労働量は、文化の進化につれて増大し、余暇量は減少したのである。狩猟民の自立生計労働は、一日働いて一日休むという間歇性を特色としており、現代の狩猟民も、ひまな時間に昼寝といった行動にともかくこのんであてようとしている。

このような、なまけものな働き方をしていたら、食料不足になるのではないかと心配するかもしれません。たしかに、食料不足になることもあるにはあるのですが、それは特定の、たとえば移動できなくなった家族とかを襲うだけで、社会全体を襲うものではないのだそうです。
それに比べれば、現代社会のほうがよほど食料不足状態だとして、サーリンズさんは次のように言います。

今日の世界について、どういえばよいだろう。人類の三分の一あるいは二分の一もが、毎晩空き腹をかかえて、寝につく、といわれている。旧い石の時代では、その比率は、もっと小さかったにちがいない。前代未聞の飢えの世紀、それが現代なのだ。いま、最大の技術力をもっているこの時代に、飢餓が一つの制度となっている。古ぼけたあの定式を、いまやこう転倒させよう。文化の進歩につれて、飢えの量は、相対的にも絶対的にも増大してきた、と。

狩猟採集民は、移動して生活します。ですから、所持品が少ないのです。ある地域で食べ物がなくなると、別の地域へ移動していきます。ですから、食料が自然によって供給されて、自由に入って使える土地が十分になければ、生活は成り立ちません。現在、森林破壊や砂漠化の進行などによって、自然環境は十分に人間を養えなくなってきています。
遠い未来の夢としては、狩猟採集を中心にした生活もいいですし、感性的にピピッとくる人は、先駆的にやりはじめて
もかまわないのですが、現実問題として、多くの現代人が自給的な形で社会を成り立たせていくには、農業を中心にするやり方が向いている、とわたしは思います。
農業であっても、自分たちが食べる分だけを栽培するのであれば、それほど大変な労働量にはなりません。いらないガ
ラクタを買わないようにして、お金をなるべく使わない生活をしていれば、昼寝をしながら、一日おきに働くことだって、可能かもしれません。過労死するほど働きまくる人たちが多い時代ですが、その対極のような生活の可能性を思い浮かべてみることも、全く無駄なことではないのではないかと思います。

以上で、全6章中の第1章が終わりです。第2章以降の内容は、わたしにはむずかしくなるので、パスします。ごめんなさい。

…と思ったのですが、やっぱり、第4章だけ、ちょこっと。
章題は「贈与の霊」となっていまして、ニュージーランドのマオリ族の贈与の経済システムについて書かれてあります。贈与というのは、気まぐれなプレゼントのようなものではなくて、贈らなくてはいられないような、激しい強制性をもっています。そして、それは、社会的に欠かすことのできない、意義のあることになっています。
形は全然違うのですが、日
本にも贈答とか、慶弔費とかがあって、破ることのできない「しきたり」のようなものがあったしりて、苦労している人も多いと思いますが、そういうのを苦労と思うのはおかしい、という理論もあるみたいで、人生、いろいろな意味で大変だなあ、なんてことを連想したりしました。ちなみに、わたしの母は、自分が死んでも、誰も呼ぶなよ、と言ってますけど。
以上、です。

|

« 人口抑制策批判 その1 | トップページ | クライブ・ポンティング『緑の世界史(上)』(石弘之ほか訳、朝日新聞社) »

草生雨読」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/175263/40476253

この記事へのトラックバック一覧です: マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』(法政大学出版局):

« 人口抑制策批判 その1 | トップページ | クライブ・ポンティング『緑の世界史(上)』(石弘之ほか訳、朝日新聞社) »