冬は畑ができないので、栽培生活ブログも、更新が少ないです。あいかわらず、「新規就農 失敗」で検索してくる人が多いです。でも、北海道有機農業研究会のことを書いたころから、今まで来たことがないような方たちが、このブログを見に来てくれています。道内にあるミッションスクールからも、たくさんアクセスが来ています。
みなさんに、悟りの光が現れますように。
ミッションスクールとは関係ないですが、ある方から、日本有機農業研究会の創設期の思想的な動きが「すごい」ですよ、と、メールをいただきました。前回の記事で、わたしが、「有機農業? 勝手にやれば?」なんて、投げやりなことを言ったもので、注意してくれているのでしょう。
わたしは今でも日本有機農業研究会の会員を続けていています。機関誌の「土と健康」を読んで、会の来歴などは、ある程度承知しています。でも、「すごい」という感覚は、湧かないんですよね。「有機」という概念に神秘的なものを感じて、生命体に社会をなぞらわせようとしている、全体主義に親和的な動き、というレベルにしか、わたしには理解できないです。
前回の記事でも、リンクしましたが、以前わたしがこのブログで書いた記事に、もう1回、リンクしておきます。
「有機」ということについて
この記事で紹介した、トマス・ヒル・グリーンという人に、気をとめてください。キリスト教福音主義派牧師の息子として育った人物です。現在のイギリス社会につながる、社会帝国主義・自由帝国主義の理念をつくった人です。
似たようなものに、国家社会主義(ナチ)というのがあります。ヒットラーの「ナチ」といえば、悪の権化みたいに思われていますけれど、この「ナチ」だって、ちょっと構成材料が違うだけで、社会的・文化的には、社会帝国主義・自由帝国主義とたいしてかわらないのです。イギリスもアメリカも、他国・他民族を侵略して、恐ろしいほど多くの、罪のない人たちを殺してきています(現在進行形)。
この系列には、社会主義や共産主義も、連なっています。政治的に「右翼」か「左翼」か、なんてことは、本質的な問題ではありません。右も左も、ルーツは一緒なのです。
リンク先の記事でも引用しましたが、海野弘さんの要約を借りれば、トマス・ヒル・グリーンの思想によると、「絶対我は自我の自由の実現であり、国家とは、その実現のための道徳的共同意志のあらわれである。つまり国家は、人間を自由にし、生活を向上するために積極的に介入すべきものである。」ということになります。おもしろいでしょう? 国家が介入すると個人が不自由になるのではなくて、個人は国家をとおして自由になるのですって。だから、「束縛は自由である」っていうジョージ・オーウェルの小説『1984年』みたいな不条理が、不条理でも何でもなく、あたりまえな世界が実現するのです。
「有機」という観念をもてあそんで、喜んでいる人たちというのは、その概念が幻想であることが分かってしまうと、裸の王様じゃないですが、みっともないことこの上ないんですよ。同類項にされたくないと、強く強く思います。
古い価値観が崩壊する不安な時代に、手っとり早く、訳の分からない「神秘的なこと」に飛びついただけだと、わたしは思います。東京オリンピックから、大阪の万国博覧会があったころの時代ですね。
それから十数年して、また、「農」への回帰運動があったようです。「精神世界」なんて言葉がはやっていた時代です。わたしはそのころ、東京の「三多摩」と呼ばれる地域や中央線沿線とかの空気を吸って生きていたので、時代の雰囲気は、自分なりに分かっているつもりです。
で、最近は、「スピリチュアル」って名前を変えて、またはやっているらしい。わたしはテレビを見ないので、詳しくないですけど。「エコロジー」と抱き合わせで商品化されていることも、珍しくないようです。「エコロジー」といっても、科学としての生態学とは関係なくて、「エコ」ブランドのファッションみたいなものです。
「エコ」と「エゴ」は似ています。
「農」なんて、神秘でもなんでもないです。目を覚ましてください。
上記の文化現象の流れについては、すごく荒っぽく、印象を交えて言っていますので、間違いが多いと思います。詳しい方は、コメントで訂正していただけると、ありがたいです。
なお、「信者」の方の信仰告白は、いりません。マインドコントロールを解くのは、専門家でもむずかしいぐらいなので、素人のわたしがいちいち対応していたら、人生がいくつあっても足りません。はっきり言って、時間の無駄です。しつこいコメントは削除します。
最近、道内のミッションスクールの方たちからのアクセスが多いのは、わたしが、北海道有機農業研究会の総会の会場にクリスチャンセンターを使用することを批判したからだろうと思います。このことに関連がありそうな記事は、このブログにもいくつか書いていますので、検索の手間を省くために、リンクでご紹介しておきます。
岸田秀『歴史を精神分析する』(中公文庫)
暴力の連鎖が、民族によって伝わるのではない、宗教によって伝わるのだ、ということを、歴史的事実をとおして、考察しています。つまり、迫害を受けた民族が、他の民族に迫害を与える、という連鎖です。この連鎖は、民族の違いを越えて、伝播していきます。暴力を媒介するもの、それは、宗教です。
この記事は、コメントもおもしろいので、コメント欄、字が小さくて読みにくいですが、がんばって、ぜひ読んでみてください。
岸田秀さんの本では、『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』もお勧めです。
岸田さんと対談した、浄土真宗のお坊さんの武田勝道さんが、その内容を、「安芸ねっと」というところで、公開しています。とっても勉強になります。紙の本にも収録されていますが、ただで読めるので、興味のある方は、どうぞ。→「岸田秀先生からの回答」
わたしの、このブログに戻って、宗教の暴力的な性格は、過去のことではない、今もアメリカが、典型的に表現している、ということを書いたのが、下の記事です。
忠誠の誓い
で、こういう信者たちの振る舞いが、他の原因ではなくて、宗教に内在する要因によって起こるのだ、ということを、「聖書」をもとに説明したのが、下の記事です。
「戦争について」
神の残忍さを示す内容は、「聖書」の中にいーーーーっぱいありますが、神が異教徒殲滅を命じる、この「戦争について」という部分(申命記 20.10-18)には、仏教徒としては、特に心が凍ります。リンク先に引用してありますので、ぜひ、お読みください。
異教徒の国を攻めて、そこの男たちは「ことごとく剣にかけて撃たねばならない」のだそうで、そして、女たちは、「分捕り品」として「自由に用いることができる」んだそうです。
こういう記述を残していて、カルトに指定されないのが不思議です。
なにせ、信者にとっては「唯一絶対の神」ですから、他の宗教は、最初から共存することを拒否されているようなものです。いろいろな神がいたって、いいじゃないですか、なんて話は、つうじません。文字どおりに「唯一絶対」だと、かたくなに信じているのですから。
末端の人間の、口先だけの言い逃れなんか、どうして信じられましょう。まずは、「聖書」を、いわゆる「ポリティカル・コレクト」に改訂していただきたいですね。冗談にもできないとは思いますが。
ということで、まとまりませんが、栽培生活ブログの過去ログ案内でした。
信者の方に「改宗しろ」とかは、わたしは言いません。どんなに身近な人が入信しても、わたしはとりもどそうとはしません。入信した時点で、見捨てます。冷たいようですが、そうでもしなければ、身が持ちません。それこそ、自己責任です。ただ、まだとりこまれていない人たちには、注意を促します。わたしにできるのは、それぐらいです。
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北海道有機農業研究会のメーリングリストから
北海道有機農業研究会の場合
【参考外部リンク】
北海道有機農業研究会という組織のこと - 農民芸術学校ブログ
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