槌田敦さんのお父さんの、槌田龍太郎さんの文章を集めた本です。
農業に関心がある人には、この中の「硫安追放」という文章が気になるでしょう。槌田龍太郎の「硫安亡国論(硫安は国を滅ぼす)」と呼ばれる、一連の文章の一つです。昭和32年に書かれた文章です。
槌田龍太郎は化学者です。国民の食料を生産するために肥料が必要だ、ということは、認めています。このへんは、まあ、常識的です。ただ、硫安はだめだ、と言うのです。なぜでしょうか。その理由が、いかにも化学者です。硫安は肥料分を含んでいて、作物をよく生長させます。ところが、作物が肥料分(アンモニア)を吸収したあとに残るのが、硫酸なのです。硫安を作物にやるということは、田畑に硫酸をまいているに等しいのです。名前を見れば分かりますね。硫酸とアンモニアで硫安なのですから。
そこで、その硫酸を中和させるために、石灰をまくことが奨励されています。硫酸と石灰がバランスよく反応すると、確かに中和はされますが、そこに石膏が残って、やはり作物の根を弱めてしまう、というのです。そうやって、硫安と石灰をやり続けると、やがて、作物が育たない田畑になっていってしまうのです。
このような不都合な肥料は、硫安だけではありません。槌田さんは、硫酸イオンを含む硫酸カリウムも、過燐酸石灰もいけない、と言います。
このように、筋を通して説明されれば分かることなのに、将来に起こる不都合に目をつぶって、その場の利害だけで商品(この場合は肥料)が売られることはよくあることですから、長期的な展望をもって、国策に逆らってでも、間違いは間違いだと告発する、槌田さんのような勇気のある人が出てこなくてはならないのだと思います。
硫安は、残念なことに、いまだに生産されて、販売されている肥料です。速効性のある肥料として人気があります(例)。使い続けていると、田畑がだめになるのですが……。たとえて言えば、薬を使って、スポーツの記録を上げる、ドーピングのようなものでしょうか。
畑を耕すことによって、珪酸や‘微量成分’を、作物に吸収されやすい地表近くに持っていくことができる、という指摘も、物質の成分とその働きに注目する化学者らしい説明のし方だと思いました。
これについては、わたしは、イネ科のような、根を深く張る作物を栽培すれば、そして、わらやもみがらなどの残渣物を畑に還元するならば、耕さなくても、地中深いところにある、作物の生長に必要な物質を地表近くへ吸い上げさせることができると思います。根を浅く張る作物ばかりを続けて栽培するような場合に限っては、深く耕す必要が出てくるのだと思います。
この本には、槌田龍太郎さんが書いた、いろいろな種類の文章が収められています。昭和31年に書いた、「私はなぜ化学を選んだか」という、中学を卒業して、商業学校に進学した「R(槌田さんご本人)」が、「商業の正体は罪悪だ」ということに気づいて、退学騒ぎになることを描いた文章が、槌田さんの反骨精神を示しているようで、面白かったです。
引用します。
商業学校を志望したのは、父の希望でも先生のすすめによったのでもなかった。商業学校を出て商人になろうと自分で決心したのであった。しかし入学したとたんに幻滅を感じたのである。それは国語の教科書の「機微」という一章であった。河村瑞軒が、江戸の大火に、いちはやく木曾にかけつけ、材木を買い占めて巨利を得る話である。商人はこのように機を見るに敏でなくてはならぬと教える商業教育に疑問をいだいたのである。もし商業が、他人の不幸につけこんで儲けることを肯定するものなら、しかも学校で堂々とこれを奨励するのだったら、そんな教育はまちがってはいないかと思いはじめた。
「ああ、世の中そういうものなのか」で、世間の常識に染められていくことなく、自分の正義感を貫くところがすごい。周囲の人たちと違っていても、自分の信念を通すところが、すがすがしい。適当なところで妥協しないのです。
もう一つ印象に残ったのは、「未来人への侵略」と題された、昭和24年、すなわち、戦後4年目の年に書かれた文章です。
引用します。
だから我々が各種の資源に対して分け前を受ける権利があると同様に、未来人もまたこれに対して当然の要求を持ち得べきである。しかも資源の量には限度があるから現代人の自由な使用や消耗に放任せらるべきものでない事は明らかであろう。即ち一時代の人類がその贅沢あるいは無知のために地下資源を思うままに採掘して濫費することは、一国の人民がその繁栄のために他国民の幸福を犠牲とする侵略戦争と選ぶところがない。だから文化の美名の下に物質とエネルギーの浪費が行われるならば、これは似而非文化であり、文化の破壊である。我々は消費生活においては何等かの限度を守るべき義務を負っているのである。
鉱物資源は、実際には、安く掘り出せるところは、とことん掘り出してしまう、というやり方がされているのが現実です。いい加減掘り尽くされて、効率よく利用できる資源が枯渇してきたときに、その物質の値段が上がって、それによって、やっと消費にブレーキがかかる、という経済システムが支配しています。将来のことは将来考えればいいという、無責任な人たちばかりと言ってもいいと思います。
これはもちろん、50年近く前になくなった槌田龍太郎さんが言っているのではありませんが、今月末の衆院選で、各党がマニフェストを出していますが、どこもみんな、消費を拡大して、景気をよくして、国民の収入を増やして、福祉を充実させて、少子化にブレーキをかけて……みたいなことばかりですが、正解は、全部逆でしょう。なーーーんにも分かっていないと思います。乗せられる国民も国民です。
硫安批判、商業批判、資源浪費批判などの諸テーマは、息子さんの槌田敦さんに、しっかりと受け継がれ、発展させられています。この本は、親と子の思想的なつながりの妙味を感じさせてくれます。
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