« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

桃の実が生ったので、食べてみました

自宅に庭に、桃の木を植えてあります。わたしの、母方の祖母の旧姓が「森」でして、森百枝という名前でした。それにちなんで、3年前に、桃の苗木を買ってきて、庭に植えておいたのです。「桃栗三年柿八年」と言いますが、本当に3年目の今年、初めて、たくさんの実が生りました。きょう、自然に落下した実があったので、拾って、母と分けて食べてみました。小振りですが、ちゃんと甘い桃の味でした。
もともと浅い土しかない市営住宅の庭で、20センチも掘れば、その下はガチガチ。2メートル以上の樹木の栽培は禁止されているので、上のほうをちょん切りちょん切り、盆栽のように育てていました。一度は地上部が全部枯れて、あきらめていたのですが、根が生きていたらしく、脇のほうから新しい芽を出して、くにゃっと変則的に曲がった幹となりました。そして今、桃の木は、それらの試練を乗り越えて、けなげにたくさんの実を付けました。
果樹は一般的に、無農薬での栽培はむずかしいと言われていますが、放ったらかしていただけなのに、しっかりと育ってくれました。どうもありがとう。桃の実を、ごちそうさまでした。
そうだ、枝を挿し木にして、少し増やしてみましょうか。ちょっとうまくいくと、すぐ欲が出てきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

坂口安吾「日本文化私観」

Sakaguchi

栽培生活のホームページの「田舎の貸し本屋さん」のページに、坂口安吾の「日本文化私観」を追加しました。

坂口によれば、「やむべからざる必要に応じて」つくられるものこそが、本当に美しい、とされます。美のための美は本物でないから、「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ」のだそうです。
何が栽培と関係するのかというと、最後の最後のほうに出てくる、次のくだりです。

必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。

こう言い切ってしまう。かっこいいでしょう? 「やむべからざる必要に応じて」栽培される作物は美しいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

寺田寅彦「草刈り」

Terada

栽培生活のホームページの「田舎の貸し本屋さん」のページで、寺田寅彦「草刈り」がお読みいただけるようになりました。

寺田寅彦は、物理学者であり、また随筆家でもありました。実験物理学、地球物理学の分野で業績を残しました。また、夏目漱石に出会って、文学にも目覚めました。
「草刈り」は、「路傍の草」に収められている短編です。草に対する飄然とした態度と、考えはじめると、あれこれこだわって「研究」に仕立て上げたがるところが、面白いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

佐藤垢石「食べもの」

Satokoseki

栽培生活のホームページの「田舎の貸し本屋さん」のページに、佐藤垢石「食べもの」を追加しました。

佐藤垢石は、新聞記者を経て、随筆家になった人です。大の釣りずきでした。
戦争中の、配給制度の下での食べもの事情を語っています。疎開+帰農の様子とか、農家を訪ねて食べものを分けてもらう人たちのこととか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

まさかりカボチャが交雑していました

今、デジカメがないので、写真がないのですが、まさかりカボチャが、交雑していました。去年の写真を再掲します。

Masakari_2 緑の皮で、紡錘形をしているのが、まさかりカボチャの特徴です。今年の実はどうなっているかというと、いろいろ混ざって出てきていまして、白い皮で、頭のとんがりがないのが、結構あります。おそらく、去年、近くに、白皮の坊ちゃんカボチャを植えてあったので、それが交雑したのではないかと思います。
写真に写っているカボチャは、どれも、まさかりカボチャらしくできています。このカボチャの一つからとった種です。親の見かけは、まさかりカボチャ。1コの親から取ったきょうだい種たち。まさかりカボチャが生ると期待するではありませんか。それが、ばらばらなのですから、困惑してしまいます。

会員頒布で「まさかりカボチャで~す」と、種をお配りした皆様、どんなカボチャができていますでしょうか。純粋なまさかりカボチャではなくて、申し訳ありませんでした。来年は、種屋さんからまさかりカボチャの種を買い直して、まさかりカボチャだけで栽培しようと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

強風

きのうは、強風注意報が出ていました。それでなくても、〈元水田畑〉は、「吹けば強風」の傾向がある地形なのです。強風とカラスの集団が付いてくるのが、この畑の難点です。
きょう、畑を見てみましたら、キクイモが、半分以上倒れていました。根を掘り出して、指ぐらいの小さい芋を、収穫しました。
綿の木が、キクイモの下敷きになっていましたが、救出しました。これからは、キクイモが倒れた分、日当たりがよくなりますから、喜んでいるかもしれません。
キクイモ、倒れて分かったのですが、地上部が大きい割には、根は小さかったです。で、根よりも遠くまで、芋の子どもたちのための地下茎が伸びているのです。少ない元手で派手な商売を展開して、貯蓄は金塊で、遠くスイス銀行に、みたいな感じでしょうか、人間で言えば。自分より次世代を優先しています。
去年、ボキボキに折れまくった白エゴマは、今回はそれほど倒れていませんでした。もう少し育ってから風が吹いたら、危なかったかもしれません。
〈元水田畑〉では、亜麻が倒れまくっていました。
ハトムギ、イナキビ、モロコシは、斜めになりながら、何とか耐えていました。
豆の支柱も、一部壊れていましたが、畝間に草が生えまくっていて、入っていきにくいので、放置することにしました。
小麦の収穫第1陣がすんだ稲架(「とうか」または「はさ」と読みます。うちのは、鉄パイプ製)が、ばっさり倒されていて、隣の畝の作物を潰していました。パイプは、壊れていませんでした。

〈住宅地の中の空き地畑〉では、ヒエが倒れていました。ここも、強風が吹いたのでしょうか。あした、ハウスバンドで、全体をぐるぐる巻きにしてやろうかと思っています。
この畑は、借りて2年目で、今年はヒエも、イナキビも、モロコシも、完全無施肥なのですが、どれも勢いがものすごいです。誰か夜中にこっそり来て、追肥をしているんじゃないかと疑いたくなるほどです。それぐらい、もともとの土がよかったのでしょうし、7月の長雨がよかったのでしょう。しかし、それで倒伏してしまうのですから、ありがた迷惑です。人間、ぜいたくなものですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

適正技術

あしたの朝までずっと雨、という予報でしたので、畑には行かないで、家で過ごしていましたが、少なくとも家の窓から見る限り、大して降りませんでした。たまには、こういう日もいいかも、です。
豆を煮たり、小麦をひいて粉にしたりして、過ごしました。石臼を回しながら、小麦粉なんて、買ったほうが早いし、安いし、うまいしで、効率という考え方からすれば、こんなことをしている暇に、どこかでアルバイトをして、得た金で買ってきたほうがはるかにいいのですが、しかし、この不効率が楽しいのですよね。やめられません。昔の人たちは、もっともっと不効率なやり方をやっていたんだなあと、しみじみ感じ入っています。
食品加工だけではなくて、栽培自体も同様です。芋、豆、麦、どれも、買ってきたほうが早い、安い、うまいです。「うまい」だけは、主観なので、自分で育てて収穫した作物はうまい!と思えば、うまいのでしょう。

自給が不効率なのは、大型機械を使わないからです。トラクターを使えば、くわで耕すよりも、100倍の面積で栽培ができます。
「効率」という考え方は、測る尺度によって変わってきます。投入されたエネルギーに対する収穫物のエネルギーで計算すると、人力農業が、一番効率がよくなります。機械農業は、直接農業に携わる人を100分の1で間に合うようにしましたが、人が食べるために消費する資源、エネルギーを、爆発的に増大させました。この方向は、持続不可能でして、間違いです。大多数の日本人が米を生産させて食べている、このやり方は不適切です。
このことに気がついた人は、自分から、より適正な食料生産の方法で生産して食べてみるといいと思います。そんなこと無理だ、と、大方の人は言うと思います。それはよく分かっています。こんなことを言っているわたしでさえ、いまだに十分自給できていません。でも、いいのです。やれる範囲でやってみることに意義があるのだと思います。
わたしも、畑をやりたいと思って北海道に引っ越してきてから6年目になりますが、本当にいろいろなことが分かって、有意義な来し方であったと思います。「昔はものを思わざりけり」な感じです。

北海道で、北海道の農業者を見ながら栽培をやってきたことも、学ぶことが多かった理由の一つです。北海道は、大型機械を使った大規模農業をやる人が圧倒的に多いです。大ざっぱに言って、都府県の農業の10倍の規模です。北海道は、日本の食料生産基地です。「開拓」の歴史から言っても、国内植民地です。そういう、一種「際だった」土地柄が、ものごとをクリアに認識する助けになりました。違和感は利用するべきもので、解消するべきものではありませんね。

効率の話に戻しますと、実際に作物を栽培したり、食品加工をしたりするときに使う機械・道具は、どのようなものがいいかを考えるときに、わたしは、エルンスト・フリードリヒ・シューマッハーが、彼の著書『スモール・イズ・ビューティフル』の中で、科学技術に求める条件を述べたくだりを思い出します。

 科学者と技術者には、いったい何を求めたらいいのだろうか。わたしの答えは次のとおりである。科学・技術の方法や道具は、
 ――安くてほとんどだれでも手に入れられ、
 ――小さな規模で応用でき、
 ――人間の創造力を発揮させるような、
 ものでなくてはならない。
 以上のような三つの特徴から非暴力が生まれ、また永続性のある人間対自然の関係が生まれてくる。
(E・F・シューマッハー、小島慶三・酒井懋訳『スモール・イズ・ビューティフル』講談社学術文庫)

安いこと、誰でも利用できる方法・道具であることが大切です。それから、小さい規模で利用できること。大規模化を目指さない方法・道具であること、これも大切。そして、「人間の創造力を発揮させるような」方法・道具であること。使いこなして、楽しく作業ができなければ、だめですね。
これらの条件を備えていれば、「効率」なんて、どうでもいいです。時間がかかっても、その時間が楽しければ、ここちのいい疲れになるのではないでしょうか。
具体的に、どのような方法・道具がいいかは、おかれた条件によって違ってくると思いますので、一人一人で判断してください。

はっきり言って、人間は増えすぎています。食料の調達は、むずかしくなってきています。しかしその困難を、機械化・大規模化で解決しようとするのは、間違っています。無駄なことはやめて、大切なことだけに時間を使うようにすれば、知恵のある人間ですから、うまくやっていけるに違いありません。
この程度のことが言えるようになっただけでも、5年以上、無職・無収入で、畑で遊んできた甲斐があるというものではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

‘省力ジャガイモ’、販売をはじめました

新ジャガイモの販売をはじめます。コンパクトデジカメが壊れたので、写真はありません。ごめんなさい。品種は、春掘りのときと同じで、メークイン、キタアカリ、アンデスレッド、シンシアの混合になります。
去年の芋の掘り残しから自然発芽したジャガイモで、不耕起・無施肥(1回だけ、薄めたにがりを葉面散布しました)・草生え放題・連作・土寄せなし、です。無農薬は、うちでは当たり前。何の手間もかけていません。名付けて‘省力ジャガイモ’。
春掘りのときよりも、小粒の芋が多くなりますことを、ご承知おきください。
値段は、据え置きます。5㎏で、400円+宅配料、10㎏で、700円+宅配料、となります。手渡しできる方は、もちろん、送料はいりません。ご注文は、栽培生活のホームページの
「会員頒布」のページから、どうぞ。

ついでにもう一つ、告知です。
拓殖大学北海道短期大学食農研究会発行のフリーペーパー「メ・シクーナ」の第6号、第7号、第8号を、「栽培生活友の会」会員の方限定で、さしあげます。どの号も、伊藤編集長の力作です。わたし田中も原稿を書いています。
ご希望の方は、ご希望の号数と送付先を、メールでご連絡ください。どうぞ、ご遠慮なく。用意した部数がなくなり次第、終了します。9日現在、どの号も在庫あります。

第6号
沖縄県 宮古島のお千代さんに会いに (あかほりりゅうへい)
世界のまん中で飯を喰おう 「虫喰う人々」の巻
「自給的栽培」の楽しみ 道具編 (田中敬三)
土って何だ?〈中編〉
昨日晴耕今日雨読 岡本太郎『歓喜』
今日からできる!ミミズの飼い方 ミミズコンポスト

第7号
沖縄県 宮古島のお千代さんに会いに 其の二 (あかほりりゅうへい)
土って何だ 後編
肥料の話 (田中敬三)
も一度観よう『もののけ姫』
世界のまん中で飯を喰う 「酒飲む人々」の巻
Let's Make Dob-Rock!!

第8号
世界のまん中で飯を喰う 「喰えない人々」の巻
「安い!」‥が世界を破壊する
沖縄県 宮古島のお千代さんに会いに 其の三 (あかほりりゅうへい)
畑の雑草を食べる (田中敬三)
アチチ!!なMOVIE ボーダータウン

*追記*
デジタル一眼カメラを、純粋な善意から、田中にプレゼントしたい、という奇特な方がもしいらっしゃいましたら、メールください。すぐ使えるものなら、使いかけのものでもOKです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

槌田龍太郎『化学者槌田龍太郎の意見』(化学同人)

槌田敦さんのお父さんの、槌田龍太郎さんの文章を集めた本です。

農業に関心がある人には、この中の「硫安追放」という文章が気になるでしょう。槌田龍太郎の「硫安亡国論(硫安は国を滅ぼす)」と呼ばれる、一連の文章の一つです。昭和32年に書かれた文章です。

槌田龍太郎は化学者です。国民の食料を生産するために肥料が必要だ、ということは、認めています。このへんは、まあ、常識的です。ただ、硫安はだめだ、と言うのです。なぜでしょうか。その理由が、いかにも化学者です。硫安は肥料分を含んでいて、作物をよく生長させます。ところが、作物が肥料分(アンモニア)を吸収したあとに残るのが、硫酸なのです。硫安を作物にやるということは、田畑に硫酸をまいているに等しいのです。名前を見れば分かりますね。酸とアンモニアで硫安なのですから。
そこで、その硫酸を中和させるために、石灰をまくことが奨励されています。硫酸と石灰がバランスよく反応すると、確かに中和はされますが、そこに石膏が残って、やはり作物の根を弱めてしまう、というのです。そうやって、硫安と石灰をやり続けると、やがて、作物が育たない田畑になっていってしまうのです。
このような不都合な肥料は、硫安だけではありません。槌田さんは、硫酸イオンを含む硫酸カリウムも、過燐酸石灰もいけない、と言います。

このように、筋を通して説明されれば分かることなのに、将来に起こる不都合に目をつぶって、その場の利害だけで商品(この場合は肥料)が売られることはよくあることですから、長期的な展望をもって、国策に逆らってでも、間違いは間違いだと告発する、槌田さんのような勇気のある人が出てこなくてはならないのだと思います。
硫安は、残念なことに、いまだに生産されて、販売されている肥料です。速効性のある肥料として人気があります()。使い続けていると、田畑がだめになるのですが……。たとえて言えば、薬を使って、スポーツの記録を上げる、ドーピングのようなものでしょうか。

畑を耕すことによって、珪酸や‘微量成分’を、作物に吸収されやすい地表近くに持っていくことができる、という指摘も、物質の成分とその働きに注目する化学者らしい説明のし方だと思いました。
これについては、わたしは、イネ科のような、根を深く張る作物を栽培すれば、そして、わらやもみがらなどの残渣物を畑に還元するならば、耕さなくても、地中深いところにある、作物の生長に必要な物質を地表近くへ吸い上げさせることができると思います。根を浅く張る作物ばかりを続けて栽培するような場合に限っては、深く耕す必要が出てくるのだと思います。

この本には、槌田龍太郎さんが書いた、いろいろな種類の文章が収められています。昭和31年に書いた、「私はなぜ化学を選んだか」という、中学を卒業して、商業学校に進学した「R(槌田さんご本人)」が、「商業の正体は罪悪だ」ということに気づいて、退学騒ぎになることを描いた文章が、槌田さんの反骨精神を示しているようで、面白かったです。
引用します。

商業学校を志望したのは、父の希望でも先生のすすめによったのでもなかった。商業学校を出て商人になろうと自分で決心したのであった。しかし入学したとたんに幻滅を感じたのである。それは国語の教科書の「機微」という一章であった。河村瑞軒が、江戸の大火に、いちはやく木曾にかけつけ、材木を買い占めて巨利を得る話である。商人はこのように機を見るに敏でなくてはならぬと教える商業教育に疑問をいだいたのである。もし商業が、他人の不幸につけこんで儲けることを肯定するものなら、しかも学校で堂々とこれを奨励するのだったら、そんな教育はまちがってはいないかと思いはじめた。

「ああ、世の中そういうものなのか」で、世間の常識に染められていくことなく、自分の正義感を貫くところがすごい。周囲の人たちと違っていても、自分の信念を通すところが、すがすがしい。適当なところで妥協しないのです。

もう一つ印象に残ったのは、「未来人への侵略」と題された、昭和24年、すなわち、戦後4年目の年に書かれた文章です。
引用します。

だから我々が各種の資源に対して分け前を受ける権利があると同様に、未来人もまたこれに対して当然の要求を持ち得べきである。しかも資源の量には限度があるから現代人の自由な使用や消耗に放任せらるべきものでない事は明らかであろう。即ち一時代の人類がその贅沢あるいは無知のために地下資源を思うままに採掘して濫費することは、一国の人民がその繁栄のために他国民の幸福を犠牲とする侵略戦争と選ぶところがない。だから文化の美名の下に物質とエネルギーの浪費が行われるならば、これは似而非文化であり、文化の破壊である。我々は消費生活においては何等かの限度を守るべき義務を負っているのである。

鉱物資源は、実際には、安く掘り出せるところは、とことん掘り出してしまう、というやり方がされているのが現実です。いい加減掘り尽くされて、効率よく利用できる資源が枯渇してきたときに、その物質の値段が上がって、それによって、やっと消費にブレーキがかかる、という経済システムが支配しています。将来のことは将来考えればいいという、無責任な人たちばかりと言ってもいいと思います。
これはもちろん、50年近く前になくなった槌田龍太郎さんが言っているのではありませんが、今月末の衆院選で、各党がマニフェストを出していますが、どこもみんな、消費を拡大して、景気をよくして、国民の収入を増やして、福祉を充実させて、少子化にブレーキをかけて……みたいなことばかりですが、正解は、全部逆でしょう。なーーーんにも分かっていないと思います。乗せられる国民も国民です。

硫安批判、商業批判、資源浪費批判などの諸テーマは、息子さんの槌田敦さんに、しっかりと受け継がれ、発展させられています。この本は、親と子の思想的なつながりの妙味を感じさせてくれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

岡本綺堂「我が家の園芸」

Okamoto 栽培生活のホームページの、「田舎の貸し本屋さん」のページに、岡本綺堂の「我が家の園芸」を追加しました。

岡本綺堂は、小説家、劇作家。作品に、新聞小説「半七捕物帳」などがあります。
この作品は、「綺堂むかし語り」に含まれる一篇です。岡本自身の園芸に関する野性的なこのみを語っています。自然の恵みを無条件に受け入れて楽しんでいる、とのことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

土の中では、

今回も枯れて、だめになってしまった、とあきらめていたニンニクでしたが、何気なく茎を引っ張ってみたら、地中にしっかり、ニンニクができていました。

Ninnikurinkei 単純に、収穫の時期が来ていたので、地上部が枯れただけだったのですね。
さっそく洗って、エアドライで乾燥させました。
鱗片のひとかけらが、1年かけて、約6片のひとかたまりに生長します。米や麦が、1粒が何千倍にもなるのに比べると、6倍という生長のスピードは、遅いようにも思えますが、お金をどこかに預けても、1年で6倍には、絶対にならないですから、そう考えたら、速いのかもしれません。
とにかく、しばらくはニンニクが食べられます。つぶして、スープに入れますか。

枯れると言えば、キタアカリという種類のジャガイモが枯れてきました。ニンニクのことがありますから、もしやと思って、試し掘りしてみました。そうしたら、ころころといっぱいのジャガイモが出てきました。

Jagatameshi 前にも書きましたが、このジャガイモ畑には、今年は、種芋を植えていません。去年の掘り残しをそのままにしておいたのです。耕してもいませんし、肥料もやっていません。しかも連作です。でも、こうやって収穫できるのです。
確かに、小粒の芋が多いので、売り物にはしづらいかもしれませんが、自家消費用には十分です。新しい炭水化物補給源が加わりました。

土の中と言えば、タマネギです。近所の本物の農家では、タマネギを倒して、干しています。うちのニセモノの農家では、ぜーんぜん玉ができてきません。今年もだめかなーと思いつつ、ふと見ると、

Tamanegikyu おっ! 一つ、玉が露出していました。もう少し待ったら、他のタマネギも、食べられるようになるかもしれません。あきらめないで、もう少し待ってみることにします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ノビエ

カッコウが鳴いたら、豆の種を植えていい、と言われています。カッコウは、豆の種のまき時を教えてくれる鳥です。
このカッコウの卵の産み方が変わっています。他の種類の鳥の巣に行って、そこでサッと1個卵を産んで、替わりに前からあった卵から1個を持ち去って、食べてしまうのだそうです。卵をすり替えられた巣の主は、カッコウの卵もいっしょに育てることになります。
カッコウの親が親なら、子も子で、巣の主が産んだ卵たちより早くかえって、他の卵を巣の外に落とすのだそうです。そういう行為を、誰にそそのかされるわけでなく、本能でやってしまうところがすごいです。結局、巣の主は、カッコウの子ども1羽だけのために育児を続けることになるのです。
カッコウのこの一連の習性を、「託卵」と言います。託卵された鳥にしたら、迷惑この上ない話です。

これと似たことが、畑で起こっています。畑の中でカッコウに相当するのは、ノビエです。こいつです(中央の、穂がついているやつ)。

Nobie ヒエはヒエでも、作物のヒエではなくて、自生するヒエ、勝手に生えてくるヒエです。「ヤングマン」の振りの「Y」みたいに、葉っぱを脳天気に、斜め上に突き出しています。
嘘か本当かは分かりませんが、植物の種は、土の中で20年ぐらい種の形で生きていて、周囲の環境が発芽に適する状態になるときを待っている、という話を聞いたことがあります。もちろん種を植えてなんかいないノビエが、小さなマルチの穴の中に生えてきて、作物の成長を抑えて、いつの間にか主の顔をして、繁り栄えているのですから、「種20年間忍耐説」も、ありえそうに思えます。

ノビエは、どの畑からも生えてくるのですが、それほど大きくなる前に気づかれて、抜かれるか、刈られるかされてしまいます。ところが、ヒエ・イナキビ・モロコシ、陸稲、小麦、オオムギ、ハトムギなんかの、葉っぱの形が似ている作物のあるところに生えると、気がつかれないことが多いのです。穂が出てみて、「あ、これ違う!」と気づくのです。
わたしは、何も生えていない土に種をまいて、発芽を確認しました。作物以外の芽が育っているなんて、思いもよりません。ところが、いつの間にか生えて、葉っぱが似ているから見落とされて、少しずつ勢いを付けていって、最後には、植えた作物を抑えて、主人顔をして威張っているようなことになるのです。「穂が違う!」と気づいたときには、もう手遅れ。しょうがない、ここまで育ててきちゃったんだから、このままうちの子ということにしておきましょう、なーんてことになるのですね。ならないか。

ノビエ、手軽においしく食べられるのだったら、このたくましさは「買い」なんですけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »