槌田敦『「地球生態学」で暮らそう』(ほたる出版)
この本には、エントロピー則に則った、持続可能な生態系をつくりだす方法が展開されています。森と農地と海の間で、必要な物質を循環させていこうではないか、と呼びかけているのです。
植物の栄養素(肥料分)がなければ、農地の作物は育ちません。これは、わたしも、以前、2年間ほど、丘の上の畑で栽培をやった経験から、よく知っています。無肥料で栽培ができる場所は、近くの森などから、何らかの栄養素(肥料分)が供給されています。
鳥や、川を遡ってくる魚など、野生の動物たちが、重力に逆らって、海から森へ栄養素を運びます。そして、その栄養素は、今度は重力に従って、水系を流れ下って、農地を肥やし、さらに、海の生物を育てることになります。
生きものが生きていく上で、なくてはならない物質に、鉄があります。窒素やリンがあっても、鉄がないために、プランクトンなどの生物が存在しない海域がたくさんあるそうです。鉄を、どのように上手に、生物が利用できる形にして活用していくかが、生態系を維持するポイントになるようです。
この本で紹介されていて、わたしも、もっと活用されたらいいと思った技術は、人間が食べない海産物を肥料として利用する、というのと、人間や家畜の糞尿を、ため池に入れて、コイや水草に処理させて、そのコイや水草を取り出して、やはり肥料として利用する、というものです。
森と農地と海の間で、このように物質を循環させれば、外部から肥料を輸入する必要はなくなり、自立した生態系を形成できるようになれるのです。
時間的にも、空間的にも、狭い範囲で観察したことを元に物事を考えると、何も問題がないように勘違いしてしまいがちですが、生態系は、ある意味「たやすく」崩壊して、砂漠化していきます。人間が与えてきた損害は、ため込まれています。森林伐採、ダム建設、そして農業……。未来のことを考えて、今のうちにやっておかなくてはならないことが、たくさんあるのです。
面白いと思ったのは、『みの虫革命』の中島正さんの考えを引き継ぎ、発展させているのだと思いますが、この本の著者の槌田さんも、自給以上の食料生産をしてはいけない、と考えているところです。つまり、農産物を自分たちが食べる以上に生産して、それを販売して生計を立てているプロの農家の存在は間違いである、というのです。余剰食料は、国家権力成立の源泉であって、余剰食料こそが、農民が支配される社会をもたらしたのだ、というのです。農民にとって農業は、自縄自縛なのですね。だから、プロの農家としては自己否定的な、しかし、自由に生きる人間としては自己肯定的な生き方が求められるわけです。そのような生き方を、槌田さんは、「半日自給農」という言葉で表現しています。
槌田さんは、また、安全保障の観点から、次のようにも言っています。
国民が余剰食糧を生産しなければ、他の国々に狙われることも少ない。各家庭に隠されている食糧を探し出して徴発(強制的に取り上げること)するには手間がかかるから、完全徴発はできない。
これは、かつてルソーがいった「幸福で平穏な共和国」、つまり「隣国の野心を誘発しない国」に相当する(ルソー『人間不平等起源論』1755)。
必要以上に働かない、あってもなくてもどうでもいいような無駄なものは最初から生産しない、これはある意味、知的で合理的な社会文化を目指す、ということなのでしょう。そういう社会は、もちろん、人口も少なくなっているはずです。『老子』にある「小国寡民」のイメージでしょうか。
槌田さんは、砂漠化を防止するために、科学技術といわゆる「自由貿易」にブレーキをかけよう、と呼びかけています。ひたすらに、生産性を向上させることを目指してきた近代農業のイデオロギーに毒されている人には、ぱっと読んで、何を言っているのかよく分からないかもしれません。食料備蓄=余剰価値の形成こそが、人間の文明の諸悪の根源なのですから、生産性を衰退させることは、人の生き方として正しいのです。必死になって食料生産してはいけません。消費することに酔い痴れてはいけません。やるべきことは、自然の恵みで楽して生きていけるような生態系をつくりだしていくことです。近代農業のイデオロギーを、壊されかかった自分の知性から引きはがして、正気を取り戻すためにも、この本を読んで、考え方をきちっと整理することを、わたしは強く強くお勧めします。
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