« 筑波常治「環境原論――日本農業と自然保護」 | トップページ | 筑波常治「「農業見なおし論」のまぼろしと現実」 »

筑波常治「日本的自然観と環境破壊」

筑波常治さんの『自然と文明の対決』(日本経済新聞社)を読むシリーズ第2回目は、「日本的自然観と環境破壊」です。初出は、昭和46年、雑誌「自由」。

この章の内容をまとめると、欧米に比べて日本の自然の浄化力はすぐれていたので、日本人は長いあいだ、汚い廃棄物は自然が浄化してくれると信じてきたが、自然の浄化力を超える廃棄物を出すようになって、この「信仰」が崩れてしまった、ということになります。
そして、汚い廃棄物によって破壊された環境を前にして、その原因を、機械文明の力不足のせいにする人たちと、機械文明を拒否しようとする人たちとに分かれて、けんかをしている、と筑波さんは言います。このへんの解説は、わたしには、説得力がないように感じます。こういうような2派に分かれて「けんかしている」ようには思えません。
確かに、機械文明を極端に拒否する動きを説明する方法として、自然の浄化力への「信仰」を挙げるのは、分かりやすいと思います。わたしは、筑波さんは、上記2派の中間の「機械を制御しつつ使いこなす」に結論を持っていきたくて、「2派に別れて……」のような解説をしているのではないか、と想像しています。そんな言い方をしなくても、極端な機械文明拒否の動きに対して、その観念性を指摘すれば、ことは足りるのではないでしょうか。実際に使ってみて問題の少ない、いわゆる「適正技術」であれば、いくら使ってもいいのですから。少なくとも、30年以上前に筑波さんがこの本を書かれた時代ではなく、今現在の一般的な日本人の機械文明に対する感覚としては、落ち着きを取り戻しているように、わたしは感じます。

筑波さんはまた、環境破壊の責任を大企業経営者の利益追求と、これを擁護する政府・政治家を非難するだけの人たちも、批判します。こういう人たち(端的に言えば「左翼」ですね)は、ソビエト連邦が崩壊して20年以上たった今でも存在しています。社会的に適当に安泰な位置にいつつ、言葉だけは威勢のいい、きれいごとを並べています。そして、似たような境遇の仲間が集まって、集団自己満足的な言葉を交わし合っています。
筑波さんの文を引用します。

 この立場に立つことは、本人にとって快適にちがいない。諸悪の根源は社会「体制」にあり、「政治」にあるのであって、自分たちにはない。
(中略)
巨大な悪党にたいし、弱者たる自分たちが団結してその非をあばくのだと思いこむことで、正義感は二重にくすぐられる。同時に、具体的にして根本的な解決策をあみだす責任のわずらわしさは、抽象的な「政治」におっかぶせることで、みずからは負わない。そして他方、日常生活では、機械文明の産物たるものを存分に享受し、便利な毎日を楽しんでいる。
 まさに社会科学の皮相的な理解こそ、自然への無条件な信頼にかわり、戦後民主主義のもたらした新宗教といえる。多くの日本人がこれにすがり、独善的な安心立命にひたっている。

初出の雑誌「自由」の版元の自由社は、いろいろ変遷があったようですが、この時代に、こんな原稿を載せていたわけで、「へえー」という感慨が湧いてきます。
筑波さんの、この文章が発表された時代に比べて、今の日本の環境破壊は、急性の劇症は緩和されてきましたが、慢性化・複合化は進んでいます。全国各地に建設されたダムや、原子力発電所など、のちの世代にまで引きずらされる問題が、たくさんあります。
世界に視野を広げれば、中国に代表されるような、これから大きく発展していくであろう国での環境破壊をどうするか、日本としては、発展の「先輩」として、技術的・政策発案的な分野で、協力できるところは協力していくべきでしょう。
空疎な言葉のぶつけ合いではなく、一人一人から、具体的・実践的な方法で、調和のとれた、持続可能な生活を創造していきたいものです。

|

« 筑波常治「環境原論――日本農業と自然保護」 | トップページ | 筑波常治「「農業見なおし論」のまぼろしと現実」 »

草生雨読」カテゴリの記事

コメント

この記事とは関係ありませんが、以前ニンニク栽培跡地では、他の作物が育ち難いと言ったやり取りをしたのを覚えていらっしゃいますか?

今日はその後のご報告です。
前回はアブラナ科でしたが、今回はニンニク跡地にニンジンを栽培したことろ普通に出来ました。

ニンニク跡地は育てづらいというのはあまり関係ないような気がします。
おそらく肥料や農薬による生理障害が起こっているんじゃないでしょうか?

投稿: 耕作人 | 2010年1月10日 13時41分

耕作人さん

ニンニクの話、覚えています。
畑の立地や、前後の作目など、個別の条件を言わないで、ニンニク一般のように言ってしまったのは、よくなかったと反省しています。

わたしが見たのは、わたしが畑を使わせてもらっていた地主さんが作ったニンニク畑です。肥料は(当然)使っていたと思いますが、農薬については、嘘か本当か分かりませんが、地主さんは「使っていない」と言っていました。2年間すぐ近くの畑でわたしも作業をしていましたが、地主さんは、オウトウには農薬を使っていましたが、ニンニク、ジャガイモ、イチゴには、農薬を使っているところを見たことはありませんでした。

品種について言えば、無臭ニンニクでした。
わたしは、自分でもニンニクは栽培していまして、その経験も交えて言いますと、近年の種苗は、一般的に、多施肥を前提に開発されていると思います。わたしが栽培した中では、ニンニク、タマネギ、春まき小麦などの吸肥力が大きいことを感じました。

耕作人さんの畑で、伏流水などによる周囲からの肥料分の流入がないとして、しかも、マメ科の緑肥を利用しない条件の下で、無施肥で連作が可能なのは、低肥料状態で栽培可能な作目であるか、あるいは、自家採種によって、低肥料状態での栽培が可能な作物に変化してきている、と考えられるのではないでしょうか。

それと、これはまだ学問的にも研究途上のようですけれども、アレロパシー(他感作用)の影響もあるのかもしれないと思います。
わたしが見た、地主さんが育てた無臭ニンニクの畑の跡は、除草剤をまいたように、草が生えてこない状態でした。

むずかしいことは分かりませんが、同じ畑を何年も続けて使う場合は、畑を分割して、違う科の作物を輪作して、連作を避けるようには、心がけています。

自然農法、自然栽培の人たちは、自然状態では誰も肥料なんかやらなくても植物は育っているではないか、みたいなことを言いますけれど、自然状態では、周囲からの肥料分の流入がありますし、動物の糞や死骸が肥料になっています。
重いトラクターで土を耕し、ポリマルチを多用し、動物はおろか植物由来の物質も畑に入れようとしない農法は、ある意味、非常に人工的であって、「自然」の看板を掲げるのは、無理があるのではないかと、今のわたしは思います。
川口由一さんの、地面をくわで薄く削って、種下ろしをして、枯れ草をかける、式のやりかたならば、まだ、自然と調和した生き方を探究していることが感じられるのですが。川口さんは「補い」という言い方で、施肥を認めていますし。

ニンニクの話から自然栽培の話にそれてしまいました。無施肥を標榜する耕作人さんには、挑発的な物言いになってしまったかもしれません。わたしは、耕作人さんが、「浅く耕すから、ごめんねー」とか「タマネギが大きくならない!!」とか言ってたころからブログを拝見してますので、おおらかに受け止めてくれると思っています。

有益な情報を、ありがとうございました。
記事とは直接には関係ないコメントかもしれませんが、自給を目指す人たちにとっては、こういう、栽培についての具体的な情報が役に立つのだと思います。

投稿: 田中敬三 | 2010年1月10日 15時20分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/175263/47236129

この記事へのトラックバック一覧です: 筑波常治「日本的自然観と環境破壊」:

« 筑波常治「環境原論――日本農業と自然保護」 | トップページ | 筑波常治「「農業見なおし論」のまぼろしと現実」 »