« カボチャ24きょうだい | トップページ | 筑波常治「日本的自然観と環境破壊」 »

筑波常治「環境原論――日本農業と自然保護」

筑波常治さんの『自然と文明の対決』(日本経済新聞社)という、面白くてためになる本を、古本で見つけて、今、読んでいるところです。雑誌などに発表した12本のエッセー+エピローグで構成されています。このエッセーを、きょうから毎日一つずつ読んでいくことにします。
筑波常治(つくば・ひさはる)さん。日本農業技術史、生物学史の研究者で、エッセーも書いていらっしゃいます。昭和5年生まれなので、今年で80歳になられます。
今回読む本は、33年前に出版された本で、新刊でもそうですが、古本でもまず、手に入りません。出会えたわたしは、とても幸運でした。道立図書館には蔵書されていますので、近くの市立図書館とかでリクエストしておけば、取り寄せてもらえると思います。

では、最初の「環境原論」から、はじめます。初出は、昭和46年、雑誌「思想の科学」です。「原論」というだけあって、用語の吟味からはじまります。
「自然保護」という言葉が使われるけれども、筑波さんは、まず、自然と人工が対立概念であることを確認します。そして、保護とは人工的に手を加えることだから、自然に保護を加えたとたんに、それは厳密な意味での自然ではなくなる、と言います。ところが、どんなに人工的な風景でも、水と緑があれば自然があると、特に都会に暮らす人たちは誤解する、と言います。田畑を見て、「自然が豊富にある」と言ったりするのがそうです。この誤解は、日本の文化が、豊富な水や植物に依存して成り立っていたことに起因するのだろうと、筑波さんは言います。
田畑は、自然ではありません。人工的に作られた、生態学的に、非常に不安定な場所です。人間と雑草や害虫との攻防が繰り返されている場所なのです。ヨーロッパ農業が「三圃式」と言って、3年に1度休耕して雑草を生やしていたのに対して、日本の田畑は昔から極端に人工的です。そうなった理由として、筑波さんは、日本の気候や、生える草の性質を挙げています。
雑草や害虫の駆除が人力で限界までなされていた日本の農業では、戦後の農薬の普及は当然であったろうと筑波さんは言います。その上で、農薬禍の原因を製薬資本の営利主義だけのせいにするのは、農民に対する侮辱であり、都会人の思い上がりだと指摘しています。「下部構造は上部構造を規定する」というマルクスの言葉ではありませんが、どこに生まれて、生活基盤をどこに置くかによって、ものの見方、考え方が規定されてしまう現象が、ここにも見られるわけです。
わたしも、農業をやろうとして北海道に来て、そして、その困難さに気づいてあきらめたことによって、はじめて気がついた貴重な発見がいっぱいあります。自分の立ち位置を変えることは、非常に大切です。自分の生活の成り立ちを変えられない人は、いつまでたっても、それ相応の狭い考え方から抜けられないでしょう。

最初に出てきた自然保護という言葉の吟味にも関連するのですが、筑波さんは、日本で唱えられる「自然保護」は「特別な自然物の保護」だと言います。野鳥を愛する人たちは、美麗でも美声でもないカラスやスズメに冷淡なように。このような傾向を、筑波さんは「農業的感覚」の自然保護だと言います。言い得て妙です。
「自然保護」に関連して、もう一つ大切な指摘があります。それは、「自然界には生物種属間の栄枯盛衰が存在する」ということです。自然のままにしておけば、滅びる種属が必ずあり、新しい種属が必ず興ってくる、と、筑波さんは言います。しかし、「自然保護」は、この自然の営みに抵抗して、特定の種属を滅びないように保護する。
この問題提起は、人間の個別の文化とか、民族とか、あるいは人類そのものの「滅び」とつながる、重要な論題だと思われます。つまり、栄えることもあれば、滅びることもある、それが自然の姿だ、ということです。

「農業は自然破壊だ」という観点から、筑波さんは次のように言います。引用します。

 どれほど美しい野草であり、野鳥であろうとも、自然のままにしておくなら、少なくともその一部は絶滅へむかう。これが自然界の法則である。それをあえて保護するとなれば、そのために要する手間・管理は、これまた時代とともに増強されざるを得ない。この結果、現在のところ野鳥および野草とよばれている生物のいくつかが、将来は完全な人間の管理下におかれることになるだろう。自然保護の帰結はそういうことであり、つまり新しい農業(すなわち自然破壊)の再現なのである。

ここでは、「自然保護」は、農業化していく、という指摘をおさえておいて、少し角度を変えて考えてみましょう。
コリン・タッジという人が『農業は人類の原罪である』という本を書いています。英語の原題は、全く意味の違うものらしいのですが、中で言っていることは、題名どおりなので、この題名をいじってみましょう。
キリスト教の考え方によると、わたしたち人間は全員、原罪と呼ばれる罪を抱えているらしいのです。人間の本質として、罪を抱えている、という発想です。そしてこの罪は、救世主によってあがなってもらわなくてはならない、と誘導していくわけです。
仏教は、ものごとにはすべて本質がない(諸法無我)と考えます。ですから、「原罪なんてない」と、あっさり言ってしまいます。「あると言うなら、持ってきて見せてよ」と。
フロイトの晩年の文化論は面白いのですが、キリスト教が原罪を実在化したように、諸行動の根源としての「欲望」というものを実在化しているので、「人間というものは、欲望に動かされているものだ」という宿命論になってしまっています。
仏教思想の核心は、縁起・縁滅説です。ものごとは、すべて原因があって現象している。だから、その原因を滅すれば、その結果として現象している現実世界も滅することができる、と説きます。仏教は、「このよう」ではない別の世界を想像させる思想であり、世界を「このよう」ではなくさせる方法論まで教えてくれています。
わたしたち日本人が、なぜ雑草や害虫を忌み嫌うのか、なぜ勤勉に働きたがるのか、なぜ季節の変化に敏感なのか。そういったような性質は、日本人の本質ではありません。そういう性質を持った民族が日本人であり、日本人とはそういう性質を持った民族だ、と、同義反復的に言ってしまっては、何も説明したことになりませんし、何も変えられなくなります。神話というものは、有無を言わさず人びとの思考を型にはめるための道具だと言っていいでしょう。
現象には原因があるのですが、まずその前に、現象を把握することが、なされなければなりません。自分たちがまさにそのただ中にいる現象は、当のわたしたちに、非常に認識されにくい。視点を変えることによって、見えてくることがあるでしょう。異文化の中で暮らしてみるとか、社会的立場を変化させてみるとかいったことが、助けになるかもしれません。都市に住む労働者から農民や漁民に生活の基盤を変えてみるのも、とてもいいことだと思います。
現象の把握に続いてなされるべきことは、その原因の究明です。筑波常治さんがこの本の中で展開しているやり方は、とても参考になります。歴史的に見た、気候や、雑草や、作物の日本的特殊性を把握することによって、日本人のどのような性質がどのように形成されていったかを考えるのです。
自分たちの性質を知り、その性質が形成された原因を知ることによって、その性質の解消=克服の方法も分かってきます。方法論の面に限って言えば、仏教と科学は、大変よく似ています。

「環境原論」に戻ります。
筑波さんは、自然保護区の矛盾を指摘します。一定の土地を柵で囲って、内部に手を加えずにいても、自然は保護されない。保護区を自然界に近い状態に保つためには、人間による入念な管理が必要だ、と筑波さんは言います。田畑においてするような入念な管理が。
田畑は、土と作物以外のものを極力排した人工的な空間ですが、自然保護区は、定義上、人工的に手を加えてはいけないものを、人工的に入念に管理しなければいけない、という、にっちもさっちもいかないことになってしまうわけです。
このこともまた、わたしの悪いくせで、仏教にからめて言うと、ものごとは変化し続けている(諸行無常)、なのにそれを、「自然とは、これこれこういうものである」という固定的なイメージにとどめておこうとするから、無理なのだ、ということになると思います。

続いて筑波さんは、自然保護運動が地元民に冷たいことを指摘します。自然保護運動は、おうおうにして、地元民が文明の恩恵に浴することを妨げてしまうのです。「自然保護論者の大部分には、都会人のエゴイズムがあるように思われる」と、筑波さんは言います。そして、「これこそは、農村を〝都会の植民地〟たらしめようとする発想にほかなるまい」とも。都市と農村が分化して以来、農村は都市の植民地でした。週末に旅をして、農村の「豊かな自然」に触れて癒されたい。そのためにも、農村にある「豊かな自然」を破壊するな、と叫ぶ、都市住民のエゴイズムが、都市住民自身によって、それがエゴイズムであると自覚されることはあるのでしょうか。
中国の文明がこれ以上発展すると、公害がひどくなるとか、日本へ輸出する食料を自国消費に回されて困る、とか言っているのは、これと同じことです。中国人の立場で考えられない、エゴイズムの一種です。
丘浅次郎が、「所謂自然の美と自然の愛」の中で、自然を利用するしかない人間が、自然を愛するなどと言うのは欺瞞だ、という意味のことを言っていますが、それと同じ欺瞞が、自然保護運動の中にはあるのです。ちなみに、筑摩書房版の『近代日本思想大系 丘浅次郎集』の編集をなさったのは、筑波常治さんです。
いったい、どうすればよいのか。引用します。

 いったい、どうすればよいのか。自然保護にまつわる安易な幻想を捨てるべきだと思う。人間が自然を保護できるというのは、完全な思い上がりにすぎない。文明の起源とともに、人間が自然に対してなし得ることは〝破壊〟だけに限定されてしまった。現代人はこの宿命をしょいつづけるほかないのである。

「宿命をしょいつづける」とは、また悲観的な言い振りですが、まず、ここをきっちりさせないと、先へは進めません。もちろん、このような自然と人間の関係を十分理解した上で、非常に逆説的なやり方で折り合いをつける方法はあるのですが、それはまた別の文章になりますので、きょうは、ここまで、です。

|

« カボチャ24きょうだい | トップページ | 筑波常治「日本的自然観と環境破壊」 »

草生雨読」カテゴリの記事

コメント

『自然と文明の対決』、非常に興味をそそられます。
筑波さんのそもそものスタンスがエピローグにもあるように、「文明など<本当の自然>には対抗し得ない」というものであること、そして「人間が自然に対してなし得ることは〝破壊〟だけに限定されてしまった」という考えが基本にあることは、悲観的なようでいて実はけっして諦観ではないように感じます。

現実を直視せずに楽観的になるより、若しくは(現在のエコエコ環境保護運動のように)特定の部分だけを切り取って悪玉に仕上げてその場をやり過ごそうとするより、よっぽど誠実でしょう。
農業もまた然り、です。自然と人間の文明の対決、その衝突点がまさに農業、いや農耕ですから。
農耕と自然の関係をはっきりさせないまま次の一手などさし得ない、とつくづく思います。

それにしても、この本が約30年前。同じように農耕や文明と自然の関係を誠実に問うた本が1960~80年ごろにたくさん出ているにもかかわらず、まったく生かされずに現在があることにちょっと萎えそうになりますが、自分の場所でまた再構築しながらボチボチやってくしかないんでしょうねー。

投稿: イトウ | 2010年1月 7日 11時43分

問題を問題と認識して、その原因をつきとめて、解決する。当たり前すぎるぐらい当たり前のことなんですけどね。

文明の起源と農耕は、リンクしていると思います。牧畜で一定の文明を築いた民族もありますが。
非常に重要なテーマなのですが、意識されることが少ない。農業が、そして、農業に基盤をおく文明が、空気がふだんわたしたちに意識されないのと同じように、意識されないからなのでしょう。

古い本に挑発されることは、よくあります。文章が書かれた時代背景なんかも考えて読むと、面白いです。
面白い本がうずもれて、忘れられていくのは残念なことです。図書館なんか、蔵書を管理しきれなくて、ときどきまとめて廃棄してますし。
本を読んだ感想を伝えあったりすることが、いい本を思い起こさせて、それらが残るきっかけになったらいいですね。

投稿: 田中敬三 | 2010年1月 8日 15時54分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/175263/47219008

この記事へのトラックバック一覧です: 筑波常治「環境原論――日本農業と自然保護」:

« カボチャ24きょうだい | トップページ | 筑波常治「日本的自然観と環境破壊」 »