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筑波常治「反自然性としての農業」

Hisaharu_tsukuba 筑波常治さん

「私淑する」という言葉があります。直接教えを受けたわけではないけれど、その人が書いた本などから間接的に強い影響を受けるようなことですけれど、わたしが生態学・生物学・農学が重なるような学問領域で私淑しているのが、筑波常治さんです。自然と人間の関わりとか、栽培=農という営みの意味と、その未来、といったことについて、筑波さんほど深く、しかも分かりやすく語れる人は、他にいないのではないかと思います。
きょうは、1975年に出版された、長須祥行編『講座・農を生きる3〝土〟に生命を』(三一書房)の第2章、筑波常治「反自然性としての農業」という文章を読みます。この本は、すでに書店では売られていませんが、大きな図書館に行くか、オンライン古書店なんかを利用すれば、入手して読むことができます。
「講座・農を生きる」というのは、全5巻のシリーズもので、各巻6~7人の執筆者が、それぞれの巻のテーマに沿った主張を繰り広げているものです。シリーズ全体の傾向として、筑波常治さん以外の諸執筆者は、農の意義を「復権」させようとする方向性を持っているように思われるのですが、筑波さんが書いた、この「反自然性としての農業」という一章だけは、唯一、人間の栽培=農という営みを批判的に捉えていて、強烈に異彩を放っています。

 たとえ話で考えてみよう。ある場所に、ライオンとシマウマがいて、前者が後者を食べている。もしライオンがシマウマを食べつくし、シマウマが絶滅してしまうと、つぎにはライオンが食糧不足におちいり、これまた絶滅せざるを得ないことになる。ライオンが種族として存続するためには、一定数のシマウマが種族として存続しなければならない。つまりライオンは無制限にシマウマを食べつくしてはならず、ある個体数以上のシマウマを食べのこさなければならず、ということはライオンの食物消費量が制限されることにほかならない。そして食物の制限は、必然的にライオンの個体数の制約をまねく。すなわちライオンはある数をこえてふえるわけにゆかない。こうして一定数以下のライオンと、一定数以上のシマウマが、その場所に共存することになり、こうして自然界のバランスがなりたってゆく。

生物の食物連鎖と、それぞれの種の個体数のバランスの保たれ方の話です。これは、生態学の基本中の基本で、生態学の教科書の最初のページに書いてあるようなことです。文明のありようを考えたりするときに、これほど重要な考え方は、他にないほどなのに、意識にのぼることが非常に少ない。小学校低学年でも、理解できるような簡単なことなのに、どうして学校でちゃんと教えないのでしょうか。学校で教えない理由は、まあ、だいたい想像がつきます。このような生態学的発想を敷衍していくと、国家の理想とずれていってしまうから、学校では、ちゃんとは教えられないのでしょう。
国家の理想は、人口が増え、都市が発達し、高度な文明が栄えることです。ライオンとシマウマのたとえで言えば、ライオンを増やすことです。ライオンが増えようと思ったら、餌であるシマウマを増やさなくてはいけなくなる。シマウマの餌を確保しようと思ったら、牧草を栽培しはじめなくてはならなくなる。ここが、人間とライオン(人間以外の動物)との、運命の分かれ目です。人間は増えようとした(減ることを恐れた)、だから農業をはじめた。いっぽう、ライオンは増えようとしなかった。だから農業をはじめなかった。
人間は、自然のバランスの中で生きていたころの何千倍もの数に増えてしまいました。そのために、年がら年中畑にへばりついて、働きづめに働かざるを得なくなったのです。いっぽう、ライオンは増えなかった。ですから、今でも、腹が減ったときにだけ、シマウマを捕まえて食べれば、それだけで生きていけるのです。食料を生産する必要がないのです。

人類の歴史の中で、一定の土地から、より多くの農生産物を得ようとする努力が重ねられました。しかし、生産性は無限に増やせるわけではなく、必ずどこかで頭打ちになります。
「農生産物」などと、つい、何気なく、あっさりと言ってしまいますが、これはいったい何なのでしょうか。筑波さんは、農生産物の「意味」を、人間による栽培の起源を想像しながら、明らかにしていきます。

作物は野生植物から進化したものである。ただ進化の原因が、人間の干渉によったのであり、この点で自然界の進化とは一線を画している。こうして利用価値がたかめられたが、それは具体的にいうと、利用できる部分が大きくなったのである。そしてその「部分」とは、作物にとって「器官」にほかならない。つまり作物とは、身体の一部の器官が、ほんらいの自然状態にくらべて、極度に肥大化した植物とみなすことができる。
(中略)
作物の特徴は、前述のように、身体ぜんたいのなかで、ある特定の器官だけが、いわばアンバランスに肥大していることである。イネやムギ類はたねの数が、ダイコンは根の容積が、キャベツやハクサイは葉の面積が、極端に大きくなっている。自然界の植物としてみれば、これらは完全な奇形である。人間によって、奇形化された植物群である。そしてその奇形のていどが、時代とともに「改良」の名のもとに、いっそうひどくなってきた。

「改良」の名の下に続けられてきた植物の畸形化は、栽培作物を脆弱化させました。自然にあらがう「栽培」という反自然的営為に対して、自然が逆襲をはじめます。

自然のままに放置しておくと、田畑にはいつのまにか、人間のまかざる各種の野生植物が根をおろしてしまう。そしてかぎりある空間と、そのなかのかぎりある養分や水分を、うばいあうようになる。その結果は、野生植物がかならず勝つ。なぜならば作物とは前述のように、奇形化した植物にほかならず、生活力が虚弱だからである。生存競争によって、弱者は駆逐される。人間がせっかくたねまいた――苗を植えた――作物はことごとく枯死し、消滅してしまい、田畑は野生植物におおわれることになる。換言すると、田畑にはつねに自然の土地の状態へ、復元しようとする作用が内在している。

かくして、「雑草や病害虫などとの戦い」がはじまるのです。自然との闘いは、反自然性としての栽培=農の宿命であるのです。宿命……そう、人間は、自ら、苦労を背負い込む方向へ進んできてしまったのでした。
栽培における人間の努力は、品種改良の他に、肥料の投入による、一定面積の畑からの収量の増加、というほうにも向けられます。これは、いわゆる化学肥料が量産できるようになるまでは、草を刈ってきて畑にすき込む、というやり方が一般的でした。
筑波さんは、ここで、再び、ライオンとシマウマのたとえを想起させます。そして、ライオンが際限なく増えることが困難であるように、採草地における有機物の枯渇のために、草をすき込む方式で畑を際限なく拡大することは、やがて限界にぶつかることを指摘します。

さて、ここで、筑波さんは、農業者が自然と農との関わりについてとらえるやり方において、奇妙な「倒錯」が起きていることを指摘します。

土地生産力の向上――おなじ面積の田畑から作物の収穫がふえることは、それだけ環境が人工化し、奇形植物の純粋培養にふさわしくなったわけだが、その意味を倒錯させ、農法のやりかたが自然に調和したればこそ、生産もあがるのだと判断した。そういう判断の前提には、土地のもっている生産力への過度にして無邪気な信仰があった。すなわち土地のなかには、無尽蔵な生産能力がかくされており、それを引きだすことこそ技術の役割であり、自然にたいしてもっとも誠実な態度なのだという信念である。人間が自然に手をくわえ、農業生産がたかまるのは、人間の努力にたいする自然の恵みにほかならず、かくして人間と自然との関係がますます理想的なものに近づくと考えられた。

ここに指摘されていることは、正直言って、わたしの中にもある傾向です。この部分を読んで、あまりの鋭さに、わたしは、思わず〝ギクッ〟と飛び退きました。「自然農」などと言って、自然を愛しているような気になっていながら、じつは、自然の「無尽蔵な生産能力」を「無邪気に信仰して」いるだけなのではないか。自然をよく知れば、生産性が上げられると思い込んでいないか。こういう「無邪気な信仰」は、投入した肥料の元素の量を計算するような、モダンな農法の人たちよりも、むしろ、「自然ナントカ」いうような農法の旗印を掲げるような人たちのほうが、より激しくとり憑かれているのではないでしょうか。

で、筑波さんの結論は、人類の繁栄という理想を断念しなければならない、ということになります。ちょっと長いのですが、どこも大切で、短く要約しにくいので、引用させてください。

自然の土地とはほんらい、無尽蔵に物をうむ「打出の小槌」ではないはずである。その生産力は、ある段階まででかならず頭うちになる。この限界をわきまえずに、生産力をひたすらあげつづけようとつとめることは、土地にたいする酷使ではないか。すでに明治以前から、化学肥料や農薬がでてくるよりもずっと前から、日本農業の中心は土地の「酷使」にあったのではないか。しかも酷使を酷使と思わぬような盲点を、それはともなっていた。だからこそ、ありとあらゆる人工的手段を土地にくわえ、自然状態から遠ざかった田畑にかえる行為を、大地への愛情の発露のごとく思いこんだのではないか。科学的農業のまねいたつまずきは、けっして予想外ではなく、多年にわたる蓄積の当然の帰結ともいえる。
 だが考えてみると、これは日本にかぎらず、農業という行為そのものの宿命ではあるまいか。自然界のバランスをこわし、人類という一種族の繁栄のみをもたらすための手段が、農業だったのであるから。日本の場合、人口密集型の社会という条件があって、その本質がことのほか早く表面化したということにすぎまい。 だとすれば、たんに化学肥料をふたたび有機質肥料にかえるといった小手先の転換で、問題は片づかないのである。農業の目標であった土地生産力の向上を、ある段階までで断念すること、ということは、人類のかぎりなき繁栄という理想への努力を、人間がみずからの意志で抑止すること、そのことが可能かどうかが、いま問いなおされているのではあるまいか。

筑波さんがこの文章を書かれたのが1975年。ほぼ同時期に書かれた『自然と文明の対決』(日本経済新聞社)の中で示された「亡国の思想を!」の主張につながっていく発想が、ここにも見られます。
今、政府は、少子化対策などと言っていますが、少子化、大いにけっこう、不景気、大いにけっこう、国力の減衰、大いにけっこう、そう言えなくては、だめでしょう。ライオンとシマウマの関係のように、食べたいときにとって食べればいいような、自然が与えてくれる範囲を超えないように生きる、その方向を目指すことが大切なのではないでしょうか。
一定量以上の農産物を出荷できないと、農業者として失格の烙印を押される。あるいは、自分名義の口座に、毎年負債が積み重なっていく。そんな絶望的な農業なんて、やりたくないでしょう? 落ちこぼれないように、競争しますか? 方向が真逆じゃないですか? やめちゃいなさいよ。
自然という宿主にとりついた、おぞましい寄生物である人間。放っておいても、そのうちに行き詰まって滅ぶのでしょうが、文明にブレーキをかけて、少しは自らの醜さを自覚していたんだよ、というところを見せられるでしょうか。わたしは、悲観的ですけど。やっぱり、頭悪いですよ、人間は。
自分への励ましをかねて言っておくと、物理的な痛みは、工夫して、できるだけ避けて、精神的な痛みは、幻想だから、気にしないようにして、死ぬまでなんとか生きていきましょう、ぐらいのことでしょうかね・・・・・・グラッチェ♪♪

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コメント

ご無沙汰しておりました。北海のヒグマです。
パソコンの調子が悪く、早く買い換えなければいけないところなのですが、なかなかそうもいかずにダマシダマシ使っております。いまだに98ではそうなのも当たり前ですが。

筑波常治氏の思想には大いに賛同できますし、私自身常々感じていることです。今、ごく一部では農業ブームなんて言われていますが、こういうこと、今の農業の中では理解されないでしょう。そこが今の農業の限界と思います。
今の農業は、モノカルチャーなのだということを知るべきです。

畑、今年で終わりですか? 残念です。私も週2回、夜勤のアルバイトをしています。百姓だけで食っていく、そんなこだわりは意味がないと理解するようになりました。でも、あくまで生活の主は百姓であり、サラリーマンではないと考えていますが。
どんな時でもしなやかに生きていこうと思っています。

投稿: 北海のヒグマ | 2010年5月12日 23時32分

北海のヒグマさん、こんばんは。

モノカルチャーですか。農業者が自給していない、ということですね。石油を食べているような農業ですものね。とりあえず、今生きている人たちの腹を満たすためには、しょうがないのでしょうが……。
わたしも、「こんなんじゃない」という思いは、常にあります。

「農業ブーム」、いいんじゃないですか? 中には、モノカルチャー向きの人材もいるかもしれませんし。だめならだめで、都会に戻ればいいんですし。ただ、へんにずれたあおり方は、やめてほしいですね、テレビとか雑誌とか。みっともないです。

わたしの畑ですか? 趣味的なものは、続けていると思います。100%自給できるかどうか、なんてことは、どうでもいいことだと思っています。
植林のボランティアで行った平取町の自然と住んでいる人たちが、感じがいいので、引っ越したいなー、なんて思っているんです。あいかわらず、軽いでしょう?

投稿: 田中敬三 | 2010年5月13日 00時06分

スカイライダー(筑波)VSネオショッカー(人口削減策大阪維新)は、筑波教授故人かもしれませんね

mixi RAMBO日記
Gree RAMBO日記

投稿: 世良 康雄 | 2015年3月16日 11時23分

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