« チプサンケ | トップページ | 赤い実 »

スガワラ君ちの鳩時計

小学校の5年のときだったか、スガワラ君という小柄な男の子が転校してきた。農村の中で非農家の家、というのがわたしと同じだったし、一人っ子で親が共働きで、というのも、わたしと同じだった。同じ学級にタカダ君という大柄な男の子がいて、よくわたしにプロレスの技を掛けてわたしをいじめていたのだけれど、スガワラ君が来てからは、もっぱらスガワラ君をプロレスの相手にするようになったので、わたしは少し楽になった。
スガワラ君ちに遊びに行ったことがある。芝生の庭のある一軒家で、鍵を開けて入ると、応接間があって、壁に鳩時計が掛かっていた。その鳩時計は、鎖に付いたおもりを巻き上げて、それを動力に動いているもので、正時になると、小窓が開いて、鳩が出てきて鳴いて、時を知らせる仕掛けになっていた。
そんな鳩時計のある部屋で、スガワラ君がこんなことを言った。
「2つのものごとが同時に起こるということはないんだ。同時に見えても、精密に測定すれば、必ずどちらかが早くて、どちらかが遅いんだ」
これは言い換えれば、あるものごとが起きる時、そのものごとはそれが占有する固有の時に起きるのだ、ということになる。時というのは時間軸上の点だ。点は定義上無限小であり、幅を持たない。2つの別の物が同時に同一の場所にいられないように、2つの別のものごとが時間軸上で同時に起きるということはないのだろう。
わたしたちは、無限小ということを直接認識することができない。「限り・なく・小さい」と、否定の「なく」を入れることによって、認識したような気になっているだけだ。これは、無限大についても言える。「限り・なく・大きい」。英語でもインフィニテサマル、インファニトと、否定の接頭辞「イン」を付ける。英語と同じインド・ヨーロッパ語由来の「なむあみだぶつ」の「あみ」も同じ。アミターバ(無限の光)、アミターユス(無限の寿命)が語源だ。インとかアンとかは、否定を意味する。インポセブル、アンビリヴァブル……エトセトラ。
ところで、無限小の時が実在する、というのは、矛盾ではないだろうか。実在するのであれば、時間軸上で一定の幅を占めている。しかし、一定の幅を占めているのであれば、無限小という定義に反している。だとすれば、ここから導き出せる結論は、あらゆるものごとは実在しない、ということではないだろうか。お釈迦様は「諸法無我」と言われた。わたしもあなたも実在しないのかもしれない。
スガワラ君は、一人でいて、ものを考える時間がたっぷりあったのだろう。鳩時計を見ながら時間について、いろいろ考えていたのだろう。似たような境遇にあったわたしは、大いに共感した。

Goya2

ゴーヤを収穫した。ゴーヤチャンプルーを作って食べた。幸せ。

|

« チプサンケ | トップページ | 赤い実 »

理念」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« チプサンケ | トップページ | 赤い実 »