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2013年9月

酒井映子『五行歌集 ひまわりの孤独』(市井社)

上記タイトルの本から。

ページを
めくったら
白紙だった
終わりは
突然がいい

小説の終わり方と人の生の終わり方とを重ねている。老人ホームで働いていると、人が死ぬ場面によく立ち会う。人は老いて、いつか死ぬ。昨日まで普通にお話ししていた人が、今日は死んでいる、ということは、よくある。いっぽうで、長く苦しみながら死んでいく人もいる。確かに、突然、ぽっくり死ねたほうが楽だろう。わたしもそういう死に憧れる。しかし、人生思うようにならない、というのも、事実だ。

もう一つ。

崩れかけた
廃屋
朽ちるという
やすらぎに
身を任せている

これも、老いを語る比喩だ。老い衰えていくことは自然なことだと思えば、それを厭わしく思うこともない。むしろ、老いることに抵抗しないで、老いを自ら受け容れていくことの平穏さは、清々しい。……と、言うのは簡単だけれど、得てして人の意識は老いに逆らうもの。これをなだめすかすのが難しいのだが。

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赤い実

Akaimi

部屋の掃除をしていたら、赤い実の写真がぽろりと出てきた。裏を見たら“FUJIFILM”の印画紙だ。銀塩写真だ。わたしが農業研修で浦幌に通っていたときに撮ったのだろう。8年前か。早、記憶の彼方。ここ50年間くらいの記憶がどんどん揮発していくようだ。ここはどこなんだろう? 自分は何なんだろう? と分からなくなることがある。
わたしのすぐ忘れる癖、ぼんやり生きる癖、空想する癖は、子供の頃に形成された。この癖は、少なくともそのはじまりにおいては、ある恐ろしい観念から逃れるために形成されたのだと思う。恐ろしい観念とは、キリスト教的な意味での「神」である。

わたしは小学校に行く前に、カトリック系の幼稚園に通っていた。家はキリスト教とは関係ないが、住んでいる所が田舎であったので、その幼稚園しか修学前の子供を預かってくれるところがなかったのだ。その幼稚園で教えられて、食事の前には何だかかんだか、祈りの言葉を唱えていたらしい。
その幼稚園の影響に違いないのだが、わたしは子供の頃、全知全能の神についてよく考えた。神という者は、いつでもわたしの行動を観察しているのだという。いつかわたしを裁くために。どこに隠れても見通せるのだという。外面に表れたことだけでなく、わたしが心の中でつぶやいたことさえも、神には分かってしまうのだという。
秘密がなければ自我意識は育たない。自分という者が何なのかよく分かっていない子供にとって、何もかも知られてしまうということは、自我意識を抜き取られることに等しい。それは、神の操り人形になってしまうことに等しい。それは茫然自失の、とんでもなく恐ろしいことなのだ。
神が世界を造ったのであれば、その一部であるわたしのことも、神はよく知っているはずだ。それなら神はなぜわたしを観察する必要があるのだろう。わたしが何を考え、どんな行動をとるかを観察するために、なぜわたしを泳がせる必要があるのだろう。そんなことは、何もかも知っている神であれば、あらかじめ分かっているはずだ。
この世という神の夢の流れのままに流される魂のない人形になることは、わたしには耐えられなかった。そこでわたしは、甘美な空想の世界に逃避した。それ以来ずっとわたしは空想の世界に遊び続けているのであり、あのころの幼稚園の先生方が望んでいたであろう「心の芯から善い子になる」チャンスを逃し続けている。

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