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赤い実

Akaimi

部屋の掃除をしていたら、赤い実の写真がぽろりと出てきた。裏を見たら“FUJIFILM”の印画紙だ。銀塩写真だ。わたしが農業研修で浦幌に通っていたときに撮ったのだろう。8年前か。早、記憶の彼方。ここ50年間くらいの記憶がどんどん揮発していくようだ。ここはどこなんだろう? 自分は何なんだろう? と分からなくなることがある。
わたしのすぐ忘れる癖、ぼんやり生きる癖、空想する癖は、子供の頃に形成された。この癖は、少なくともそのはじまりにおいては、ある恐ろしい観念から逃れるために形成されたのだと思う。恐ろしい観念とは、キリスト教的な意味での「神」である。

わたしは小学校に行く前に、カトリック系の幼稚園に通っていた。家はキリスト教とは関係ないが、住んでいる所が田舎であったので、その幼稚園しか修学前の子供を預かってくれるところがなかったのだ。その幼稚園で教えられて、食事の前には何だかかんだか、祈りの言葉を唱えていたらしい。
その幼稚園の影響に違いないのだが、わたしは子供の頃、全知全能の神についてよく考えた。神という者は、いつでもわたしの行動を観察しているのだという。いつかわたしを裁くために。どこに隠れても見通せるのだという。外面に表れたことだけでなく、わたしが心の中でつぶやいたことさえも、神には分かってしまうのだという。
秘密がなければ自我意識は育たない。自分という者が何なのかよく分かっていない子供にとって、何もかも知られてしまうということは、自我意識を抜き取られることに等しい。それは、神の操り人形になってしまうことに等しい。それは茫然自失の、とんでもなく恐ろしいことなのだ。
神が世界を造ったのであれば、その一部であるわたしのことも、神はよく知っているはずだ。それなら神はなぜわたしを観察する必要があるのだろう。わたしが何を考え、どんな行動をとるかを観察するために、なぜわたしを泳がせる必要があるのだろう。そんなことは、何もかも知っている神であれば、あらかじめ分かっているはずだ。
この世という神の夢の流れのままに流される魂のない人形になることは、わたしには耐えられなかった。そこでわたしは、甘美な空想の世界に逃避した。それ以来ずっとわたしは空想の世界に遊び続けているのであり、あのころの幼稚園の先生方が望んでいたであろう「心の芯から善い子になる」チャンスを逃し続けている。

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コメント

私も田舎の出身で、家は仏教なのにキリスト教の幼稚園に通ったのでその感覚よくわかります。
だから今でも、気持ちが浮遊しているのだろうか?

人が老いて自然に戻っていく・・・頭ではわかるがはたして自分が老いていくことを受け入れられるか・・・

投稿: kurousagi | 2013年9月18日 16時50分

kurousagiさん、コメントをありがとうございます。似た感覚をお持ちの方があることを知って、あらためて「ああ、やっぱり」と思いました。人間は、恐ろしい空想物をこしらえてしまったものです。わたしなぞは、洗脳されそこないの半腑抜けです。自分独自の空想を繰り広げられるという事実だけが救いでした。
老い、死、……じたばたしているうちに、気付いたときには、飲み込まれてしまっているのでしょう。

投稿: 田中敬三 | 2013年9月18日 17時45分

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