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2016年9月

われもまたたがやすものなり

栽培をしなくなってから久しい。それでも栽培生活のブログを続けているのは、アクセス解析を見ると、毎日それなりのアクセスがあるようでもあるし、あと、引っ越ししたりタイトルを変更したりするやり方がよく分からないからだ。←なんじゃ、そりゃ。

 

きょうは、「栽培をしない=食料生産をしない」ことにからめた話。
お釈迦様が率いる僧団は生産的な活動を一切しなかった。乞食(こつじき)、すなわち、家々を巡って食べ物を恵んでもらって、それを食べて生きていた。
あるとき、お釈迦様があるバラモンの家のかたわらに立って食を乞うと、そのバラモンが、「わたしは耕して種をまき、そして食べる。あたたもそうするがいい」というような意味のことを言う。それに対してお釈迦様は、「わたしもまた耕して種をまき、そして食べている」みたいに答える。で、バラモンが、そんなことしてるの見たことないぞ、と反論すると、お釈迦様は、次のように言う。

信は種子なり、戒は雨なり
智慧は軛につなぎし鋤にして
反省はその柄、禅定はその縄
正念はわが鋤の先と鞭なり
身をまもり、語をまもり
食するに量を制し
真理をもって草刈をなし
楽住をたのしむはわが休息なり
精進はわがひく牛にして
われを静けき安穏に運び
行いて帰ることなく
到って悲しむことなし
かくのごときわが耕耘にして
甘露(涅槃)はその果実なり
われはかくのごとく耕して
すべての苦悩より解脱せり
(相応部経典7、11「耕田」 増谷文雄『阿含経典 第四巻』筑摩書房)

世の役に立ってから食えと言われて、おれだって役に立ってるんだぜと、相手が価値の根拠と考えていることをたとえに使って反論している、という図だ。
このやりとりでは、バラモンは最後には納得するのだが、納得しない場合だってありうる。納得するかしないかは、相手の価値観を理解できるかどうかにかかっている。
お釈迦様の教えそれ自体も興味深く、素晴らしいのだが、生産をしない僧団を、生産することを価値と考える世(社会)の中にうまくなじませ、組み込んでしまったお釈迦様の僧団運営の手腕も、たいしたものだと思う。

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