「すききらいで食べるのではない」

きのう(12月26日)の北海道新聞のコラム欄「卓上四季」(北海道新聞のホームページでも読めます)に、ホッチャレ(産卵を終えた後のサケ)の話が出ていました。

アイヌ民族の長老は、ホッチャレはうまいかと聞かれ「好みと言うより、摂理に従っているだけ」と答えたそうだ。

うまいから、それを選んで食べる、というのは、世界中からいろいろな食べものを輸入して、あふれるほどにある状況の中にいる人の発想なのでしょう。
わたしも、北海道に来て6年間、いろいろな作物を栽培してみましたが、気候や土質に合った作物だけが残ってきました。「あれが食べたい」という発想で、初めていどんだ作物もありますが、たいがいは、失敗しました。
主食系で、今残っているのは、秋まき小麦、イナキビ、タカキビ、ヒエ、ソバ、ジャガイモ、キクイモ、カボチャ、大豆、小豆、菜豆類、エゴマです。
今は、お店で買ってきた食べもの、人からいただいた食べものも食べていますが、量的には、片手間で栽培しても、かなりのところまで自給は可能なのではないかと思えるようになってきました。
こういうのが、「摂理」に乗る感覚なのかもしれません。ただ、「摂理」という語は、もともとはキリスト教の宗教用語で、神の意志(providence)の意味なので、仏教徒のわたしとしては、「因果の関係を理解する」ぐらいの表現にしておきたいですけど。

先ほど引用した、北海道新聞のコラムの中に「北海道サーモン協会」の語があったので、検索してみましたら、元ネタらしいブログを見つけました。北海道サーモン協会のブログです。
北海道新聞よりも、もう少しくわしく書かれています。

ある時、アイヌの萱野氏が対談で、質問者の「もっと下流のほうが赤い身のサケが獲れるのに、アイヌはホッチャレが好きなのか」との問いに、「アイヌは好きでホッチャレを食べているのではない。自然の摂理で生きているだけだ」と答えていた。

サケが川をさかのぼれないようにダムをつくってきたのは、わたしたちです。さまざまな動植物を得させてくれた谷・沢を、ダムの底に沈めたのは、わたしたちです。
二風谷ダムは、土砂がたまって、洪水が起きた場合には危険なダムになっているそうです。脱ダムどころではなくて、どうやって安全に廃ダムするかが、大きな課題になっています。
身近な自然を殺して、食べものは輸入する、という、これまでわたしたちがやってきた無理な生き方のツケを、いよいよ払わなくてはいけない時代になってきたのです。わたしたちは、将来の世代の人たちに、「あの時代の人たちがツケを残していった」と、うらまれることがないように、生きていかなくてはいけないと思います。

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青空文庫の「ケヶ」問題と「行頭括弧の字下げ」問題

『いたこニーチェ』の記事でも触れましたが、青空文庫では、「ケヶ」の問題と「行頭括弧の字下げ」の問題を巡る対立が、ずっと続いています。
青空文庫というのは、著作権保護期間を経過した本を、電子テキストとして入力して、インターネット上に公開して、無料で読めるようにしている団体です。入力・校正をしている人たちは、一部の人を除いて、多くは無報酬(ボランティア)でやっています。わたしも、つい最近やめましたが、9年間、無報酬で作業をしてきました。

「ケヶ」の問題のほうから説明しますと、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」という字があります。「三ヶ月」とか「金ヶ崎町」といった使い方をする字です。この「ヶ」は、片仮名で「三ケ月」とか「金ケ崎町」と表記することもあります。青空文庫のルールでは、底本(入力や校正に使う元になる本)で「ケ」であっても、物を数える際や地名などに用いる「ケ」はすべて「ヶ」に代えて、文末に「※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。」という註記を入れることになっています。

わたしとしては、底本が片仮名の「ケ」を使っているのであれば、そのとおり「ケ」で入力することが、その底本をつくった人たちの思いを継ぐことになって、いいと思うのですが、青空文庫では、それを認めてくれません。
ようするに、青空文庫の人たちは、物を数える際や地名などには小さな「ヶ」を用いるのが正しくて、片仮名の「ケ」を用いるのは間違いだ、間違いは正さなければいけない、と思っているのです。自分が正しいと思うやり方に、すべて統一させようとしているのです。

わたしがこのルールが間違いであることに気づいたのは、文末に入れさせられている「※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。」という註記をよく見ていたときでした。「ヶ」を大振りにつくっている?
わたしは、自分が底本に使った本を調べてみました。該当する文字をスキャナーでスキャンして、画像を半透明にして重ねてみたのです。

Keke_2

片仮名の「ケ」と大振りにつくられた「ヶ」とされている文字は、調べたすべての本で、形・大きさ・位置が、すべてぴったりと一致しました。ぴったりと同じ形・大きさ・位置の文字を、文脈から判断して使い分けている、ということはありえません。つまり、ここで使われているのは、大振りにつくられた「ヶ」ではなくて、明らかに片仮名の「ケ」なのです。「ヶ」に直させたがる人たちが、底本どおりに入力すべきだ、という批判をかわすために、この「ケ」は片仮名の「ケ」ではなくて、大振りにつくられた「ヶ」だ、という詭弁を弄していたのです。それが、画像を重ねてみることによって、嘘だとばれてしまったのです。

わたしは、底本が「ケ」ならば、そのとおりに「ケ」で入力することが正しいと思いますが、「ヶ」に直したい人たちの気持ちも分かるから、どちらでもいいことにしたらどうでしょうか、と提案してみましたが、受け入れてもらえませんでした。

わたしは、青空文庫の人たちに、青空文庫のルールを守れないのならば、そういうファイルは、どこか別のところで公開すればいいのでは?、という意味のことを言われました。
異論をもつ人を排除しようとしていると、最初は反発を感じたのですが、考えてみれば、電子テキストを青空文庫に集中させるよりも、個性的なテキストアーカイブがあちこちにできるほうが、文化現象としては健全なのかもしれない、と思いなおして、わたしは、青空文庫から離れることにしました。
納得できないことを無理して続けさせられるのも、いやですし。

「行頭括弧の字下げ」問題というのは、これも青空文庫のルールで、改行して、行頭を1ますスペースを空けて、括弧やかぎ括弧などが来る場合、この1ますスペースを取って、行頭から括弧やかぎ括弧を入力するように定められていることをいいます。
これなども、「ケヶ」問題と一緒で、「行頭に1ますスペースを空けてから括弧やかぎ括弧が来るのは間違いで、行頭から括弧やかぎ括弧が来るのが正しい、世の中のテキストは、すべてこの正しい流儀で書き改められるべきだ」という、自己中心的な発想に由来するルールなのだと思います。

青空文庫は、ずっとこういう理不尽なやり方で、作品の改変をやってきました。この責任は、青空文庫の呼びかけ人として名前が挙げられている、富田倫生、八巻美恵、LUNA CATの三氏が、とらなくてはいけないのだと思います。
わたしは、今後、青空文庫の作業に関わるつもりはありませんが、9年間関わってしまった責任から、青空文庫の間違いを指摘することは、続けていきたいと思っています。

          平成21年12月23日 田中敬三記す

Kaihenhantai_

脱会者の手記 別名、青空文庫を責めないで♪

自分の家庭をかえりみないで、戸別訪問スタイルの宗教の勧誘にのめり込む人たちが問題になっていますが、わたしの青空文庫での9年間は、あれと同じようなものだったんだと、ようやく気がつきました。
2000年の正岡子規「寒山落木」から、来年公開されるであろう有島武郎「北海道に就いての印象」まで、95作品のファイルに、名前が残ってしまいました。そのうち14作品には、あの「「ヶ」は大振りにつくられていますぅ」の、みっともない註記つきです。ああ、はずかしい。
相手が悪すぎます。協力ボランティアを「工作員」と呼び続ける人です。11月19日の「そらもよう」で「すべての魂の兄弟姉妹とともに。」なんて叫ぶ人です。そして、自分と違う意見は、まったく耳に入らなくなる人です。
わたしは今、自分が青空文庫に生まれなくて本当によかったと、胸をなでおろしています。(12月27日)

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科学技術税

クライメートゲート事件というのがあります。田中宇さんのメールマガジンが、そのことを要領よくまとめてあります。

田中宇の国際ニュース解説 2009年12月2日
地球温暖化めぐる歪曲と暗闘(1)

要するに、「地球温暖化」は、二酸化炭素などの「温室効果ガス」が原因で起こる、という説を説明するために使われていた、地球の気温が、人類が二酸化炭素をたくさん放出するようになってから急激に上昇した、ということを示すグラフが、データの改ざんによって作られていた、という話です。
この改ざんは、何者かが、科学者たちのメールや、使用したコンピューター・プログラムをハッキングして、公開したことによって、発覚したそうです。
「ハッキング」と言えば、固守されていた情報をこじ開けたような印象を受けますが、メールなんて、いくつもの中継点を経由して送られるものですから、その気になって盗み見しようと思えば、いくらでもできるでしょうし、ひそかにコピーして内容を分析している機関がある、ぐらいのことは、想定しておいたほうがいいと思います。その意味では、こんなスキャンダルの証拠になるようなデータをメモリーに残しておくなんて、初歩的なミスと言っていいでしょう。
粉川哲夫さんが「メディア・ヌーディズム」を主張していますが、コンピューターを使って何かをしている人は、おおぜいの人たちから見られていることを前提に、活動をしなければいけないと思います。

クライメートゲート事件で気になるのは、どの辺の人たちまでが、地球温暖化温室効果ガス犯人説はうそだ、ということを知った上で言っていたのか、あるいは、「偉い」政治家・科学者・マスコミ・学校教育が言っているから本当だと信じて言っていただけ、つまり、「だまされていた」のか、ということです。
アルバート・ゴアは(←全く尊敬できないので、敬称はつけません)、完全に「知っていて言いふらしていた」口でしょうね。で、こういう人にノーベル賞を与えて権威づけた人たちも、同類でしょう。

ノーベル賞と言えば、ノーベル賞を受賞した日本の科学者たちが集まって、科学技術振興のための国家予算を減らすなと、鳩山総理に陳情に行ったそうです。日本は資源がないから、科学技術を大いに振興させていかなければだめだ、とか言っていたそうです。
わたしがふだん農業について言っていることを知っている人には分かってもらえると思いますが、資源がない国だからこそ、自給をしなくてはいけないのです。そして、科学技術で農産物の生産性を上げるのではなくて、生産者を増やし、かつ極力人力で生産することによって、地域に適した、安定した生産様式を確立していかなくてはならないのです。
スーパーコンピューターの開発に何百億円も使う金があったら、自給的生活を志す人たちが生きていきやすいように支援する分野に、その金を振り分けてほしいです。
槌田敦さんが『「地球生態学」で暮らそう』で、「科学技術税」を設けるべきだ、というようなことを、おっしゃっていました。今、その本をひとに貸していて、正確に引用できないのですが、トラクターやコンバインや温室や農薬なんかを使ったら、税金を取って、より人力に近い「適正技術」の方向に生産様式を向かわせていこう、ということだと思います。そう、科学技術税とは、科学技術を振興するための税金ではなくて、科学技術を規制するための税金なのです!
人びとが、自給の方向に生活を変えていきやすくなるように、まず自分の生活から少しずつ変えていって、小さくてもいい、一人一人が声を挙げて、社会がどういう方向に変化していったらいいと考えているか、その意思表示をはじめることが、大切なのではないかと思います。

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ダムのことが気になっています

9月22日のJANJANニュースに、九鬼信さんの「「ヒジキ」が警告する海の環境異変」という記事が載っていました。いつまで読めるか分かりませんが、とりあえず、リンクしておきます。
http://www.news.janjan.jp/living/0909/0909210501/1.php

身近な〈ひじき〉に含まれる鉄分の話を〈枕〉に、生命活動に鉄分が重要な役割を果たしていること、これが、ダム建設が原因で危機に瀕していること、などが分かります。
この記事の中に引用されている、工藤勲さんの「海は、鉄不足?」(北海道大学)という論文
http://www.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition15/P04_P05_u.htm

と、西村昌数さんの「北海道の沿海の復活を目指して」(帯広畜産大学)という論文
http://www.obihiro.ac.jp/~yakuri/intro/view.html

も、こちらにリンクしなおしておきます。鉄分の大切さと、自然のバランスを理解しないで、目先の利害だけで自然を壊してきた人間の営為が、よく分かります。

民主党政権になって、ダム建設の見直しがはじまりました。北海道には、平取ダム、サンルダム、当別ダムなどの、建設途中のダムがあります。止めることができるのか、‘北海道は特別’で、建設続行になってしまうのか、気になるところです。
Sasaki Akira(佐々木聡)さんの「沙流川二風谷ダム・平取ダム問題」というブログが、参考になりますので、リンクしておきます。
http://mirai00.hp.infoseek.co.jp/nibutani02/

わたしは、勉強不足で、ダムについては、上手に批判できないのですが、ダム建設も、針葉樹を積極的に植林してきた森林政策も、破局的な損害をのちの世代に残す、ということを訴えるしかないのかな、と思っています。
破局は、人類の運命として受け入れるしかないのかもしれませんが、無抵抗で破局へと流れていくのは、生きものの振る舞いとして美しいとは思えませんし、少なくとも、わたし個人には苦痛です。
生態学ですべてを説明しきれるとは思いませんが、生態学の勉強は、絶対にしておいたほうがいいと思います。

リンクばかりの記事になってしまいましたが、ダムのこと、気になっているんだよーという意思表示として、書きとめておきます。

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生きることを肯定すること

伊藤さんのブログの「排除する理由(後編)」という記事、かなり‘来て’ますね。

人間中心主義は、神話が根拠です。神が人間に、人間以外のものを自由に使っていい、と言ったからなのです。生めよ増えよ地に満ちよ、でしたっけ? 進歩・繁栄も、神がそれがいいと言ったからなのです。
ディープエコロジーの人たちは、自然の権利、ということを言います。権利は、人間だけのものではない、と。でも、この‘権利’という概念も、じつは、神によって担保されるものなのです。
‘権利’という概念を使わないで、人間の身勝手さを批判できるのでしょうか。
もしかしたら、‘批判’という行為も、神によって担保されるのかもしれません。
わたしたちにできることは、自由を生きることだけなのではないのか、という気が、最近しています。あるいは、自由を死ぬこと、でも同じです。いつか死ぬから、それまで生きているのですから。
‘○○からの自由’というような、神によってなされたもろもろの禁止の裏返しで幻覚される自由ではなくて、絶対的な自由。ただなるようになる自由です。
ものごとに‘本質’は存在しません。原因を滅すれば、その結果としての‘現実’を滅することもできるのです。変えられないものごとは何もありません。言葉を換えて言えば、ものごとは常に変化し続けているのです。無我だから無常なのです。
奪われていた‘力’を取り戻したとき、そこに現れるのが‘自然’なのでしょう。信じて、‘おまかせ’していいのは、自然の秩序、自然の調和、自然の法則。
伊藤さんの記事の最後にある、「神はイラナイ」の一言に、全幅の共感を献げます。

      camera   camera   camera   camera   camera

カメラを買いました。PENTAX K-m。おもちゃのように小さくて、軽くて、デジタル一眼レフとしては、かなり安価な機種。わたしは、植物の写真を撮ることが多いので、‘ここ’と思うところにピタッとピントが合ってもらわないと困るのです。今回買ったカメラは、きょう畑で‘撮影会?’をやりましたけど、ストレスがなくていいです。カメラ任せで、けっこうよく撮れています。技術の進歩って、すごいですね。
小さくて軽いのに、しっかり握れて、扱いやすいです。こういうポータブルの電子器機は、電源(バッテリー)のトラブルが多いですが、このカメラは、単三アルカリ乾電池を使うので、信頼性が高いですし、電池が切れても、替えが入手しやすくていいです。

Okabohonami

陸稲。一度は枯れかけたのに、よくここまで復帰したものです。

Morokoshi_inakibi

奥の、背の高い、赤っぽい穂が、モロコシ。手前の、黄色っぽい穂が、イナキビ。

Kikuimonoki

キクイモ。一年草なのに、樹木のよう。この勢いのよさが、この植物の身上です。

Egomashussui

白エゴマ。今年は強風にも倒れないで、がんばっています。

Watanoki

ワタです。もう秋だというのに、こんなにしょぼくていいのでしょうか。本当に綿がとれるのでしょうか。

Daizumi

豆の基本、大豆です。

Azukimi2

豆のもう一つの基本、小豆。色づいてきました。

Amakesshu

亜麻も種を結んできています。
↑こういう、ピントとボケで奥行きを感じさせるところが、一眼レフです。

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適正技術

あしたの朝までずっと雨、という予報でしたので、畑には行かないで、家で過ごしていましたが、少なくとも家の窓から見る限り、大して降りませんでした。たまには、こういう日もいいかも、です。
豆を煮たり、小麦をひいて粉にしたりして、過ごしました。石臼を回しながら、小麦粉なんて、買ったほうが早いし、安いし、うまいしで、効率という考え方からすれば、こんなことをしている暇に、どこかでアルバイトをして、得た金で買ってきたほうがはるかにいいのですが、しかし、この不効率が楽しいのですよね。やめられません。昔の人たちは、もっともっと不効率なやり方をやっていたんだなあと、しみじみ感じ入っています。
食品加工だけではなくて、栽培自体も同様です。芋、豆、麦、どれも、買ってきたほうが早い、安い、うまいです。「うまい」だけは、主観なので、自分で育てて収穫した作物はうまい!と思えば、うまいのでしょう。

自給が不効率なのは、大型機械を使わないからです。トラクターを使えば、くわで耕すよりも、100倍の面積で栽培ができます。
「効率」という考え方は、測る尺度によって変わってきます。投入されたエネルギーに対する収穫物のエネルギーで計算すると、人力農業が、一番効率がよくなります。機械農業は、直接農業に携わる人を100分の1で間に合うようにしましたが、人が食べるために消費する資源、エネルギーを、爆発的に増大させました。この方向は、持続不可能でして、間違いです。大多数の日本人が米を生産させて食べている、このやり方は不適切です。
このことに気がついた人は、自分から、より適正な食料生産の方法で生産して食べてみるといいと思います。そんなこと無理だ、と、大方の人は言うと思います。それはよく分かっています。こんなことを言っているわたしでさえ、いまだに十分自給できていません。でも、いいのです。やれる範囲でやってみることに意義があるのだと思います。
わたしも、畑をやりたいと思って北海道に引っ越してきてから6年目になりますが、本当にいろいろなことが分かって、有意義な来し方であったと思います。「昔はものを思わざりけり」な感じです。

北海道で、北海道の農業者を見ながら栽培をやってきたことも、学ぶことが多かった理由の一つです。北海道は、大型機械を使った大規模農業をやる人が圧倒的に多いです。大ざっぱに言って、都府県の農業の10倍の規模です。北海道は、日本の食料生産基地です。「開拓」の歴史から言っても、国内植民地です。そういう、一種「際だった」土地柄が、ものごとをクリアに認識する助けになりました。違和感は利用するべきもので、解消するべきものではありませんね。

効率の話に戻しますと、実際に作物を栽培したり、食品加工をしたりするときに使う機械・道具は、どのようなものがいいかを考えるときに、わたしは、エルンスト・フリードリヒ・シューマッハーが、彼の著書『スモール・イズ・ビューティフル』の中で、科学技術に求める条件を述べたくだりを思い出します。

 科学者と技術者には、いったい何を求めたらいいのだろうか。わたしの答えは次のとおりである。科学・技術の方法や道具は、
 ――安くてほとんどだれでも手に入れられ、
 ――小さな規模で応用でき、
 ――人間の創造力を発揮させるような、
 ものでなくてはならない。
 以上のような三つの特徴から非暴力が生まれ、また永続性のある人間対自然の関係が生まれてくる。
(E・F・シューマッハー、小島慶三・酒井懋訳『スモール・イズ・ビューティフル』講談社学術文庫)

安いこと、誰でも利用できる方法・道具であることが大切です。それから、小さい規模で利用できること。大規模化を目指さない方法・道具であること、これも大切。そして、「人間の創造力を発揮させるような」方法・道具であること。使いこなして、楽しく作業ができなければ、だめですね。
これらの条件を備えていれば、「効率」なんて、どうでもいいです。時間がかかっても、その時間が楽しければ、ここちのいい疲れになるのではないでしょうか。
具体的に、どのような方法・道具がいいかは、おかれた条件によって違ってくると思いますので、一人一人で判断してください。

はっきり言って、人間は増えすぎています。食料の調達は、むずかしくなってきています。しかしその困難を、機械化・大規模化で解決しようとするのは、間違っています。無駄なことはやめて、大切なことだけに時間を使うようにすれば、知恵のある人間ですから、うまくやっていけるに違いありません。
この程度のことが言えるようになっただけでも、5年以上、無職・無収入で、畑で遊んできた甲斐があるというものではないでしょうか。

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アサガオ観察日記

Asagaotsuru

今どきの小学生とかで、夏休みに、アサガオの観察日記を書いてきなさい、なんて宿題が出されたりすることは、あるのでしょうか。中には、発芽しないで、発芽しない鉢だけを描き続ける子どもも、いるかもしれません。
栽培をしていて、たまにうまく育つと、「いやあ、さすが。植物に対する愛情があるからですね」なんて、ほめられることがあるのですが、わたしは、植物に愛を感じたりしたことはありません。植物愛? それって、ヘンタイでしょう。

養分・水分・日照なんかの条件がよければ、植物は育ちます。愛は関係ないです。宿題のアサガオ観察日記に発芽しない鉢を描いてきた小学生に対して、「おまえには愛がない」なんて非難するとしたら、お門違いもいいところです。
栽培に関わる世界には、残念なことに、この手のお門違いな〈迷信〉が、ごちゃまんと横行しています。水・風・樹木・月・星たち……それらの中に〈霊魂〉とやらがあって、植物の生長を支配している、だとか。優しげな顔をしつつ、近づく人たちをオカルトな世界観の枠にはめようと待ちかまえている輩が、そこかしこに……。
わたしは、世界観はどれもみんな平等だ、とは思っていません。世界観には、はっきりと、いい悪いがあると思っています。事実ではない、〈うそ〉を含む世界観は、悪い世界観だと思います。悪い世界観は、人びとを不幸にします。〈うそ〉を見極めることを怠ってはいけないと思います。

上の写真は、いただき物の種から育てたアサガオです。アサガオだけで何種類もの種をいただいたのですが、比較的調子よく育っているのは、写真の〈トルファン〉という品種のアサガオです。
わたしは、ありがたいことに、種や芋や挿し穂などの形で、何人もの方から珍しい植物をいただくことがあります。でも、そんないただき物の植物たちが、必ずしも、調子よく育つとは限りません。植物の生長は、環境の中のいろいろな条件に影響を受けます。気候や土質によって、向き・不向きがあります。たまたまある年だけ、遅霜が来たり、干ばつになったり、ということもあります。

栽培するということはそういうことだと思って、広ーーーーい心で見守っていただけたら、気が楽になって、オラはうれしいゾ。
ついでに付け足すと、栽培しようという自発的欲求のない子どもに栽培体験を強制することにも反対しておくゾ。みずから楽しく栽培できない教師に、栽培の楽しさを教えることなんか、絶対にできないでしょう。ご本人が意図しないうちに教えることができるのは、せいぜい、強制されてやっていることを楽しんでやっていると錯覚すること、ぐらいでしょう。その手の教師は、引きつった笑みを浮かべながら、いらつきながら授業をしているので、すぐに分かります。ご苦労様です。

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「危険な食卓」

あの「メ・シクーナ」の伊藤さんが、ご自身の「創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。」という長い名前のブログの、5月29日の記事で、「「危険な食卓」を取り戻していこう。」と主張しています。危険な食卓を取り戻す? 安心・安全な食卓の間違いじゃないの? いえ、「危険な食卓」でいいんです。そこが、伊藤さん一流の、逆説的表現なのです。

生きてるモノにとって、「喰う」ってことは、本来、常に「危険」と隣り合わせの行為じゃなかったの?
「安心して喰う」なんてことをさも当たり前とする感覚こそ、ズレちゃってるんじゃないのかな?

添加物がいや?農薬がいや?
本来やるべき「喰う」為の前段行為をぜーんぶ他人まかせにしといて、「安全」や「安心」を求めるなよ、と思ってしまう(同時に強く自戒する)。

うーん。「自由からの逃走」という言葉を思い出しました。
食べられるかどうかの判断を自分でやるとなると、その責任も負わなくてはならなくなる。それがいやだから、それを〈権威〉に肩代わりしてもらうことになる。信頼の置ける食品メーカーが作った食べものだから、安心だ、などと。
自分で判断しないで生きていくことによって困ることは、多様な価値観の中から、状況に応じた判断を選び取って、的確に生きていくことができなくなってしまうことでしょう。何にも頼らないで、オリジナルな判断ができるようになるためにも、自給・自炊は、優れた練習課題になるのではないかと思います。

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統計で見る日本の農業

今回読んだのは、農林水産省大臣官房統計部編集『ポケット農林水産統計 平成20年版』(農林統計協会)です。

「主要国の土地種類別面積」という表があります。
日本の耕地+永年作物地(果樹とか)の面積は、469万2000ヘクタールなのだそうです。これを、平成18年の日本の人口、1億2795万人で割ると、3.7アールになります。農地を国民に均等に分けた場合の、一人の取り分です。穀物食なら、ぎりぎり自給できますか。かなり厳しいかもしれません。もっと少子化が進んだほうがいいですね。
他の国ではどうかといいますと、例えば、アメリカ合衆国が58.5アール。フランスが30.0アール。インドが14.7アール。中国が11.8アール、といったところです。

「主要国の産業別就業者数」という表があります。
〈農業・狩猟業・林業の就業者数〉を〈就業者総数〉で割ってみます。国民の何%が農林業者かということですが、日本は3.9%です。
他の国の数字も、ちょっとご紹介しますと、ブラジルが20.5%。ポーランドが15.7%。ロシアが9.7%。お隣、大韓民国が7.4%となっています。

「農林水産物の輸出入額」という表では、輸入が8兆5574億2400万円であるのに対して、輸出は5159億7100万円で、圧倒的に輸入超過です。
輸出品目別輸出額のランキングで意外に思ったのは、3位に〈真珠〉が入っていたことです。年間365億2800万円も、真珠を輸出しているのですね。

ちょっと、社会科のクイズをしてみましょうか。輸入農産物の、輸入相手国の上位3カ国を言いますので、農産物の品目を当ててください。ヒントは、牛肉、小麦、大豆、バナナのうちの、どれかです。
第1問。アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア。
第2問。アメリカ合衆国、カナダ、ブラジル。
第3問。オーストラリア、アメリカ合衆国、ニュージーランド。
第4問。フィリピン、エクアドル、台湾。
簡単すぎますか?
第1問と第2問は、似ています。3位がオーストラリアかブラジルかが違います。答えは、オーストラリアのほうが、小麦です。ブラジルのほうが、大豆です。アマゾンの森をつぶして、遺伝子組み換えの大豆畑にして、日本の豆腐・納豆・みそ・しょう油用の大豆を作っています。
第3問は? 牛肉ですね。OGビーフオージービーフ(オージーって‘Aussie’と綴るそうです。OGというのは、卒業した女子先輩を指す和製英語なんですって。間違えました)。1位のオーストラリアは、2位のアメリカの10倍以上の、圧倒的な輸入量です。アメリカの牛肉は、きらわれているんですね。産地をチェックしにくい外食とか、加工食品とかに使われているのでしょう。
第4問は、そう、バナナです。

国内に目を向けて、「都道府県別農業産出額」の表を見てみましょうか。
農業が盛んな都道府県ランキング、ダントツトップは、日本の食料生産基地=国内植民地の北海道です。桁違いの1兆飛んで527億円。
農業生産額第2位の県は、どこでしょうか。南へ飛んで鹿児島の4079億円なのです。3位以下は、千葉県、茨城県、宮崎県と続きます。

「耕作放棄地」の表があります。全国の耕作放棄地は、38万5791ヘクタールあるそうです。耕地面積が、田と畑を合わせて465万ヘクタールですから、8.3%が耕作放棄地、ということになります。けっこうあるものですね。

「耕作目的の田畑売買価格」という表があります。田んぼや畑を買うとしたら、どのぐらいの値段がするのでしょうか。
全国平均で、10アール当たり、101万4000円だそうです。うーん、高いですね。でも、耳寄り情報です。北海道は、やはり10アール当たり、なんと13万円ぽっきりだそうです。家族で〈3反農業〉をやって、40万円弱。これなら、買えるかもしれません。

農地を買うのではなしに、借りるんだったら、年にいくらぐらいで貸してもらえるのでしょうか。「田畑別実納小作料」という表があります。これによると、10アール当たり、全国平均で、6225円だそうです。貸し農園とかに、謝礼を払いすぎていませんか? 北海道では、4311円ですって。〈実納〉の平均ですから、場所によっては、ただみたいな小作料で借りている人もいるんでしょうね。北海道にいらっしゃいますか?

〈新規就農〉という言葉がはやっていますが、どういうような人たちなのでしょうか。
「就農形態別新規就農者数」という表があります。平成18年の数字で、〈自営業就農者〉、つまり、学校を卒業して、農業をやっている親の跡を継ぐようなケースが、7万2350人。〈雇用就農者〉、つまり、法人などに雇われる農業労働者が、6510人。〈新規参入者〉、つまり、農地を買うか借りるかして、独自経営で農業をはじめる人が、2180人なのだそうです。必ずしも、新規就農者=新規参入者ではないのですね。親の跡を継ぐ人を除けば、むしろ、新規参入者よりも雇われて農業をする人のほうが、約3倍も多い。このへんは、飛び込む前に、イメージをつかんでおいたほうがいいです。

では、雇われた場合の給料は?ということですが、「主要産業と農業賃金の比較」という表があります。
平成18年のデータで、1日当たりの賃金ですが、製造業は、1万3476円。運輸業は、1万5480円。卸売・小売業が、1万2340円。飲食店・宿泊業が、6876円。農業臨時雇賃金は、データが男女別になっていて、男が、8653円。女が、6538円です。
女の農業が最低で、男の農業は、かろうじて、飲食店・宿泊業よりはまし、という結果です。農家に雇われるよりも、工場で働くか、運送業をやったほうが金になる、というわけです。

もう一つ、農家の借金のデータがあります。平成18年のデータで、農家1戸当たりの借入金は、全国平均で、217万5000円だそうです。これが、北海道に限定すると、1034万8000円になります。北海道は、規模の大きな農業が多く、大型機械など、設備にお金をかけることが多いので、運が悪いと、たちまち借金もふくらみます。平均して約一千万円の借金ということは、もちろん、借金などなく、貯蓄をしている人もいますから、逆に多い人は、億単位の借金を抱えていたりする人も、いくらでもいるわけなのです。
経営で赤字が出ることが予測できながら、お金を貸し付け続けてきた、農協の責任が問われるのではないでしょうか。

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備蓄・定住・農耕

地球は、だいたい、今から46億年ぐらい前にできました。そして、だいたい今から40億年ぐらい前に、地球上に生命が発生しました。それがいろいろ進化して、だいたい、今から500万年ぐらい前に、二足歩行して、音声言語を使えて、家族を最小単位に生活する、現代人につながる、〈人類〉が、誕生しました。それから、今から1万年ぐらい前まで、人類は、人口400万人ぐらいで、安定した暮らしをしていました。マーシャル・サーリンズが言う「始原のあふれる社会」です。
人口が400万人ぐらいだったころの人類は、自然が自然状態で人類を養える範囲内で生活を営んでいましたから、食べものは、特に苦労しなくても、おなかのすいたときに狩猟採集をすることで、簡単に得ることができました。今でも、狩猟採集民は、1日平均、4~5時間程度働くだけで、必要な物のすべてを得ることができています。
ところが、今から1万年ぐらい前に、人類は、食べものを備蓄するようになりました。食料を保存するようになると同時に、必要以上の食料を集めて、剰余が発生するようになったのです。これがきっかけになって、人口が増えはじめます。
やがて、農業や牧畜の技術が発明されて、あるいは進歩して、人口増加に拍車がかかります。そして、人類500万年の歴史の中で、長い間400万人ほどまでで安定していた人口が、最後の1万年で、一気に1000倍以上にふくれあがってしまったのです。

自然が自然状態で養える人口の1000倍以上ですから、食料生産は困難を極めますが、狩猟採集時代に比べたら、はるかに激しく、躍起になって働くことで、必要以上の収穫を得られるようになりました。備蓄された食料は、富となり、権力が発生し、都市が形成されます。食料生産は、奴隷によって担われるようになりました。
現代の農業は、化石燃料を大量に投入することで、かろうじて成り立っています。現代の農民を「奴隷」と呼ぶのは、語弊がありますが、農業が底辺労働であることには、変わりありません。特に、輸入食品について考えると、プランテーションでの、児童労働を含む、労働者の過酷な労働、そして、いわゆる〈飢餓輸出(国内に深刻な飢餓を抱えている国が食料を輸出すること)〉も考え合わせると、まさに「奴隷」によって文明は支えられている、と言うことができます。

ローマ、中華、ビザンツ、イスラーム、ヨーロッパ……歴史上の帝国は、すべて農業を経済の基礎に置いていました。農業がなかったら、人間は滅んでしまう、という強迫観念は、歴史的事実に基づいていますが、逆に言えば、事実によって、代替的想像力が押し殺されてきたとも言えます。

わたしは、自分の政治的な立場は、超反動だと思っています。例えば、千数百年ぐらい昔の、大化の改新の時代の社会あたりにあこがれる反動派なんて、まだまだ中途半端で、もう1万年ほどさかのぼって、縄文時代にまで戻ろうとしなくては、本物ではないと、わたしは本気で思っています。
縄文時代の生活は、現代に比べたら、物質的な所有物の量としては、とても「貧しい」のですが、主観的な意識としては、はるかに「豊か」で、幸福であったろうと想像します。

さて、ここで疑問に思えてくるのは、なぜ人類は、約1万年ぐらい前に、とてつもなく激しく働くようになったのか、食料を備蓄するようになったのか、定住して農業をはじめたのか、ということです。高校の歴史の授業でどう教わったか、忘れてしまいましたが、「新石器革命」とか言って、優れた道具が生産性を上げた、というような説明を聞いたような、かすかな記憶があります。
優れた道具が作れるようになったから、人類の社会が変わってしまった? では、なぜ、そのような道具が作れるようになったのでしょうか。偶然? 「新石器革命」という考え方は、わたしには、あまり説得力があるようには思えません。
とは言っても、こんな批判的な発想ができるようになったのは、高校を卒業して30年近く経った今だからなのですから、学校教育が、学生の心に、教育内容に対する批判精神が芽生えないように、どれほど抑圧的な教育をしているかが、分かります。

この、「今から約1万年前に何があったのか」という疑問に答えてくれる本がありました。

西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫、です。

この本によると、今から約1万年前に、地球上では、温暖化がはじまったのだそうです。言い換えると、氷河期が終わったのだそうです。
わたしのような、北海道のような寒冷地で栽培をやっている立場からすると、温暖化すれば、作物がよく生長して、結構なことではないか、と思ってしまいがちですが、事は、そう単純なことではなかったようです。
この本によりますと、今から約1万年前にはじまった地球温暖化は、低緯度の、熱帯・亜熱帯地方には、あまり影響がなかったそうです。高緯度地方は、それまで氷河に被われていた地が、現在の寒帯・亜寒帯のようになりました。温暖化の影響を、一番激しく受けたのは、中緯度地帯です。それまでは、草原や疎林が多い地域だったのですが、この時代を境に、温帯森林が形成されていったのでした。そして、この地域こそ、人類が多く住んでいた地域なのでした。
引用します。

 氷河期の中緯度地域には、亜寒帯的な草原や疎林に棲むトナカイ、ウマ、バイソン、マンモス、オオツノジカ、ウシなどが広く分布し、後期旧石器時代の狩猟民は、これら大型有蹄類の狩猟に重点を置いた生計戦略を持っていたと予想される。しかし氷河が後退し、草原や疎林に代わって温帯性の森林が拡大してくれば、これらの有蹄類は減少するし、またそれまでの、視界のきく開けた場所で発達してきた狩猟技術は効果を発揮しなくなるだろう。

ということなのです。
この頃の人類は定住していませんから、食料を求めて移動していくのですが、広範囲で草原が森林になったのでは、行き場がなくなるわけです。で、大型の動物中心の食料を、植物性食料か魚類中心の食料に切り替えていくことになるわけです。
ところが、大型動物に比べると、植物性食料や魚類は、収穫できる量が、季節によって大きく変動します。「実りの秋」に収穫して、それを冬中食べて、春につないでいかなくてはならなくなります。このような必要から、食料の備蓄が行われるようになったのではないか、というのです。
大型動物を主食にしていた人類が、植物性食料や魚類を中心にした食料に代えていく、というのは、大変難しいことだったのではないかと想像します。これができなかったグループは、滅んでいったのかもしれません。
これは、わたしのいい加減な想像ですが、この時期に人間は、死に対する恐怖を感じるようになったのではないでしょうか。そして、この死に対する恐怖を紛らすために、〈とてつもなく激しく働くこと〉も、同時に思いついたのではないかと想像します。
この、〈とてつもなく激しく働くこと〉は、のちに現れる農耕民が持っている、〈とてつもなく激しく働こうとする心性〉に、つながっていきます。

ところで、

アラン・テスタール、山内昶訳『新不平等起源論 狩猟=採集民の民族学』法政大学出版局

という本があります。書名の通りで、民族学の立場から、社会的不平等の発生について考察した本です。
著者のテスタールさんによると、「狩猟=採集民/農耕=遊牧民という対立は、不平等論の探究に主要な準拠枠とはなりえない」のだそうです。では、何が不平等発生の原因か、というと、「不平等の技術=経済的な基礎は、定住生活様式と大規模な食料備蓄にほかならなかった」のだそうです。このあたりの事情を表にまとめると、次のようになります。いろいろな民族の社会を比較・分類する具体的な考察は、この本を読んでください。

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食料備蓄が不平等の起源である、と。一言で言えば、そういうことです。そして、この食料備蓄の起源は、西田さんの本に出ていたように、気象変動による試練だったわけです。

西田さんの本とテスタールさんの本から備蓄型社会と非備蓄型社会の文化的な違いをまとめると、以下のようになると思います。

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縄文時代の社会は、非備蓄型―定住型―狩猟採集民ですから、上の表の、真ん中の白い部分、〈サゴの採集民〉と同じ部分にあたると思います。縄文時代は、のちの弥生時代のように、水田が作られ、邪馬台国のような国ができ、支配者の墓である古墳が作られるような時代よりも、ずっとストレスの少ない、自由で伸びやかな生活が展開されていたのだろうなあと、あこがれの気持ちを込めて、わたしは想像しています。
社会的不平等の起源に気象変動という要因があったにしても、だから不平等は、し方がないんだ、受け入れなければならないんだ、ということを言おうとして、これらの研究を、わたしは紹介したのではありません。それらの事実と、文明の弊害とを両方知った上で、これからわたしたちの社会を、どういう方向へ変えていったらいいのかを、議論していくべきだと思うのです。
そして、その議論の過程では、「人類は滅んではいけない」という、死に対する恐怖の集団化された観念や、「人類は繁栄するべきだ」という間違った観念が、自然環境を破壊して、かえって、人類にとっても危機的な状況を招いた、そして精神文化的にも、仏教で〈一切皆苦〉と呼ばれているような、苦しみに満ちた状況を招いた、そんな人類の愚かさを、しっかりと認識しなければならないと思います。

以上です。
以下は、2冊の本を読んで、面白いと思ったところで、まあ、〈おまけ〉です。

西田さんの本にあるエピソードで、面白いと思ったのは、南米にいるハキリアリがキノコを栽培する、という話です。アリが、植物の葉っぱを切り取って、巣に持ち帰って、それを咬み砕くと、そこからキノコが生えてきて、それを食べて生きている、ということです。一種の共生関係なのでしょうが、栽培が本能に組み込まれるようになることがあることを知って、興味深く思いました。
でも、アリの社会をモデルに、変なふうに人間のほうへ話を敷衍したりするのは、わたしは、ちょっとパスですけど。アリとかハチとかの社会に理想を見るのがすきな人、いますものね。

テスタールさんの本からは、「財宝は、それを占有する人の威信の印しに役立つ以外の使用価値をもっていない」という言葉と、C・キングさんの研究による、チュマシュ族のシステムについての考察が、面白いです。
チュマシュ族というのは、カリフォルニアに住む部族で、階層化された社会を形成しています。チュマシュ族では、財が過剰になりそうになると、インフレーションを防ぐために、その財に対する組織的な破壊が行われるそうです。壊すために作るなんて、完全に無駄なのですが、階層化された社会には、このような無駄が必要とされるのですね。
いろいろな財を、せっせと買い集めては、せっせと〈ごみ〉として捨てている、わたしたち「先進国」の日常も、これと同じ。都市の建造物は、破壊するために建てているようなものなのです。

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