ダムのことが気になっています

9月22日のJANJANニュースに、九鬼信さんの「「ヒジキ」が警告する海の環境異変」という記事が載っていました。いつまで読めるか分かりませんが、とりあえず、リンクしておきます。
http://www.news.janjan.jp/living/0909/0909210501/1.php

身近な〈ひじき〉に含まれる鉄分の話を〈枕〉に、生命活動に鉄分が重要な役割を果たしていること、これが、ダム建設が原因で危機に瀕していること、などが分かります。
この記事の中に引用されている、工藤勲さんの「海は、鉄不足?」(北海道大学)という論文
http://www.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition15/P04_P05_u.htm

と、西村昌数さんの「北海道の沿海の復活を目指して」(帯広畜産大学)という論文
http://www.obihiro.ac.jp/~yakuri/intro/view.html

も、こちらにリンクしなおしておきます。鉄分の大切さと、自然のバランスを理解しないで、目先の利害だけで自然を壊してきた人間の営為が、よく分かります。

民主党政権になって、ダム建設の見直しがはじまりました。北海道には、平取ダム、サンルダム、当別ダムなどの、建設途中のダムがあります。止めることができるのか、‘北海道は特別’で、建設続行になってしまうのか、気になるところです。
Sasaki Akira(佐々木聡)さんの「沙流川二風谷ダム・平取ダム問題」というブログが、参考になりますので、リンクしておきます。
http://mirai00.hp.infoseek.co.jp/nibutani02/

わたしは、勉強不足で、ダムについては、上手に批判できないのですが、ダム建設も、針葉樹を積極的に植林してきた森林政策も、破局的な損害をのちの世代に残す、ということを訴えるしかないのかな、と思っています。
破局は、人類の運命として受け入れるしかないのかもしれませんが、無抵抗で破局へと流れていくのは、生きものの振る舞いとして美しいとは思えませんし、少なくとも、わたし個人には苦痛です。
生態学ですべてを説明しきれるとは思いませんが、生態学の勉強は、絶対にしておいたほうがいいと思います。

リンクばかりの記事になってしまいましたが、ダムのこと、気になっているんだよーという意思表示として、書きとめておきます。

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生きることを肯定すること

伊藤さんのブログの「排除する理由(後編)」という記事、かなり‘来て’ますね。

人間中心主義は、神話が根拠です。神が人間に、人間以外のものを自由に使っていい、と言ったからなのです。生めよ増えよ地に満ちよ、でしたっけ? 進歩・繁栄も、神がそれがいいと言ったからなのです。
ディープエコロジーの人たちは、自然の権利、ということを言います。権利は、人間だけのものではない、と。でも、この‘権利’という概念も、じつは、神によって担保されるものなのです。
‘権利’という概念を使わないで、人間の身勝手さを批判できるのでしょうか。
もしかしたら、‘批判’という行為も、神によって担保されるのかもしれません。
わたしたちにできることは、自由を生きることだけなのではないのか、という気が、最近しています。あるいは、自由を死ぬこと、でも同じです。いつか死ぬから、それまで生きているのですから。
‘○○からの自由’というような、神によってなされたもろもろの禁止の裏返しで幻覚される自由ではなくて、絶対的な自由。ただなるようになる自由です。
ものごとに‘本質’は存在しません。原因を滅すれば、その結果としての‘現実’を滅することもできるのです。変えられないものごとは何もありません。言葉を換えて言えば、ものごとは常に変化し続けているのです。無我だから無常なのです。
奪われていた‘力’を取り戻したとき、そこに現れるのが‘自然’なのでしょう。信じて、‘おまかせ’していいのは、自然の秩序、自然の調和、自然の法則。
伊藤さんの記事の最後にある、「神はイラナイ」の一言に、全幅の共感を献げます。

      camera   camera   camera   camera   camera

カメラを買いました。PENTAX K-m。おもちゃのように小さくて、軽くて、デジタル一眼レフとしては、かなり安価な機種。わたしは、植物の写真を撮ることが多いので、‘ここ’と思うところにピタッとピントが合ってもらわないと困るのです。今回買ったカメラは、きょう畑で‘撮影会?’をやりましたけど、ストレスがなくていいです。カメラ任せで、けっこうよく撮れています。技術の進歩って、すごいですね。
小さくて軽いのに、しっかり握れて、扱いやすいです。こういうポータブルの電子器機は、電源(バッテリー)のトラブルが多いですが、このカメラは、単三アルカリ乾電池を使うので、信頼性が高いですし、電池が切れても、替えが入手しやすくていいです。

Okabohonami

陸稲。一度は枯れかけたのに、よくここまで復帰したものです。

Morokoshi_inakibi

奥の、背の高い、赤っぽい穂が、モロコシ。手前の、黄色っぽい穂が、イナキビ。

Kikuimonoki

キクイモ。一年草なのに、樹木のよう。この勢いのよさが、この植物の身上です。

Egomashussui

白エゴマ。今年は強風にも倒れないで、がんばっています。

Watanoki

ワタです。もう秋だというのに、こんなにしょぼくていいのでしょうか。本当に綿がとれるのでしょうか。

Daizumi

豆の基本、大豆です。

Azukimi2

豆のもう一つの基本、小豆。色づいてきました。

Amakesshu

亜麻も種を結んできています。
↑こういう、ピントとボケで奥行きを感じさせるところが、一眼レフです。

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適正技術

あしたの朝までずっと雨、という予報でしたので、畑には行かないで、家で過ごしていましたが、少なくとも家の窓から見る限り、大して降りませんでした。たまには、こういう日もいいかも、です。
豆を煮たり、小麦をひいて粉にしたりして、過ごしました。石臼を回しながら、小麦粉なんて、買ったほうが早いし、安いし、うまいしで、効率という考え方からすれば、こんなことをしている暇に、どこかでアルバイトをして、得た金で買ってきたほうがはるかにいいのですが、しかし、この不効率が楽しいのですよね。やめられません。昔の人たちは、もっともっと不効率なやり方をやっていたんだなあと、しみじみ感じ入っています。
食品加工だけではなくて、栽培自体も同様です。芋、豆、麦、どれも、買ってきたほうが早い、安い、うまいです。「うまい」だけは、主観なので、自分で育てて収穫した作物はうまい!と思えば、うまいのでしょう。

自給が不効率なのは、大型機械を使わないからです。トラクターを使えば、くわで耕すよりも、100倍の面積で栽培ができます。
「効率」という考え方は、測る尺度によって変わってきます。投入されたエネルギーに対する収穫物のエネルギーで計算すると、人力農業が、一番効率がよくなります。機械農業は、直接農業に携わる人を100分の1で間に合うようにしましたが、人が食べるために消費する資源、エネルギーを、爆発的に増大させました。この方向は、持続不可能でして、間違いです。大多数の日本人が米を生産させて食べている、このやり方は不適切です。
このことに気がついた人は、自分から、より適正な食料生産の方法で生産して食べてみるといいと思います。そんなこと無理だ、と、大方の人は言うと思います。それはよく分かっています。こんなことを言っているわたしでさえ、いまだに十分自給できていません。でも、いいのです。やれる範囲でやってみることに意義があるのだと思います。
わたしも、畑をやりたいと思って北海道に引っ越してきてから6年目になりますが、本当にいろいろなことが分かって、有意義な来し方であったと思います。「昔はものを思わざりけり」な感じです。

北海道で、北海道の農業者を見ながら栽培をやってきたことも、学ぶことが多かった理由の一つです。北海道は、大型機械を使った大規模農業をやる人が圧倒的に多いです。大ざっぱに言って、都府県の農業の10倍の規模です。北海道は、日本の食料生産基地です。「開拓」の歴史から言っても、国内植民地です。そういう、一種「際だった」土地柄が、ものごとをクリアに認識する助けになりました。違和感は利用するべきもので、解消するべきものではありませんね。

効率の話に戻しますと、実際に作物を栽培したり、食品加工をしたりするときに使う機械・道具は、どのようなものがいいかを考えるときに、わたしは、エルンスト・フリードリヒ・シューマッハーが、彼の著書『スモール・イズ・ビューティフル』の中で、科学技術に求める条件を述べたくだりを思い出します。

 科学者と技術者には、いったい何を求めたらいいのだろうか。わたしの答えは次のとおりである。科学・技術の方法や道具は、
 ――安くてほとんどだれでも手に入れられ、
 ――小さな規模で応用でき、
 ――人間の創造力を発揮させるような、
 ものでなくてはならない。
 以上のような三つの特徴から非暴力が生まれ、また永続性のある人間対自然の関係が生まれてくる。
(E・F・シューマッハー、小島慶三・酒井懋訳『スモール・イズ・ビューティフル』講談社学術文庫)

安いこと、誰でも利用できる方法・道具であることが大切です。それから、小さい規模で利用できること。大規模化を目指さない方法・道具であること、これも大切。そして、「人間の創造力を発揮させるような」方法・道具であること。使いこなして、楽しく作業ができなければ、だめですね。
これらの条件を備えていれば、「効率」なんて、どうでもいいです。時間がかかっても、その時間が楽しければ、ここちのいい疲れになるのではないでしょうか。
具体的に、どのような方法・道具がいいかは、おかれた条件によって違ってくると思いますので、一人一人で判断してください。

はっきり言って、人間は増えすぎています。食料の調達は、むずかしくなってきています。しかしその困難を、機械化・大規模化で解決しようとするのは、間違っています。無駄なことはやめて、大切なことだけに時間を使うようにすれば、知恵のある人間ですから、うまくやっていけるに違いありません。
この程度のことが言えるようになっただけでも、5年以上、無職・無収入で、畑で遊んできた甲斐があるというものではないでしょうか。

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アサガオ観察日記

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今どきの小学生とかで、夏休みに、アサガオの観察日記を書いてきなさい、なんて宿題が出されたりすることは、あるのでしょうか。中には、発芽しないで、発芽しない鉢だけを描き続ける子どもも、いるかもしれません。
栽培をしていて、たまにうまく育つと、「いやあ、さすが。植物に対する愛情があるからですね」なんて、ほめられることがあるのですが、わたしは、植物に愛を感じたりしたことはありません。植物愛? それって、ヘンタイでしょう。

養分・水分・日照なんかの条件がよければ、植物は育ちます。愛は関係ないです。宿題のアサガオ観察日記に発芽しない鉢を描いてきた小学生に対して、「おまえには愛がない」なんて非難するとしたら、お門違いもいいところです。
栽培に関わる世界には、残念なことに、この手のお門違いな〈迷信〉が、ごちゃまんと横行しています。水・風・樹木・月・星たち……それらの中に〈霊魂〉とやらがあって、植物の生長を支配している、だとか。優しげな顔をしつつ、近づく人たちをオカルトな世界観の枠にはめようと待ちかまえている輩が、そこかしこに……。
わたしは、世界観はどれもみんな平等だ、とは思っていません。世界観には、はっきりと、いい悪いがあると思っています。事実ではない、〈うそ〉を含む世界観は、悪い世界観だと思います。悪い世界観は、人びとを不幸にします。〈うそ〉を見極めることを怠ってはいけないと思います。

上の写真は、いただき物の種から育てたアサガオです。アサガオだけで何種類もの種をいただいたのですが、比較的調子よく育っているのは、写真の〈トルファン〉という品種のアサガオです。
わたしは、ありがたいことに、種や芋や挿し穂などの形で、何人もの方から珍しい植物をいただくことがあります。でも、そんないただき物の植物たちが、必ずしも、調子よく育つとは限りません。植物の生長は、環境の中のいろいろな条件に影響を受けます。気候や土質によって、向き・不向きがあります。たまたまある年だけ、遅霜が来たり、干ばつになったり、ということもあります。

栽培するということはそういうことだと思って、広ーーーーい心で見守っていただけたら、気が楽になって、オラはうれしいゾ。
ついでに付け足すと、栽培しようという自発的欲求のない子どもに栽培体験を強制することにも反対しておくゾ。みずから楽しく栽培できない教師に、栽培の楽しさを教えることなんか、絶対にできないでしょう。ご本人が意図しないうちに教えることができるのは、せいぜい、強制されてやっていることを楽しんでやっていると錯覚すること、ぐらいでしょう。その手の教師は、引きつった笑みを浮かべながら、いらつきながら授業をしているので、すぐに分かります。ご苦労様です。

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「危険な食卓」

あの「メ・シクーナ」の伊藤さんが、ご自身の「創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。」という長い名前のブログの、5月29日の記事で、「「危険な食卓」を取り戻していこう。」と主張しています。危険な食卓を取り戻す? 安心・安全な食卓の間違いじゃないの? いえ、「危険な食卓」でいいんです。そこが、伊藤さん一流の、逆説的表現なのです。

生きてるモノにとって、「喰う」ってことは、本来、常に「危険」と隣り合わせの行為じゃなかったの?
「安心して喰う」なんてことをさも当たり前とする感覚こそ、ズレちゃってるんじゃないのかな?

添加物がいや?農薬がいや?
本来やるべき「喰う」為の前段行為をぜーんぶ他人まかせにしといて、「安全」や「安心」を求めるなよ、と思ってしまう(同時に強く自戒する)。

うーん。「自由からの逃走」という言葉を思い出しました。
食べられるかどうかの判断を自分でやるとなると、その責任も負わなくてはならなくなる。それがいやだから、それを〈権威〉に肩代わりしてもらうことになる。信頼の置ける食品メーカーが作った食べものだから、安心だ、などと。
自分で判断しないで生きていくことによって困ることは、多様な価値観の中から、状況に応じた判断を選び取って、的確に生きていくことができなくなってしまうことでしょう。何にも頼らないで、オリジナルな判断ができるようになるためにも、自給・自炊は、優れた練習課題になるのではないかと思います。

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統計で見る日本の農業

今回読んだのは、農林水産省大臣官房統計部編集『ポケット農林水産統計 平成20年版』(農林統計協会)です。

「主要国の土地種類別面積」という表があります。
日本の耕地+永年作物地(果樹とか)の面積は、469万2000ヘクタールなのだそうです。これを、平成18年の日本の人口、1億2795万人で割ると、3.7アールになります。農地を国民に均等に分けた場合の、一人の取り分です。穀物食なら、ぎりぎり自給できますか。かなり厳しいかもしれません。もっと少子化が進んだほうがいいですね。
他の国ではどうかといいますと、例えば、アメリカ合衆国が58.5アール。フランスが30.0アール。インドが14.7アール。中国が11.8アール、といったところです。

「主要国の産業別就業者数」という表があります。
〈農業・狩猟業・林業の就業者数〉を〈就業者総数〉で割ってみます。国民の何%が農林業者かということですが、日本は3.9%です。
他の国の数字も、ちょっとご紹介しますと、ブラジルが20.5%。ポーランドが15.7%。ロシアが9.7%。お隣、大韓民国が7.4%となっています。

「農林水産物の輸出入額」という表では、輸入が8兆5574億2400万円であるのに対して、輸出は5159億7100万円で、圧倒的に輸入超過です。
輸出品目別輸出額のランキングで意外に思ったのは、3位に〈真珠〉が入っていたことです。年間365億2800万円も、真珠を輸出しているのですね。

ちょっと、社会科のクイズをしてみましょうか。輸入農産物の、輸入相手国の上位3カ国を言いますので、農産物の品目を当ててください。ヒントは、牛肉、小麦、大豆、バナナのうちの、どれかです。
第1問。アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア。
第2問。アメリカ合衆国、カナダ、ブラジル。
第3問。オーストラリア、アメリカ合衆国、ニュージーランド。
第4問。フィリピン、エクアドル、台湾。
簡単すぎますか?
第1問と第2問は、似ています。3位がオーストラリアかブラジルかが違います。答えは、オーストラリアのほうが、小麦です。ブラジルのほうが、大豆です。アマゾンの森をつぶして、遺伝子組み換えの大豆畑にして、日本の豆腐・納豆・みそ・しょう油用の大豆を作っています。
第3問は? 牛肉ですね。OGビーフオージービーフ(オージーって‘Aussie’と綴るそうです。OGというのは、卒業した女子先輩を指す和製英語なんですって。間違えました)。1位のオーストラリアは、2位のアメリカの10倍以上の、圧倒的な輸入量です。アメリカの牛肉は、きらわれているんですね。産地をチェックしにくい外食とか、加工食品とかに使われているのでしょう。
第4問は、そう、バナナです。

国内に目を向けて、「都道府県別農業産出額」の表を見てみましょうか。
農業が盛んな都道府県ランキング、ダントツトップは、日本の食料生産基地=国内植民地の北海道です。桁違いの1兆飛んで527億円。
農業生産額第2位の県は、どこでしょうか。南へ飛んで鹿児島の4079億円なのです。3位以下は、千葉県、茨城県、宮崎県と続きます。

「耕作放棄地」の表があります。全国の耕作放棄地は、38万5791ヘクタールあるそうです。耕地面積が、田と畑を合わせて465万ヘクタールですから、8.3%が耕作放棄地、ということになります。けっこうあるものですね。

「耕作目的の田畑売買価格」という表があります。田んぼや畑を買うとしたら、どのぐらいの値段がするのでしょうか。
全国平均で、10アール当たり、101万4000円だそうです。うーん、高いですね。でも、耳寄り情報です。北海道は、やはり10アール当たり、なんと13万円ぽっきりだそうです。家族で〈3反農業〉をやって、40万円弱。これなら、買えるかもしれません。

農地を買うのではなしに、借りるんだったら、年にいくらぐらいで貸してもらえるのでしょうか。「田畑別実納小作料」という表があります。これによると、10アール当たり、全国平均で、6225円だそうです。貸し農園とかに、謝礼を払いすぎていませんか? 北海道では、4311円ですって。〈実納〉の平均ですから、場所によっては、ただみたいな小作料で借りている人もいるんでしょうね。北海道にいらっしゃいますか?

〈新規就農〉という言葉がはやっていますが、どういうような人たちなのでしょうか。
「就農形態別新規就農者数」という表があります。平成18年の数字で、〈自営業就農者〉、つまり、学校を卒業して、農業をやっている親の跡を継ぐようなケースが、7万2350人。〈雇用就農者〉、つまり、法人などに雇われる農業労働者が、6510人。〈新規参入者〉、つまり、農地を買うか借りるかして、独自経営で農業をはじめる人が、2180人なのだそうです。必ずしも、新規就農者=新規参入者ではないのですね。親の跡を継ぐ人を除けば、むしろ、新規参入者よりも雇われて農業をする人のほうが、約3倍も多い。このへんは、飛び込む前に、イメージをつかんでおいたほうがいいです。

では、雇われた場合の給料は?ということですが、「主要産業と農業賃金の比較」という表があります。
平成18年のデータで、1日当たりの賃金ですが、製造業は、1万3476円。運輸業は、1万5480円。卸売・小売業が、1万2340円。飲食店・宿泊業が、6876円。農業臨時雇賃金は、データが男女別になっていて、男が、8653円。女が、6538円です。
女の農業が最低で、男の農業は、かろうじて、飲食店・宿泊業よりはまし、という結果です。農家に雇われるよりも、工場で働くか、運送業をやったほうが金になる、というわけです。

もう一つ、農家の借金のデータがあります。平成18年のデータで、農家1戸当たりの借入金は、全国平均で、217万5000円だそうです。これが、北海道に限定すると、1034万8000円になります。北海道は、規模の大きな農業が多く、大型機械など、設備にお金をかけることが多いので、運が悪いと、たちまち借金もふくらみます。平均して約一千万円の借金ということは、もちろん、借金などなく、貯蓄をしている人もいますから、逆に多い人は、億単位の借金を抱えていたりする人も、いくらでもいるわけなのです。
経営で赤字が出ることが予測できながら、お金を貸し付け続けてきた、農協の責任が問われるのではないでしょうか。

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備蓄・定住・農耕

地球は、だいたい、今から46億年ぐらい前にできました。そして、だいたい今から40億年ぐらい前に、地球上に生命が発生しました。それがいろいろ進化して、だいたい、今から500万年ぐらい前に、二足歩行して、音声言語を使えて、家族を最小単位に生活する、現代人につながる、〈人類〉が、誕生しました。それから、今から1万年ぐらい前まで、人類は、人口400万人ぐらいで、安定した暮らしをしていました。マーシャル・サーリンズが言う「始原のあふれる社会」です。
人口が400万人ぐらいだったころの人類は、自然が自然状態で人類を養える範囲内で生活を営んでいましたから、食べものは、特に苦労しなくても、おなかのすいたときに狩猟採集をすることで、簡単に得ることができました。今でも、狩猟採集民は、1日平均、4~5時間程度働くだけで、必要な物のすべてを得ることができています。
ところが、今から1万年ぐらい前に、人類は、食べものを備蓄するようになりました。食料を保存するようになると同時に、必要以上の食料を集めて、剰余が発生するようになったのです。これがきっかけになって、人口が増えはじめます。
やがて、農業や牧畜の技術が発明されて、あるいは進歩して、人口増加に拍車がかかります。そして、人類500万年の歴史の中で、長い間400万人ほどまでで安定していた人口が、最後の1万年で、一気に1000倍以上にふくれあがってしまったのです。

自然が自然状態で養える人口の1000倍以上ですから、食料生産は困難を極めますが、狩猟採集時代に比べたら、はるかに激しく、躍起になって働くことで、必要以上の収穫を得られるようになりました。備蓄された食料は、富となり、権力が発生し、都市が形成されます。食料生産は、奴隷によって担われるようになりました。
現代の農業は、化石燃料を大量に投入することで、かろうじて成り立っています。現代の農民を「奴隷」と呼ぶのは、語弊がありますが、農業が底辺労働であることには、変わりありません。特に、輸入食品について考えると、プランテーションでの、児童労働を含む、労働者の過酷な労働、そして、いわゆる〈飢餓輸出(国内に深刻な飢餓を抱えている国が食料を輸出すること)〉も考え合わせると、まさに「奴隷」によって文明は支えられている、と言うことができます。

ローマ、中華、ビザンツ、イスラーム、ヨーロッパ……歴史上の帝国は、すべて農業を経済の基礎に置いていました。農業がなかったら、人間は滅んでしまう、という強迫観念は、歴史的事実に基づいていますが、逆に言えば、事実によって、代替的想像力が押し殺されてきたとも言えます。

わたしは、自分の政治的な立場は、超反動だと思っています。例えば、千数百年ぐらい昔の、大化の改新の時代の社会あたりにあこがれる反動派なんて、まだまだ中途半端で、もう1万年ほどさかのぼって、縄文時代にまで戻ろうとしなくては、本物ではないと、わたしは本気で思っています。
縄文時代の生活は、現代に比べたら、物質的な所有物の量としては、とても「貧しい」のですが、主観的な意識としては、はるかに「豊か」で、幸福であったろうと想像します。

さて、ここで疑問に思えてくるのは、なぜ人類は、約1万年ぐらい前に、とてつもなく激しく働くようになったのか、食料を備蓄するようになったのか、定住して農業をはじめたのか、ということです。高校の歴史の授業でどう教わったか、忘れてしまいましたが、「新石器革命」とか言って、優れた道具が生産性を上げた、というような説明を聞いたような、かすかな記憶があります。
優れた道具が作れるようになったから、人類の社会が変わってしまった? では、なぜ、そのような道具が作れるようになったのでしょうか。偶然? 「新石器革命」という考え方は、わたしには、あまり説得力があるようには思えません。
とは言っても、こんな批判的な発想ができるようになったのは、高校を卒業して30年近く経った今だからなのですから、学校教育が、学生の心に、教育内容に対する批判精神が芽生えないように、どれほど抑圧的な教育をしているかが、分かります。

この、「今から約1万年前に何があったのか」という疑問に答えてくれる本がありました。

西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫、です。

この本によると、今から約1万年前に、地球上では、温暖化がはじまったのだそうです。言い換えると、氷河期が終わったのだそうです。
わたしのような、北海道のような寒冷地で栽培をやっている立場からすると、温暖化すれば、作物がよく生長して、結構なことではないか、と思ってしまいがちですが、事は、そう単純なことではなかったようです。
この本によりますと、今から約1万年前にはじまった地球温暖化は、低緯度の、熱帯・亜熱帯地方には、あまり影響がなかったそうです。高緯度地方は、それまで氷河に被われていた地が、現在の寒帯・亜寒帯のようになりました。温暖化の影響を、一番激しく受けたのは、中緯度地帯です。それまでは、草原や疎林が多い地域だったのですが、この時代を境に、温帯森林が形成されていったのでした。そして、この地域こそ、人類が多く住んでいた地域なのでした。
引用します。

 氷河期の中緯度地域には、亜寒帯的な草原や疎林に棲むトナカイ、ウマ、バイソン、マンモス、オオツノジカ、ウシなどが広く分布し、後期旧石器時代の狩猟民は、これら大型有蹄類の狩猟に重点を置いた生計戦略を持っていたと予想される。しかし氷河が後退し、草原や疎林に代わって温帯性の森林が拡大してくれば、これらの有蹄類は減少するし、またそれまでの、視界のきく開けた場所で発達してきた狩猟技術は効果を発揮しなくなるだろう。

ということなのです。
この頃の人類は定住していませんから、食料を求めて移動していくのですが、広範囲で草原が森林になったのでは、行き場がなくなるわけです。で、大型の動物中心の食料を、植物性食料か魚類中心の食料に切り替えていくことになるわけです。
ところが、大型動物に比べると、植物性食料や魚類は、収穫できる量が、季節によって大きく変動します。「実りの秋」に収穫して、それを冬中食べて、春につないでいかなくてはならなくなります。このような必要から、食料の備蓄が行われるようになったのではないか、というのです。
大型動物を主食にしていた人類が、植物性食料や魚類を中心にした食料に代えていく、というのは、大変難しいことだったのではないかと想像します。これができなかったグループは、滅んでいったのかもしれません。
これは、わたしのいい加減な想像ですが、この時期に人間は、死に対する恐怖を感じるようになったのではないでしょうか。そして、この死に対する恐怖を紛らすために、〈とてつもなく激しく働くこと〉も、同時に思いついたのではないかと想像します。
この、〈とてつもなく激しく働くこと〉は、のちに現れる農耕民が持っている、〈とてつもなく激しく働こうとする心性〉に、つながっていきます。

ところで、

アラン・テスタール、山内昶訳『新不平等起源論 狩猟=採集民の民族学』法政大学出版局

という本があります。書名の通りで、民族学の立場から、社会的不平等の発生について考察した本です。
著者のテスタールさんによると、「狩猟=採集民/農耕=遊牧民という対立は、不平等論の探究に主要な準拠枠とはなりえない」のだそうです。では、何が不平等発生の原因か、というと、「不平等の技術=経済的な基礎は、定住生活様式と大規模な食料備蓄にほかならなかった」のだそうです。このあたりの事情を表にまとめると、次のようになります。いろいろな民族の社会を比較・分類する具体的な考察は、この本を読んでください。

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食料備蓄が不平等の起源である、と。一言で言えば、そういうことです。そして、この食料備蓄の起源は、西田さんの本に出ていたように、気象変動による試練だったわけです。

西田さんの本とテスタールさんの本から備蓄型社会と非備蓄型社会の文化的な違いをまとめると、以下のようになると思います。

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縄文時代の社会は、非備蓄型―定住型―狩猟採集民ですから、上の表の、真ん中の白い部分、〈サゴの採集民〉と同じ部分にあたると思います。縄文時代は、のちの弥生時代のように、水田が作られ、邪馬台国のような国ができ、支配者の墓である古墳が作られるような時代よりも、ずっとストレスの少ない、自由で伸びやかな生活が展開されていたのだろうなあと、あこがれの気持ちを込めて、わたしは想像しています。
社会的不平等の起源に気象変動という要因があったにしても、だから不平等は、し方がないんだ、受け入れなければならないんだ、ということを言おうとして、これらの研究を、わたしは紹介したのではありません。それらの事実と、文明の弊害とを両方知った上で、これからわたしたちの社会を、どういう方向へ変えていったらいいのかを、議論していくべきだと思うのです。
そして、その議論の過程では、「人類は滅んではいけない」という、死に対する恐怖の集団化された観念や、「人類は繁栄するべきだ」という間違った観念が、自然環境を破壊して、かえって、人類にとっても危機的な状況を招いた、そして精神文化的にも、仏教で〈一切皆苦〉と呼ばれているような、苦しみに満ちた状況を招いた、そんな人類の愚かさを、しっかりと認識しなければならないと思います。

以上です。
以下は、2冊の本を読んで、面白いと思ったところで、まあ、〈おまけ〉です。

西田さんの本にあるエピソードで、面白いと思ったのは、南米にいるハキリアリがキノコを栽培する、という話です。アリが、植物の葉っぱを切り取って、巣に持ち帰って、それを咬み砕くと、そこからキノコが生えてきて、それを食べて生きている、ということです。一種の共生関係なのでしょうが、栽培が本能に組み込まれるようになることがあることを知って、興味深く思いました。
でも、アリの社会をモデルに、変なふうに人間のほうへ話を敷衍したりするのは、わたしは、ちょっとパスですけど。アリとかハチとかの社会に理想を見るのがすきな人、いますものね。

テスタールさんの本からは、「財宝は、それを占有する人の威信の印しに役立つ以外の使用価値をもっていない」という言葉と、C・キングさんの研究による、チュマシュ族のシステムについての考察が、面白いです。
チュマシュ族というのは、カリフォルニアに住む部族で、階層化された社会を形成しています。チュマシュ族では、財が過剰になりそうになると、インフレーションを防ぐために、その財に対する組織的な破壊が行われるそうです。壊すために作るなんて、完全に無駄なのですが、階層化された社会には、このような無駄が必要とされるのですね。
いろいろな財を、せっせと買い集めては、せっせと〈ごみ〉として捨てている、わたしたち「先進国」の日常も、これと同じ。都市の建造物は、破壊するために建てているようなものなのです。

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一楽照雄と日本有機農業研究会

日本有機農業研究会については、前回の記事イバン・イリイチ、桜井直文監訳『生きる思想』(藤原書店))で触れましたが、若干の補足をしておきます。日本有機農業研究会と農業関連の諸潮流との関係図をつくってみました。

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農文協の設立が1940年です。このころ、各国で、近代的な農法に対する批判が起こってきます。それは、農薬や化学肥料の多用によって、農民の生命や自然環境が破壊されたことへの反発が、原因しています。
このような批判は、多分に、農本主義的な性格を持っています。問題があっても、農業をやめるわけにはいかず、農民を叱咤激励する必要が出てくるからです。
また、このような批判には、たとえば、シュタイナーのように、前近代的な風俗・習慣・信仰をとり込む傾向があります。問題は近代化であるとされて、近代主義に対する反動の動きが形成されてくるからです。

日本有機農業研究会は、一楽照雄が主導していた団体と言っていいと思います。一楽の思想は「協同組合主義」であると言っていいと思います。一楽は、農林中金の常任理事でした。
一楽の日有研をあやつるやり方を見ると、全体主義に親和的な団体の運営法がどのようなものかを知ることができます。まず、設立が1971年だということに注目してください。近代農法を批判する諸潮流が1940年前後からはじまるのから、30年遅れて、はじまっています。これは、坂本尚さんも指摘していますが、左翼的な、階級闘争的な運動よりも、人間の自然破壊と闘う運動のほうが重要だ、という思想を、日有研が打ち出したことに関係があります。
わたし流の言い方をすれば、時代的にちょうど政治闘争に挫折していた左翼たちを、うまく農業関連産業にとり込んだわけです。左翼は、具体的な個と個の関係からよりも、国家や社会といった「全体」の有り様からものごとを発想しがちです。つまり、全体主義に親和的です。なので、全体の関係性(有機体のような、とか)を強調して宣伝する有機農業に、あるいは生産者として、あるいは関連産業として、あるいは有機農産物の消費者として、すんなりととり込まれやすかったのです。

これも、前回の記事で述べましたが、日有研の「有機農業」は、30年も前から、福岡正信や岡田茂吉などによっておこなわれていた「自然農法」から、「不耕起」と「無施肥」の思想を抜きとった、より開発主義的、自然破壊的、農業周辺産業振興的性格を持っています。有機資材は、輸入されたものも多くあります。日有研の「有機農業」は、既存の農業関連産業を全否定しているわけではありません。このへんも、団体操縦術としては、注目しなくてはなりません。

シュタイナーやナチス・ドイツから受けた影響を隠したり、岡田茂吉や福岡正信が持っている「宗教性」を遠ざけたりしていることは、前回の記事でも述べましたが、このことについては、もう一人、日有研の有力な発起人の一人である梁瀬義亮に関しても、言うことができます。梁瀬は医師として農薬の危険性について発言したりしていましたが、大乗仏教の勉強会などの活動もしていました。梁瀬が現在の日有研で、ほとんど語られることがないのは、その「宗教性」がきらわれているのではないかと想像します。
日有研の本流を「脱宗教化」することで、広範な人たち、殊に政治運動で挫折した左翼の人たちの受け皿として、受け入れやすい雰囲気づくりが配慮されたのでしょう。しかしこれは、有機農業自体が、「生命(有機)」という言葉が持つイメージ喚起力をとことん利用した、「いのち教」と呼んでもいいような、「宗教代替物」であることを、巧妙に隠しながら、ではあるのですが。

日有研の有機農業は、農本主義の一形態なのだと、わたしは考えています。「特別な農業」をやっていると農民に思わせて、それを「誇り」にさせて、農業生産を農民に押しつけやすいようになつけると同時に、「提携」と称して、都市の富裕層に「特別な農産物」を割高に買わせて、農民に農業生産を押しつける罪悪感を麻痺させる仕組みなのです。有機農産物は、免罪符みたいなものです。

一楽の「協同組合主義」の反映ではないかと思えて、おもしろく感じたことがあります。それは、日有研のホームページのトップページの「情報交差点」という記事(広告ではない)で紹介されている「鯉淵学園農業栄養専門学校」の、そのホームページの中に、学校の運営主体である財団法人農民教育協会の沿革が、次のように出ているところです。

 財団法人農民教育協会は、昭和23年5月、全国農業会が解散し全国農業協同組合中央会に改組されたことに伴い、全国農業会の教育事業であった「全国農業会高等農事講習所」(現在の鯉淵学園農業栄養専門学校)などを受け継ぎ、農村社会の有為なる形成者の養成及び農村指導者の研修を目的として農林水産省の認可を受けて設立された財団法人です。
 また、昭和63年より、公益性の高い特定公益増進法人として農林水産大臣より証明を受けております。

山下一仁さんが、『農協の大罪』の中で、スクープのようにして明かした、農協は戦中の統制組織を引き継いだだけのものだ、ということを、むしろ、みずから誇らしげに(?)宣伝しているのです。
そして、そのような出自の学校を、日有研がそのホームページで、“有機農業や自然食品”に関心がある人、“田舎暮らしで家庭菜園”を楽しみたい人、これから“本格的に農業をしたい”人は、この学校の社会人研修コースで学んでみませんか?と、勧誘しているのです。トップページの記事からのリンクで、この学校だけへと、勧誘しているのです。

日有研と農文協の関係については、農文協のホームページに「「農村空間」が新しい時代をつくる」という文書がありまして、そこに、このあたりの事情が出ています。一部を引用します。

 有機農研の運動を積極的に助けたのが岩渕直助が指導する農文協であった。財政基盤のない「有機農研」に農文協の事務室を提供し、有機農研の機関誌『たべものと健康』(現在の『土と健康』)の発行を手助けした。

同じ文書には、次のような部分もあります。

1971年、元農林中金常務理事の一楽照雄(農文協理事)が日本有機農業研究会を創立した。その宣言に曰く。「有機農業をすすめる農民は、都市民との提携によって消費者の食意識の変革を目指す」。
 つまり、農民が都市民の意識変革をするというのである。およそ人類史上で、農村が都市を領導したことはない。農村は都市文明を受け入れることによってのみ、進歩するものとされてきた。

この文書は、「農文協論説委員会」の署名になっていますが、前回の記事でご紹介した、農文協副会長の坂本尚さんの発言とそっくりです。もしかしたら、坂本さんご本人がお書きになったのかもしれません。
すでに指摘しましたが、これは、ナチス・ドイツの農業思想家ゲオルク・ハルベが、自然に触れる農民こそが世界の本質をよく理解できる、という形で、一楽らが日有研を創設する30年ぐらい昔に言っていることで、人類史上初、ということではありません。

ゲオルク・ハルベは、農民が都市住民を、積極的に「指導(領導?)する」とまでは言ってないかもしれませんが、農民のほうが都市住民よりも物事の本質をよく理解できると、農民文化の優位性を説いていますので、本質的には同等のアイデアであろうと思われます。

以上。まとまりも「オチ」もありませんが、前回の記事の補足、ということで。

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イバン・イリイチ、桜井直文監訳『生きる思想』(藤原書店)

きょうは、10年前の本です。イリイチの論文集『生きる思想』から、「「生命」の偶像崇拝」を読んでみます。そして、そのあとで、日本有機農業研究会の会誌「土と健康」のバックナンバーから、イリイチが指摘する問題とつながるような部分をとり出して、読んでみようと思っています。

その前に、「有機」「オーガニック」という言葉の意味・使われ方ですが、少し詳しい辞書を引いてみました。まず、「有機」を、「講談社日本語大辞典」で調べました

ゆうき【有機】[対義]無機(1)生活機能と生活力を持つこと・もの。organism(2)有機物に関すること。organic

次に、「研究社新英和大辞典」で「organic」を調べてみました。

organic(1)[化]有機の(2)有機体(生物)の(3)臓器の、器官の(4)[病理]器質性の(目で認められるような病気のある)(5)有機的の、組織的な、系統的な(6)(有機体のとっての)生まれながらの、固有の、本質的な、根本的な[法](国家構成上)基本的な、憲法上の[言語](構造が)偶発的でない

まず「有機」のほうから見ていきますと、「農業」を飾る言葉として「有機」を使うことは、(1)(2)どちらの意味でも、おかしいことが分かります。「農業」自体は、有機物でも無機物でもありません。「農業」自体が生活機能や生活力を持ったりしたら、農業を営む人間は要らなくなります。有機物に関する農業、というのも、意味不明です。動植物由来の有機資材を主に使う、という意味ならば、非有機農業を「無機農業」と呼ばない理由が分かりません。
「有機農業」というのは、ようするに、比喩なのです。organic の意味にからめて言
えば、有機農業とは、「有機体(生物)のような農業」という意味なのです。農業を有機体(生物)に、たとえているのです。「有機的」という言葉も、農業を飾る場合は、資材・作物・土壌・微生物・気候・生産者・消費者などの相互関係が、生き物の体のように、系統的に、秩序にしたがっ形成されている、という意味なのです。

「有機農業」のように、ある言葉を掲げて「運動」をする場合、やる必要のある作業は、2つあります。対象概念を規定することと、それに名前を付けることの2つです。有機農業に関しては、「無農薬」と「無化学肥料」を条件に定めて、概念規定をしました。日本で有機農業をはじめた人たちは、「オーガニック」の訳に「有機」という多義的な語を選ぶことによって、社会有機体説のような、全体主義に親和的な幻想を、そこに関わる人たちに振りまくことに成功しました。
もっとも、これは、「オーガニック」という語を選んだ、日本の有機農業の思想的源
流である人たちの成功であって、日本有機農業研究会は、見事にぴったりはまった訳語を見つけた、というだけのことなのかもしれません。

ここで注意してほしいのは、1971年に日本有機農業研究会が創設されて、一楽照雄らが「有機農業」という言葉を(同研究会が定める形で)定義したとき、すでに、福岡正信と岡田茂吉の両氏は、それぞれの方法論による「自然農法」の活動をしていた、ということです。福岡正信の農法で特徴的なのは、不耕起ですし、岡田茂吉の農法で特徴的なのは、無施肥です。これらの特徴的な農法を、有機農業は引き継ぎませんでした。そして、自然農法とは別の、有機農業を「あとから」はじめたのです。
有機農業の運動がはじまる何十年も前から自然農法はありました。自然農法の福岡正
信は、日本有機農業研究会の創設にも参加していますが、やはり、自然農法との違いに気づいて、有機農業とは距離を置くようになります。
有機農業が自然農法から「引き算」したものは何でしょうか。それは、不耕起と無施
肥の思想です。なぜそうなったのでしょうか。答えは簡単です。有機農業が農生産の安易な効率化を図ったからです。有機農業は、自然農法に比べれば、はるかに開発型の農業なのです。「農業が自然を守る」などという宣伝は大嘘で、大局的に見れば、農業は、そのはじまりからずっと、自然破壊でした。

もうひとつ、日本有機農業研究会が、自然農法と異なる道を歩んだ理由は、これはわたしの想像ですが、岡田茂吉は世界救世教という宗教団体のリーダーで、はっきりとした宗教家でしたし、福岡正信は、独特の哲学を展開していました。一楽照雄は、それらの方法では、広範な人びとを組織できないと考えたのではないかと思います。

日本の有機農業のはじまりには、国内の自然農法以外にも、外国からの影響もあります。「オーガニック」の名を掲げた農業運動の源流があります。それは、ナチス・ドイツの農業政策です。そして、ナチス・ドイツの農業政策に相互に影響を与え合った、シュタイナーの「バイオ・ダイナミック農法」があります。
ドイツではじまった有機農業は、アメリカなどの他の国の農業にも影響を与えますが
、日本有機農業研究会は、ドイツからの影響については、国内で実践者がいる「バイオ・ダイナミック農法」を、たまに「不思議がいっぱいの農法」などという、ビミョーな表現で紹介する程度で、まったくといっていいほど、語りたがりません。一楽照雄は、東大の農学部を優秀な成績で卒業した人なので、海外の動向を知らないわけがありません。「ナチス・ドイツ」という、「印象の悪い」ところが源流なので、隠したのでしょう。

日本の有機農業の本質をまとめます。それは、新しい開発型の、言い換えれば自然破壊型の、農業様式です。「新しい」というのは、農薬と「化学肥料」を使う「古い」農業と比べて「新しい」という意味です。しかし日本の有機農業は、うまく隠してはいますが、じつは、ナチス・ドイツのまねです。この農業様式に「有機」という多義的な名を付けて(正確に言えば、的確な訳語を付けて)、全体主義に親和的な思想を広めました。こうして、もともと全体主義に親和的な、70年代の挫折した左翼たちをとり込むことに成功しました。「自分たちは「有機農業」という特別の、素晴らしい活動をしている」という「ほこり」を持たせることで、農民を農作業を押しつけられやすくなつけて、都市の富裕層を有機農産物を買わせることで「提携」させて、農作業を押しつける罪悪感を麻痺させる、という形で、農業と流通の産業を組織していきました。

さて、それでは、イバン・イリイチの「「生命」の偶像崇拝」を読んでいきましょう。この論文は、元カトリックの神父であったイリイチが、プロテスタント系のアメリカ福音ルーテル教会に招かれておこなった講演が元になっています。教会は「神の言葉(聖書)」に照らして、偶像崇拝を裁け、という考え方が基調になっています。
わたしは、「聖書」は、有害無益なものと思っていますので、イリイチの発想には同
調しませんが、産業社会がわたしたちの日常に埋め込んでくる諸概念を、異化して、批判する手法は、学べるものが多いと思います。

イリイチは、「生命そのもの The Life」と「一つの生命 A life」を区別して、前者は実在するが、後者は虚構だと言います。そして、後者の「生命」は、専門家たちによって管理される対象になりさがっている、と批判します。
イリイチがこのような批判を展開する根拠は、「聖書」です。「「生命」の偶像崇拝」か
ら引用します。

皆さんが船上に掲げているのは、主の福音です。つまり、主がマルタに対して「わたしは生命(いのち)である」と言われたときに、マルタに告げられた福音です。主は「わたしは一つの生命である I am a life」などとは言いませんでした。ただ「生命〔そのもの〕である I am Life」と言ったのです。

ひとりひとりの生命があるのではなくて、生命そのもの(神)があるだけだ、というのです。「生命」という言葉を使えば、そういう実体もあると勘違いしてしまう、わたしたち人間の認識習性を、イリイチは批判しているのです。
もっとも、概念批判ということでしたら、仏教のほうが徹底しています。仏教では「
諸法無我」と言って、すべてのものごとには実体がない、と言います。「わたし」という、人間の中核になるもの、通俗的な言い方をすれば「霊魂」となりますが、そういうものは存在しない、と考えます。すべてのものごとに実体がないのですから、「生命そのもの(神)」も、原理的には、ないことになります。

続いてイリイチは、「生命」という語の使われ方の歴史をたどりますが、注目したいのは、「生命という概念のいかがわしさは、エコロジー論議において、とくにはっきりとあらわれ出る」と言っている部分です。同書から引用します。

 エコロジーとは、まずさしあたって、生あるものと、その住環境との間にむすばれる相互関係についての学問、と言うことができる。しかしさらに、このことばは近年ますますさかんに使われるようになってきて、すべて知りうるかぎりの現象を関連づける、一つの哲学的な方法をさして言うようになってきた。その後エコロジーは、サイバネティック・システムという考え方をさすようになる。このサイバネティック・システムとは、同時にモデルでもあり実在でもある。言いかえれば、自らを観察すると同時に定義し、自らを規制すると同時に維持するようなプロセスである。このような考えかたのスタイルにおいては、生命は、システムと等置されるようになる。つまりこうした考えかたは、生命をおとしめ、かつ同時にそれを構成するという、抽象的な偶像崇拝なのである。

ようするにイリイチは、「神に根拠づけられないシステムは、けしからん」と言っているわけです。神を根拠に、いかがわしい概念を洗い出せと、プロテスタント系にけしかけているのです。こういう方式で批判ができるのなら、いろいろな概念が「いかがわしい」とされて、ぼろぼろ出てくるだろうなあ、と思われますが、事実、イリイチは、次のように、「いかがわしい」概念を、批判しまくります。

 来る日も来る日も、管理された諸事のなかに暮していると、われわれはみな、さまざまな虚構された実体の世界をあたりまえのものとして受けとるようになっていきます。われわれはしだいに、健康管理の進歩だとか、万人の教育だとか、国際的(グローバル)意識だとか、社会開発だとかいった新しいことばで、これら管理された幻について語るようになっていきます。また、それに加えて、誰にも文句のつけようのないような「より良い」「科学的な」「近代的な」「すすんだ」「貧しい者たちの利益になる」といったことばがそえられます。われわれは、管理によってはぐくまれた幻を指して「ことばのアメーバ」と呼んでいますが、こうした「ことばのアメーバ」は、自明性、啓蒙、社会的関心、合理性といった意味合いをもつとしても、けっして、われわれ自身が自分で味わい、嗅ぎ、体験することのできるようなどんなものも言い表すことができないのです。このような、ことばの蜃気楼のゆらぐ「意味論的な砂漠」とも言うべきもののただなかにあって、われわれはどうしても「ライナスの毛布」がほしくなります。つまり、いつも身近にかかえ歩くことができて、聖なる価値を手ぎわよく守ってくれるような気がする、威信ある偶像が必要となるのです。ふり返ってみれば、国内における社会的正義も、海外における開発も、世界平和も、みなこうした偶像であったことがわかります。そして、いまやそうした偶像の新しい名が「生命」だというわけです。

言葉は、考える道具ですが、感じさせられる道具でもあります。考えるということは、身近すぎて分からなくなっている言葉を、自分から引きはがして、距離を置いて見えるところに置くことです。感じるというのは、この逆で、感じさせる言葉の中に没入して、それが客観的に何であるかを分からなくさせてしまうことです。
自分の言葉に酔う人は、論理的にハチャメチャでも、気にならなくなります。「人の
振り見て我が振り直せ」ではありませんが、自戒しなければ、と思います。
イリイチが批判する際に根拠にしている「聖書」は、人間にとってなんの根拠にもならない、とわたしは思いますが、イリイチが、
身近な、わたしたちが疑うこともしないでいる概念を、次から次へと批判していく姿勢には、学ばなくてはならないと思います。

シュタイナーの「バイオ」、ナチス・ドイツの「オーガニック」、日本有機農業研究会の「有機」などは、「生命」という語が持つイメージ喚起力を、とことん利用して、人びとを管理してきた実例として、挙げることができると思います。
ここからは、日本有機農業研究会の活動から、「生命」のイメージ喚起力を利用して
いると思われる例を、挙げていこうと思います。脱会記念スペシャルです。

近年の日本有機農業研究会の活動で、「生命」節を炸裂させたのは、去年の第36回全国大会でした。テーマが「つながるいのち つなげるいのち」です。「繋がる命 繋げる命」と漢字で書かないところがミソです。漢字で書くと、意味が伝わりすぎてしまうのです。「いのち」のほうが、ほんわか、ムードだけが伝わるのです。「つながる」と「つなげる」を並べて、違いの「が」と「げ」に注目させるのも、リアルにイメージさせないための策略です。
こういう全国大会に参集する人たちというのは、「いのち」や「つながり」に飢えて
いるのでしょう。しかし、有機農業は、人を引き寄せようとするだけで、本物の「いのち」には触れられないし、「つながる」ことも、できません。有機農業で作物を育てても、有機農業の作物を買って食べても、ただそれだけのことで、「いのち」や「つながり」とは関係ありません。宣伝というのは、人が集まれば、それでいいのです。
去年の全国大会の記念講演は、『生物と無生物のあいだ』の著者、福岡伸一さん。講
演の題が「生命とは何か? 食べ続けることの意味と有機農業」。ほとんど、「新興宗教いのち教」といった感じです。

同じく、去年の全国大会での基調講演として、一楽照雄とともに日本有機農業研究会の創設に参加した坂本尚さんが、「創立者一楽照雄と有機農業」という題で、次のように語っています。

 1972年、国連人間環境会議(ストックホルム)が開かれています。この国際的な会議でいろいろ検討をし、自然と人間の敵対矛盾関係を正していこうと論議しています。国連の会議というのは、そういうことが世界各地で検討されていたから開けたわけですね。それが1972年です。
 そのような時、一楽照雄は日本にいて、有機農業研究会をつくるにあたって、そう
いう世界の動きをちゃんと認識して有機農業の意味を把握し、そのことを宣言した。もう少し私なりの意味を申し上げますと、階級闘争の歴史は終わって、すなわちブルジョアジーとプロレタリアートの敵対矛盾関係ではなくて、自然と人間との敵対矛盾関係に地球がさらされている。70年代は、そこをどうするかを問題にする時代に入った。
 その、自然と人間の敵対矛盾関係を克服する能力をもっているのは、工場労働者=
プロレタリアートではなくて、農民なんだということを、一楽はその根底で考えています。およそ人類史上初めて、一楽は、農家が都会の人々を指導するべきだということを言った。そこに大きな意味があるということを申し上げたい。こんなことを言った人は、それまでただの一人もいなかった。

「人類史上初めて」ではありませんね。わたしが書いた前回の記事(「農民の誇り」のつくり方)でも触れましたが、藤原辰史さんが『ナチス・ドイツの有機農業』の中に引用している、ゲオルク・ハルベが、一楽の30年も前に、同じようなことを言っています。もう一度、前回の記事と同じ部分を引用します。

 例えば、ナチ期農業思想の重要な担い手のひとり、ゲオルク・ハルベは、有機農法を単に様式としてばかりでなく、人間の自然認識変革をもたらすものとしても捉えていた。ハルベは、ユダヤ人やイギリス人がもたらした「物質主義的世界観」が現在の自然科学の基礎となっていると指摘し、都市の研究室や実験用農場で得られた研究成果で満足する自然科学者の自然科学観を徹底的に攻撃している。その根拠となるのが、ゲーテの次の言葉だ。「自然を把握しそれを直接利用することは、人間にはほとんどできない。認識と実用のあいだに、人間は、妄想を見いだそうとする。かれらは、それを入念につくり出し、それにかまけて、利用するはおろか対象そのものを忘れる」。ハルベは、そうした人間の傲慢さを最も体現しているのが、生きたものを死んだものとして把握する自然科学者だと批判する。そして、生きたものとして把握できる農民をそれに対置させる。そのうえで農民は、農場内の土壌、植物、動物、人間のつながりのなかで生き、そうした有機的関連性のなかで自然を把握するので、化学肥料ではなく、農場内の家畜が排出した糞尿を肥料として用いるべきだと推奨している。いうまでもなく、その家畜の飼料も、農場内で育った植物でなくてはならない。最後には、有機農法を「国民社会主義的な仕事」として称賛さえしているのだ。

ナチス・ドイツは印象が悪いから、影響を受けたことを言わないでおこう、ぐらいまでは、まあ、同情もできますが、「人類史上初めて」の名誉まで奪うことまでやっては、やっぱり、まずいでしょう。これが、講演者の坂本尚さんの思い違いならばいいのですが、どうも、一楽照雄自身が、当時から、「自分たちが一番だ」と言っていたような印象を受けます。
こういう、自分たちに都合がいいように言う、正しくなくても、人が思ったように動
けばそれでいい、という発想で言う、「大本営発表」みたいな体質になるのは、一番最初に「有機」という、多義的な語を看板に掲げた最初の時点で、もう運命づけられていたような気が、わたしにはしてなりません。

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「農民の誇り」のつくり方

藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房)を読んでいます。シュタイナーの「バイオ・ダイナミック農法」とナチス・ドイツの農業政策との関わりについて研究した本です。プロローグとエピローグを読み終わりました。全部読み終わったら、改めて感想の記事を書きます。
とりあえず、読み終わったところ(プロローグとエピローグ)の内容について、わたしの立場から言えることは、これは、「農民の誇り」のつくり方の研究ではないか、ということです。シュタイナーにしてもナチス・ドイツにしても、農民をおだてて、農業労働をやらせようとして、農業にまつわる「神話(物語)」をつくったのではないでしょうか。それが、「有機農業」だったのではないでしょうか。

日本有機農業研究会では、シュタイナーの「バイオ・ダイナミック農法」とナチス・ドイツの農業政策については、まるで知らなかったような扱いをしていますが、有機農業の源流は、間違いなく、ドイツにおけるこの2つの思潮の交流にあります。そして、有機農業の本質、つまり、「生命(バイオ)・有機(オーガニック)=生命力を有するの意味」という言葉が持つイメージ喚起力を最大限利用する、という点では、発足時から現在に至るまでの日本有機農業研究会は、有機農業の源流である、ドイツにおけるこの2つの思潮と、まったく同質だと言えます。

シュタイナーの「バイオ・ダイナミック農法」のほうは、「どうしてこのような儀式のような農法をするのですか」とたずねても、象徴的な、神秘主義的な答えしか返ってこないのではないかと想像しますが、ナチス・ドイツの農業政策は、現代の日本人が聞いても、よく分かりますし、非常に魅力的に聞こえます。
ナチ(国民社会主義)党政権は、革命やクーデターで成立した政権ではありません。選挙で、国民の支持を集めて当選しました。ドイツ国民は、ヒットラーの演説に熱狂していました。熱狂するほど、魅力的だったのです。

『ナチス・ドイツの有機農業』に引用されている、ナチス・ドイツの農業政策を見てみましょう。まずは、1935年に制定された「帝国自然保護法」前文「そのもの」です。

 今も昔も、森や野原の自然は、ドイツ民族の憧憬であり、喜びであり、保養地である。
 昔と比べると、故郷の景観は根本的な変化を遂げ、その植物相も、集約的な農業や林業、一面的な耕地整理と針葉樹林の植林によってしばしば変質した。植物相の生命空間(レーベンスロイメ)が減少することによって、多種多様な、森や野原を活気づけていた動物世界も次第に消えていった。
 こうした展開は、多くの場合、経済的必要性によるものだった。今日では、ドイツの景観をそのように改造したところで、観念上の、あるいは経済的な損失が公然のものとなっている。
 世紀転換期の頃に生まれた「天然記念物保護区」は、部分的にしか指定されなかった。なぜなら、本質的な、政治的および世界観的前提に欠けていたからである。ドイツ人の改造があってはじめて、有効な自然保護の前提が作り出された。
 ドイツの帝国政府は、最も貧しい民族同胞にさえも自然の分け前を確保することをみずからの義務としている。それゆえ、帝国政府は、下記の帝国自然保護法を制定し、ここに公布する。

どうでしょうか。「生命空間」とか、ちょっと怪しげな言葉も出てきますが、大筋で間違ってはいませんでしょう? 現代の環境政党が起草した法律だと言っても、とおりそうではありませんか。
藤原辰史さんは、この『ナチス・ドイツの有機農業』のプロローグの中で、こう言っています。

「人間中心主義」批判と「動物への権利」の主張。ディープ・エコロジーが目指す理想を、ナチスは、1935年の「自然保護法」と1933年の「動物保護法」という二つの法律ではっきりと描いていた。つまり、〈第三帝国〉は「人間中心主義」から「生物圏平等主義」へという未知の領域に踏み込む実験を、国家規模で、しかもディープ・エコロジーが登場する40年前に、法律上においてはじめて断行した国家なのである。言い換えれば「人間」だけではなく、人間も動物も植物も包括する「生命」を国家の軸に据えようとしたはじめての試みなのである。

わたしが当時のドイツにいたら、ナチ党の農業政策に賛同して、喜んで有機農業をやっていたかもしれません。
もう1カ所、「プロローグ」から引用しましょう。

 例えば、ナチ期農業思想の重要な担い手のひとり、ゲオルク・ハルベは、有機農法を単に様式としてばかりでなく、人間の自然認識変革をもたらすものとしても捉えていた。ハルベは、ユダヤ人やイギリス人がもたらした「物質主義的世界観」が現在の自然科学の基礎となっていると指摘し、都市の研究室や実験用農場で得られた研究成果で満足する自然科学者の自然科学観を徹底的に攻撃している。その根拠となるのが、ゲーテの次の言葉だ。「自然を把握しそれを直接利用することは、人間にはほとんどできない。認識と実用のあいだに、人間は、妄想を見いだそうとする。かれらは、それを入念につくり出し、それにかまけて、利用するはおろか対象そのものを忘れる」。ハルベは、そうした人間の傲慢さを最も体現しているのが、生きたものを死んだものとして把握する自然科学者だと批判する。そして、生きたものとして把握できる農民をそれに対置させる。そのうえで農民は、農場内の土壌、植物、動物、人間のつながりのなかで生き、そうした有機的関連性のなかで自然を把握するので、化学肥料ではなく、農場内の家畜が排出した糞尿を肥料として用いるべきだと推奨している。いうまでもなく、その家畜の飼料も、農場内で育った植物でなくてはならない。最後には、有機農法を「国民社会主義的な仕事」として称賛さえしているのだ。

分かりますでしょうか。要するに、「農民が一番!」という、おだてです。ただの農業でおだてても効果が薄いので、有機農業という、「特別な」農業に限定することによって、「ありがたさ」を増幅せようという目論見です。
牛・豚・鶏といった家畜は、実在します。それら家畜は、糞尿を排泄します。これも実在することです。それら糞尿をを田畑の肥料に使うこと、それ自体は、なんの問題もありません。問題なのは、そのような農作業に「バイオ(生命)」だとか「有機(オーガニック)=生命力を有するの意味」だとかいった、実体のない、ただの観念の「おふだ」をはりつけて、さも特別な農法であるかのように飾り立てて、農民や都市住民をだますことだと思います。

わたしは、このブログで何度も言ってますが、有機農業と非有機農業の境界線は、非常に恣意的に引かれています。たとえば、有機JASでの線引き(やっていいこと/悪いこと、使っていい資材/悪い資材)の根拠を示そうとしても、それは相当に気まぐれ・ご都合主義的に定められたものだ、ということが分かるだけなのです。ですから、有機と認定されたとたんに、突然特別な農産物になるわけではありません。有機と認定されたとたんに、その農作業をする農民が、特別な存在になるわけでもありません。しかし、特別になったような「気がする」効果だけは、絶大なのです。しちめんどくさい認定作業は、「気がする効果」を際だたせるための「儀式」のようなものです。

有機農業は、自分や自分の家族だけは「安心・安全」な食べものを食べたい、という、エゴ丸出しの富裕層の需要をまかなうためだけではなく、農民に「自分は特別な農法でがんばってるんだ」という意識を持たせて、農民であることを誇れるように仕向けるためのものでもあるのです。
そうやって、おだてられた農民は、人がいやがる農作業を、自発的に引き受けるように仕向けられます。国やマスコミが「農業は大切だ」というキャンペーンを、よくはっていますが、ああいうのを見ると、ほんとに、「おまえが田んぼに入って、米をつくれよ」と言いたくなります。

わたしは、以前このブログで、「ほこりを持たないで生きていくということ」という記事を書きました。

ほこりを持たないで生きていくということ

皮肉な言い方かもしれませんが、目の前に「誇り」というエサをぶらさげられて、働かされることほど、著しく誇りを傷つけられることはありません。
では、何のために働くのか、と聞かれれば、わたしの答えは、「食べるため」でしょう。もう少し広く、「生活するため」と言ってもいいです。わたしは、生きる現実のために生きたいとは思いますが、「誇り」などという幻想のために生きたいとは思いません。
わたしのこういう感覚を分かっていただくために、農業まつわる、わたし田中による「神話(物語)」を、以下に、サクッと広げておこうと思います。つきあってもらえると、うれしいのですけど。

地球は、だいたい、46億年ぐらい前にできました。で、だいたい40億年ぐらい前に、地球上に生命が発生しました。それがいろいろ進化して、だいたい500万年ぐらい前に、二足歩行して、音声言語を使えて、家族を最小単位に生活する、現代人につながる、「人類」が、誕生します。1万年ぐらい前までは、人口400万人ぐらいで、安定した暮らしをしていました。マーシャル・サーリンズが言う「始原のあふれる社会」です。

マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』(法政大学出版局)

そのころ人類は、自然が自然状態で人類を養える範囲内で生活を営んでいましたから、食べものは、特に苦労しなくても、おなかのすいたときに狩猟採集することで、簡単に得ることができました。
ところが、1万年ぐらい前に、人類は、食べものを必要以上に備蓄するようになって、これがきっかけになって、人口が増えはじめます。(アラン・テスタール『新不平等起源論』法政大学出版局、参照)
やがて、農業や畜産・酪農の技術が発明されて、人口増加に拍車がかかります。そして、人類500万年の歴史の中で、長い間400万人ほどで安定していた人口が、最後の1万年で、一気に1000倍以上にふくれあがってしまったのです。

自然が自然状態で養える人口の1000倍以上ですから、食料生産は困難を極めます。備蓄された食料は、富となり、権力が発生し、都市が形成されます。食料生産は、奴隷によってになわれるようになりました。
奴隷は、昔は、鞭でたたいて、強制労働させていましたが、曲がりなりにも民主国家においては、そのようなことはできません。そこで発明された「道具」の一つが、農民をおだてることです。農業は素晴らしい、食料生産をになうことは名誉なことだ、という農本主義的な「神話(物語)」がつくられ、教え込まれました。

「有機農業神話」も、このようなものの一つなのだと思います。神話によって、つらい思いを紛らわせたい農民と、同じ神話によって、農民に食料生産を押しつけている罪悪感を紛らわせたい都市住民とが結託して、自分たちは何か崇高なことをおこなっていると信じ込ませるような、自己催眠をかけているのです。
そうはいっても、世界の人口は、まだまだ増えている、どうしたらいいのか、という話になります。強制的な人口抑制策が間違っている、という記事も、以前に書きました。

人口抑制策批判 その1

人口を急激に減少させようとするのは、危険な発想です。そんな発想を許せば、それこそ、ハルマゲドンを自演しようとする人たちが現れかねません。1万年かけて増加したのですから、1万年かけて減少させるぐらいの、長期戦の心構えがなければ、絶望してしまいます。
短期戦では負けます。負けてもし方がないのです。これは、それほど、人間性の深い部分にある、人間の本質に関わる戦いなのですから。負けても、負けても、いつか人間は変われると信じて、伝え続けたいと思います。
人類が、自然が自然状態で養える範囲内で、つつましく生きていくことを目指していきたいです。人類が歩んできた間違った方向性を指摘することと、間違った方向に発達した社会から自分の生活を引きはがして、自立した生き方をはじめることとを、とりあえずの実践方法としたいと思います。一口で言えば、自給を目指す、ということです。

最後に、わたくしごとですが、先日、わたしは、日本有機農業研究会を退会しました。電話で住所と氏名を言って、退会する旨を伝えました。会のほうからは、「長い間のご支援、ありがとうございました」ぐらいの大人の挨拶ができれば大したものだと思っていたのですが、実際に返ってきたセリフは、「あ、そう。はい」だけでした。

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バイオダイナミック農法

今、藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房)を読みはじめたところです。この本は、ルドルフ・シュタイナーの「バイオダイナミック農法」とナチス・ドイツの農業政策の相互関係を中心に研究した本です。

有機農業について考えるのだったら、たとえば、1971年の、日本有機農業研究会の設立あたりから調べればいいと思うかもしれませんが、「バイオダイナミック農法」にも、ナチス・ドイツの農業政策にも、現代の日本の有機農業と共通する思想が貫かれていることが分かるので、いわば「源流」として、この2つについては、知らなくてはならないと、わたしは思います。
著者の藤原辰史(ふじはらたつし)さんが、この研究によって受賞した、日本ドイツ学会奨励賞の授賞式での「受賞のあいさつ」で、日本有機農業研究会の設立者の一楽照雄が訳して、今、農文協の「人間選書」の一冊として出ている、ロデイルの『黄金の土』(=邦訳『有機農業』)には、元ナチ党員であり、農場主でもあったヘルマン・ラウシュニングの農芸化学批判が引用されている、ということを明かしています。こういう思想的「つながり」は、無視できないと思います。

『ナチス・ドイツの有機農業』の感想は、読み終わってから、別の記事として、述べるつもりでいます。

「バイオダイナミック農法」は、現在の日本でも、実践している人たちがいます。実践者の例として、「ウインディーヒルズ・ファーム」を挙げておきます。ファームのホームページから、農法に関する部分を引用します。

バイオダイナミック農法では、農薬や化学肥料をいっさい使わず、鉱物、植物、動物から特別な方法によって作られる「調合剤」を使います。
また、太陽、月、星々の運行が生み出す宇宙のリズムが植物に与える影響をも深く洞察しながら作業を進めます。 それによって、光と風と熱と水と大地の力が植物に結集し、植物はいきいきと成長するのです。

「調合剤」をつくる方法が、宗教の儀式のように思えるのは、わたしだけでしょうか。「雌鹿の角にシリカ(ケイ酸化合物・水晶の粉)を入れ」るとか、「ノコギリソウを乾燥させ、牡鹿の膀胱に入れて土に埋め、特別な季節に掘り出」すとか、「カモミールの花を牛の腸に詰め、堆肥に少量加える」とか、「樫の樹皮を牛の頭蓋骨に詰め」るとか、「牛の腸隔膜にタンポポの花を詰め」るとかといった具合です。
また、月の動きは、潮の満ち引きがあるぐらいですから、植物の生長にも影響するかもしれない、ぐらいは想像できますが、「太陽系内の惑星の運行を考慮した農法」とまで言われると、わたしの感覚では、引いてしまいます。

「バイオダイナミック農法」をはじめたルドルフ・シュタイナーという人は、どういう人だったのでしょうか。にわか勉強をしてみましたが、正直言って、よく分かりません。
シュタイナーは、まず、ゲーテの研究者として、出発しているようです。ゲーテの「有機体思想」を研究した、と、ある資料には、ありました。ここに、有機農業に共通する「有機」という語が出てきました。
ゲーテは、生物学(形態学)の研究もしていましたが、ここでいう「有機体」は、生物学のそれではなく、社会学的な概念です。わたしが、全体主義と親和性がある、と指摘した、社会有機体説のことです。

シュタイナーは、人智学協会の設立者ですが、その前に、神智学協会のドイツ支部が設立されたときに、書記長に就任した人です。
この人智学(Anthroposophie、「人間の叡智」の意味)も、その前に関わっていた神智学(Theosophy、「神聖な叡智」の意味)も、ヨーロッパで古い伝統を持つ、オカルティズムの流れをくむ思想です。
人智学と神智学の違いが、わたしにはよく分からないのですが、共通するのは、人間の本質を宇宙のヒエラルヒー(階層制、ピラミッド型の上下関係に整序された組織)の中に位置づけようとしていることと、一部の選ばれた少数の人間にだけ伝授される「奥義」を持っていることであろうと、思われます。

有機農業の運動が、自分たちを呼ぶのに「有機(オーガニック)」という語を選んだのは、偶然ではありません。有機農業の運動の中では、資材として生物由来のもの(有機物)を使う、という意味だけではなくて(この意味だけなら、無機物も使うのですから、「有機」と呼ぶのは変です)、生産者や消費者を含む、人びとの関係をも「有機」という概念でとらえて、この両方の用法を「かさねた」ものの呼称として「有機」という語が使われることが多いです。同じ「有機」という語を「かさね」て使うことによって、両方の用法に、ともに正当性があるかのように見せかけているのだと思います。単純な、言葉のマジックです。
有機農業の運動に見られる神秘主義的傾向(人間の知性を超えたものを尊重する傾向)は、神智学や人智学の神秘主義の流れを引くか、さらに源流の、諸オカルティズムに、あるいは土着のオカルティズムに、直接・間接の影響を受けて表れているのだろうと思います。

神智学・人智学については、それぞれ日本の法人がホームページを持っていますので、リンクしておきます。本人たちが言っていることを、確かめてみてください。わたしには、難解すぎて、分からないところが多いです。分からないのは、分かりやすく表現してないからで、分からないわたしの責任ではありません。

いろいろな言葉が出てきますが、怖がる必要はありません。言葉は、所詮、言葉にすぎません。完全にぴったり一致する実物を持ってきて見せられない言葉は、信じなければいいでしょう。そして、発せられた言葉に距離を置いて、なぜその言葉を使うのか、その言葉を使う相手の意図を推理する習慣を持つと、迷わなくて、いいと思います。

神智学協会ニッポン・ロッジ

日本アントロポゾフィー協会

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神秘主義・精神世界・スピリチュアル・キリスト教

冬は畑ができないので、栽培生活ブログも、更新が少ないです。あいかわらず、「新規就農 失敗」で検索してくる人が多いです。でも、北海道有機農業研究会のことを書いたころから、今まで来たことがないような方たちが、このブログを見に来てくれています。道内にあるミッションスクールからも、たくさんアクセスが来ています。
みなさんに、悟りの光が現れますように。

ミッションスクールとは関係ないですが、ある方から、日本有機農業研究会の創設期の思想的な動きが「すごい」ですよ、と、メールをいただきました。前回の記事で、わたしが、「有機農業? 勝手にやれば?」なんて、投げやりなことを言ったもので、注意してくれているのでしょう。
わたしは今でも日本有機農業研究会の会員を続けていています。機関誌の「土と健康」を読んで、会の来歴などは、ある程度承知しています。でも、「すごい」という感覚は、湧かないんですよね。「有機」という概念に神秘的なものを感じて、生命体に社会をなぞらわせようとしている、全体主義に親和的な動き、というレベルにしか、わたしには理解できないです。

前回の記事でも、リンクしましたが、以前わたしがこのブログで書いた記事に、もう1回、リンクしておきます。

「有機」ということについて

この記事で紹介した、トマス・ヒル・グリーンという人に、気をとめてください。キリスト教福音主義派牧師の息子として育った人物です。現在のイギリス社会につながる、社会帝国主義・自由帝国主義の理念をつくった人です。
似たようなものに、国家社会主義(ナチ)というのがあります。ヒットラーの「ナチ」といえば、悪の権化みたいに思われていますけれど、この「ナチ」だって、ちょっと構成材料が違うだけで、社会的・文化的には、社会帝国主義・自由帝国主義とたいしてかわらないのです。イギリスもアメリカも、他国・他民族を侵略して、恐ろしいほど多くの、罪のない人たちを殺してきています(現在進行形)。
この系列には、社会主義や共産主義も、連なっています。政治的に「右翼」か「左翼」か、なんてことは、本質的な問題ではありません。右も左も、ルーツは一緒なのです。

リンク先の記事でも引用しましたが、海野弘さんの要約を借りれば、トマス・ヒル・グリーンの思想によると、「絶対我は自我の自由の実現であり、国家とは、その実現のための道徳的共同意志のあらわれである。つまり国家は、人間を自由にし、生活を向上するために積極的に介入すべきものである。」ということになります。おもしろいでしょう? 国家が介入すると個人が不自由になるのではなくて、個人は国家をとおして自由になるのですって。だから、「束縛は自由である」っていうジョージ・オーウェルの小説『1984年』みたいな不条理が、不条理でも何でもなく、あたりまえな世界が実現するのです。

「有機」という観念をもてあそんで、喜んでいる人たちというのは、その概念が幻想であることが分かってしまうと、裸の王様じゃないですが、みっともないことこの上ないんですよ。同類項にされたくないと、強く強く思います。
古い価値観が崩壊する不安な時代に、手っとり早く、訳の分からない「神秘的なこと」に飛びついただけだと、わたしは思います。東京オリンピックから、大阪の万国博覧会があったころの時代ですね。
それから十数年して、また、「農」への回帰運動があったようです。「精神世界」なんて言葉がはやっていた時代です。わたしはそのころ、東京の「三多摩」と呼ばれる地域や中央線沿線とかの空気を吸って生きていたので、時代の雰囲気は、自分なりに分かっているつもりです。
で、最近は、「スピリチュアル」って名前を変えて、またはやっているらしい。わたしはテレビを見ないので、詳しくないですけど。「エコロジー」と抱き合わせで商品化されていることも、珍しくないようです。「エコロジー」といっても、科学としての生態学とは関係なくて、「エコ」ブランドのファッションみたいなものです。
「エコ」と「エゴ」は似ています。

「農」なんて、神秘でもなんでもないです。目を覚ましてください。

上記の文化現象の流れについては、すごく荒っぽく、印象を交えて言っていますので、間違いが多いと思います。詳しい方は、コメントで訂正していただけると、ありがたいです。
なお、「信者」の方の信仰告白は、いりません。マインドコントロールを解くのは、専門家でもむずかしいぐらいなので、素人のわたしがいちいち対応していたら、人生がいくつあっても足りません。はっきり言って、時間の無駄です。しつこいコメントは削除します。

最近、道内のミッションスクールの方たちからのアクセスが多いのは、わたしが、北海道有機農業研究会の総会の会場にクリスチャンセンターを使用することを批判したからだろうと思います。このことに関連がありそうな記事は、このブログにもいくつか書いていますので、検索の手間を省くために、リンクでご紹介しておきます。

岸田秀『歴史を精神分析する』(中公文庫)

暴力の連鎖が、民族によって伝わるのではない、宗教によって伝わるのだ、ということを、歴史的事実をとおして、考察しています。つまり、迫害を受けた民族が、他の民族に迫害を与える、という連鎖です。この連鎖は、民族の違いを越えて、伝播していきます。暴力を媒介するもの、それは、宗教です。
この記事は、コメントもおもしろいので、コメント欄、字が小さくて読みにくいですが、がんばって、ぜひ読んでみてください。

岸田秀さんの本では、『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』もお勧めです。
岸田さんと対談した、浄土真宗のお坊さんの武田勝道さんが、その内容を、「安芸ねっと」というところで、公開しています。とっても勉強になります。紙の本にも収録されていますが、ただで読めるので、興味のある方は、どうぞ。→
「岸田秀先生からの回答」

わたしの、このブログに戻って、宗教の暴力的な性格は、過去のことではない、今もアメリカが、典型的に表現している、ということを書いたのが、下の記事です。

忠誠の誓い

で、こういう信者たちの振る舞いが、他の原因ではなくて、宗教に内在する要因によって起こるのだ、ということを、「聖書」をもとに説明したのが、下の記事です。

「戦争について」

神の残忍さを示す内容は、「聖書」の中にいーーーーっぱいありますが、神が異教徒殲滅を命じる、この「戦争について」という部分(申命記 20.10-18)には、仏教徒としては、特に心が凍ります。リンク先に引用してありますので、ぜひ、お読みください。
異教徒の国を攻めて、そこの男たちは「ことごとく剣にかけて撃たねばならない」のだそうで、そして、女たちは、「分捕り品」として「自由に用いることができる」んだそうです。
こういう記述を残していて、カルトに指定されないのが不思議です。
なにせ、信者にとっては「唯一絶対の神」ですから、他の宗教は、最初から共存することを拒否されているようなものです。いろいろな神がいたって、いいじゃないですか、なんて話は、つうじません。文字どおりに「唯一絶対」だと、かたくなに信じているのですから。
末端の人間の、口先だけの言い逃れなんか、どうして信じられましょう。まずは、「聖書」を、いわゆる「ポリティカル・コレクト」に改訂していただきたいですね。冗談にもできないとは思いますが。

ということで、まとまりませんが、栽培生活ブログの過去ログ案内でした。
信者の方に「改宗しろ」とかは、わたしは言いません。どんなに身近な人が入信しても、わたしはとりもどそうとはしません。入信した時点で、見捨てます。冷たいようですが、そうでもしなければ、身が持ちません。それこそ、自己責任です。ただ、まだとりこまれていない人たちには、注意を促します。わたしにできるのは、それぐらいです。

【関連記事】
北海道有機農業研究会、まとめ
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【参考外部リンク】
北海道有機農業研究会という組織のこと - 農民芸術学校ブログ

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北海道有機農業研究会、まとめ

わたしは、以前の記事で、有機農業を批判しています(「「有機」ということについて」)。わたしとしては、自然農ならやりたいですが、有機農業は、やりたくありません。
そもそも
「有機」という概念が肌に合いませんし、法律で規定されている「有機農業」にも、ひかれるものを感じません。まして、自分から有機農産物を買って食べる、なんてことは、ありません(単純に、値段が高いし)。
掲示板のほうにも書きましたが、要するに、有機農業というのは、「生産者と都市の富裕層とが結託して、お互いの生き残りをはかろうとしているだけ」のことで、ディープ・エコロジーの観点から言えば、生産者―消費者の関係にはさわらないうえに、食料生産には(手間ひまかけるので)余計にエネルギーを消費するようになる。ですから、結論から言えば、やらないほうが「いい」のですが、わたしがそんなことを言っても、誰も何とも思わないでしょう。直感的に分かりやすい言い方で、今のわたしの心境を表現すれば、「有機農業? 勝手にやれば?」という感じです。

ここのところ、北海道有機農業研究会のことを書いているのですが、この会の催しに集まる人たち(生産者、消費者、研究者)のどの人たちとも、立ち位置や感性が遠く感じられます。(あ、家庭菜園とか、自給農みたいな人なら、近いかな。でも、そういう人って、ゼロではありませんが、ほとんど残っていないみたいです)。
こんなときに、もしそばに釈尊がいたら、「分からない」人たちとは、深く関わらないで、「ひとり、犀の角のように歩め」って、言うのでしょうね。中島正さんも、「周囲との関係を切って、みの虫になれ」って言うのではないでしょうか。勝手に想像して言ってますけど。

北海道有機農業研究会とは、わたしとしては、深入りしないで、ほどほどにおつきあいしようと思います。
わたしは、栽培技術的には、試行錯誤でやってくスタイルがなじんでいて、有機農業式の栽培から学ぶことは、少ないと思います。社会的・農業政策的な考え方の勉強としても、あえて尊大な言い方を許してもらえるなら、「大枠は、見えてしまった」という感じが、しないではありません。

以下に、北海道有機農業研究会のメーリングリストに送った、わたしのメールを掲載します。けっきょく、会を「切り捨て」ることは、しませんでした。なぜなのかは、自分でもよく分からないです。

■―――――■―――――■―――――■

田中敬三「会員名簿の管理のことと、総会の会場選定のこと」

会員名簿の管理のことと、総会の会場選定のことでお騒がせしております、といいますか、お騒ぎしています、田中敬三です。上記2点について、若干補足させていただきます。

まず、会員名簿の管理の件です。
去年の事務局長の××さんと、おととしの事務局長の××さんに電話をして、事情をお聞きしました。おととし、わたしが入会したときに紙に手書きした住所をパソコンに入力するときに、間違えて、他の会員の方の住所を入力してしまったらしいです。
去年の総会は、わたしは、総会が終わったあとで、総会があったことを知りました。わたしは事務局に電話をして、連絡が来なかったことを抗議して、正しい住所を言いました。××さんは、わたしの住所を正しく直した住所録をつくって、××さんに事務を引き継いだ、とのことですが、実際の住所録は、おととしの間違ったままの住所でした。ですから、今年の総会の案内も届かなかったのです。
これは、わたしの想像ですが、××さんは、わたしの住所を直したあと、保存しないでファイルを閉じてしまったのではないでしょうか。そうだとすると、正しく直した記憶と、実際に直っていないファイルとの、つじつまが合います。
2年間、連絡が来ないので、「何これ、いじめ?」と、疑心暗鬼になりましたが、説明をうかがって、事務局には、もちろん、悪意などなく、ただ偶然、運悪く、「うっかりミス」がわたしに重なって当たってしまったのだ、ということが分かりました。
今回、××さんに、正しい住所に直してもらいましたので、仕切り直しということで、改めまして、みなさん、よろしくお願いいたします。

会場選定の件で、クリスチャンセンターは、会場がすいていて、利用料金も安い、とありましたが、それには理由(わけ)がある、ということを、たとえを使って補足します。
民放のテレビは、NHKのように受信料をとらなくて、「安い」と思われているかもしれませんが、コマーシャルの効果が実際にあるから、放送局は成り立っているのです。いつの間にか暗示にかかって、商品を買わされているわけですから、じつは、ものすごく高いテレビ番組と考えられるかもしれないのです。
宗教団体関連の施設も、それと同じようなものです。その宗教に親しませて、近づきやすいムードにする効果がある、と思われるから、あえて安い料金に設定してあると考えられるのです。

わたしは、テーラワーダ仏教を信仰しています。
現在、テーラワーダ仏教徒が国民の多数を占めるスリランカでは、もともとテーラワーダ仏教の信仰が盛んだったのですが、スリランカを占領したイギリスは、教会と学校を建てて、キリスト教の布教を進めました。学校は国民の税金でまかなわれていましたが、西洋文明やキリスト教こそが優れていて、仏教や伝統的な文化は、低級・野蛮なもの、という価値観に基づいた教育が、徹底しておこなわれました。学校長は神父や牧師が兼ねていて、生徒が学校を卒業して、役人などの社会的地位のある職に就こうとするときには、学校長から「キリスト教徒である」という証明書をもらわなければなりませんでした。
こうした政策のために、一時、仏教は滅びかけますが、やがて、仏教復興運動が起こって、それがスリランカ独立の原動力になります。
自分が信じるのと同じテーラワーダ仏教を信じるスリランカの人たちの歴史を思うとき、高野さんの言われた「器(文化)」の大切さを、改めて、しみじみ感じないではいられません。
わたしが、クリスチャンセンターでの総会に参加できない気持ちを、少しでも分かってもらえたら、と思って、書きました。失礼しました。

次回からは、もらったブルーベリーの苗穂のこととか、拓殖短大の食農研の「メ・シクーナ」というミニコミ(わたしも原稿を書いた)のこととか、栽培のブログっぽいことを書きましょうね。

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【参考外部リンク】
北海道有機農業研究会という組織のこと - 農民芸術学校ブログ

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北海道有機農業研究会のメーリングリストから

きのうの記事、「北海道有機農業研究会の場合」で、わたしが書いたところだけををご紹介しました、北海道有機農業研究会のメーリングリストでの一連のやりとりですが、書き手のかたがたから転載承諾が得られましたので、つなげてご紹介します。本当は、もうひとかた、転載承諾待ちの書き手のかたががいらっしゃるのですが、そのかたの分は、承諾が得られてから追加することにします。承諾してくださったかたがた以外のかたのお名前は、××で伏せます。それ以外は、原文のままです。

■―――――■―――――■―――――■

田中敬三「北海道有機農業研究会の総会に参加しません」

××様

会員名簿管理の状況についてお答えいただきありがとうございます。

会員名簿の管理については、2点、指摘させていただきます。

一点は、わたし田中は、北広島に住んでいたことは一度もないということです。「今回も北広島に送らせていただきました」とありますが、「北広島」って、どこの田中さんの話ですか? 去年の××さんの言い訳も呆れましたが、××さんのこのお答えを聞いて、管理のし方が杜撰そうな印象を、さらに濃くしました。

もう一点は、2カ月ほど前の、11月11日に××さんの名前で発送されたメールが、宛先がCC(カーボンコピー)で、全員のアドレスが晒されているんですけど、これについては、どのように思われているのか、新旧事務局の見解をお知らせください。

会員名簿の管理については、以上です。

今年の総会の会場が宗教団体関連の施設となっていることについて、わたしは、信じられないほどの不見識だと考えていますが、役員の人たちはどう考えていらっしゃるのか、ぜひともうかがいたいです。黙る、という反応も含めて、それぞれの方がどのように考えていらっしゃるのか、非常に興味があります。

  田中敬三

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牧野時夫「田中様の質問へのお答え」

牧野です。

 田中敬三さんの毛嫌いしているクリスチャンの一人ですが、私の意見を述べます。北海道クリスチャン・センターは、宗教に関係なく一般の市民活動に広く開放している施設です。仏教徒の方が使いたくないと言って利用しないことに文句を言うつもりはありませんが、クリスチャン・センターに偏狭な考え方はありませんから、もしかしたら仏教やイスラム教の集会にだって快く貸してくれるかもしれません。有機農研として利用することに、何ら問題はないと思います。というか、問題にする方が、おかしいと思います。
 例えば上智大、立教大、青山学院大、明治学院大、北海道では酪農学園大、藤女子大、北星学園大など、みなキリスト教主義の大学ですが、クリスチャンだけを対象にしたものではないし、学生をクリスチャンにしようとしているわけでもないのと同様です。全国吹奏楽コンクールの最終会場は、普門館という立正佼成会の経営するホールですが、キリスト教主義の学校でも参加を拒否したという話はきいたことがありません。

 宛先をBccにするべきところ、Ccにしてしまうことは、私も何度かやってしまったことがあります。ミスはミスですが、謝れば済むことです。その場で本人に指摘してあげれば、よいのではないでしょうか?

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田中敬三「Re:田中様の質問へのお答え」

牧野様

お答えありがとうございます。牧野さんは答えてくださると思っていました。

簡単にコメントします。クリスチャンセンター側が広量な精神をもって、仏教徒やイスラム教徒にも施設を貸すとしても、仏教徒やイスラム教徒側では、クリスチャンセンターで催しをしようとはしないでしょう。
問題の所在は、施設を貸す側ではなく、借りる側がどの施設を選ぶか、というところにあります。宗教団体関連の施設でなければ参加したいと思っていた人が、参加できなくなるわけですから、その責任は、会場を選択した人にあります。
北海道有機農業研究会は、有機農業を研究する団体ですから、宗教団体関連の施設を選ばなければ、誰でも気持ちよく参加できるはずです。わざわざクリスチャンセンターで総会を開催しようとするのは、常識的に考えても「変」です。
それでも、北海道有機農業研究会の総会をクリスチャンセンターで開催することを「問題にするほうがおかしい」とおっしゃるのであれば、それは、文化の多様性を理解しない、傲慢な考え方だと思います。
ミッションスクールについては、ミッションスクールだから行かない、という人は、いくらでもいます。

CCについては、会員名簿の杜撰な管理と同質の問題で、メーリングリスト参加者全員のアドレスを無断で晒してしまっているわけで、こういう事では困る、ということの一例として挙げました。

以下は、事務局への意見です。

わたしのところに去年も今年も総会の案内が届かないのは、どうやら、北広島の田中さんという人の所に届いていて、間違いとして返送されてこなかったから、というのが真相なのでしょうか。
わたしは、去年の1月に会に転居届を出したのではなく、会報類が届いていないことに気づいたわたしが、3度請求しても来なかったので、××さんに電話をかけて、「正しい」住所を連絡したのです。それなのに、今年の総会の案内も届かないというのは、本当に北海道有機農業研究会の事務局って、どうなっちゃってんの?!って感じなんですけど。
今年は総会前に発見できてよかったですが、会場がクリスチャンセンターということなので、わたしは参加できません。キリスト教関係だからどうのといちゃもんつけているのではないのです。有機農業の研究団体なのですから、誰でも気持ちよく参加できるように、特定の宗教や特定の政治傾向などに関係しない会場を選ぶのは、役員として当然の義務ではないかと、わたしは思います。

  田中敬三

■―――――■―――――■―――――■

高野健治「田中様へ」

高野です。
いろいろ不愉快な思いをさせてすみません。
以前交流会で親しくお話して以降、お会いできなくて、深川でその後、どうしていらっしゃるかと思っていましたが、こちらの不手際で全然案内が行ってなかったんですね。本当に申し訳ありません。
さて、私は、田中さんおっしゃる所の、ずさんで不見識な会の代表を現在しておるのですが、クリスチャンセンターを総会学習会で使用することについて、私の考えを述べさせていただきます。
私は、田中さんのように、敬虔な仏教徒でもなければ、牧野さんのようにクリスチャンでもありません。もともと宗教には多大な興味を持っていましたが、現在無宗教だと言ってよいでしょう。

田中さん、実は去年の我会の総会学習会は札幌の世界救世教の建物をお借りして行われています。去年、世界救世教で今年、キリスト教ですから、田中さんに言わせると、もう滅茶苦茶ということになりましょう。でもね、残念ながらこの会はそういう会なんですよ。
私も、この会に入った時、いろんな意味で、もうちょっときちんとした方が良いんではないかと思いました。しかし、事務局のずさんさは強く自己反省しなければなりませんが、それ以外の物事に対する「ゆるさ」こそがこの会の魅力なのでは?!と思っています。
田中さんは「不見識」とおっしゃいます。 私は「見識の違い」かなと思うわけですよ。

ぶっちゃけた話、会場として、集まりやすく、しかも低料金な場所はなかなかないんです。
クリスチャンセンター内で宗教的なことを押し付けられたら私も嫌ですが、今まで、何べんもこの会場を使用してますが、そういうこともなかったですし、器はどこだって、良いんじゃないのかなーと、言うと田中さんをまた怒らしてしまうかな?
どうですか、田中さん、今度農業の話以外にも宗教の話もしませんか、個人的に。
良かったら、長くこの会ともお付き合いください。

■―――――■―――――■―――――■

田中敬三「Re:田中様へ」

高野さん、こんにちは。

誠実なお答えをいただき、ありがとうございます。高野さんの発想の「ゆるさ」に、ほっとさせられました。

個人的には、キリスト教であれ、神道であれ、宗教団体関連の施設での総会への参加は、遠慮させていただきます。皆さんにお会いできないのは残念ですが、わたしの宗教的良心が許さないですね。

それで迷惑をこうむる人がいない限り、文化の多様性は、できるだけ尊重されるべきだと、わたしは思っています。その意味では、「器はどこでもいい」というご主張は、文化の否定のように感じられます。

わたしは、思っていることを、わりとすぐ言ってしまうのですが、中には、黙って欠席する人もいるかもしれませんし、出席はするけど、違和感を抱き続ける、という人も、いるかもしれません。

来年の総会の会場選定のときは、「ついていけない」と感じかけている人がいるかもしれない、ということを、ちらっとでも想像していただけると、うれしいです。

■―――――■―――――■―――――■

高野健治「Re:田中様へ」

田中さん、ご返答ありがとうございます。
なるほど、器も文化なのかもしれませんね。
文化を否定するつもりはないのですが、確かに、僕は仏、あるいは神というものの在りように比べたら器(文化)を軽視しているかもしれません。
ところで、道新の朝刊に五木寛之が親鸞について小説を連載しています。ご存知ですか? 今、若き日の親鸞は「仏とは何か」について、苦しみながら自問自答して答えを探し求めています。
田中さん、『仏とは、何なのでしょう?」、そして『仏はどこにいるのでしょう?」答えはこの欄でしなくて結構です。今度、お会いした時にきかせてください。
田中さんのような考えの会員が一人でもいる以上、次回からは会場について 留意します。
転載の件、O・Kです。 では、お元気で!
高野

■―――――■―――――■―――――■

田中敬三「Re:田中様へ」

高野さん、
こちらこそありがとうございます。

器(文化)って、大切なのです。集金力のある宗教団体は、集会場でも、講演会場でも、コンサートホールでも、学校でも、病院でも、図書館でも、何でもつくって、「器」をとおして布教をすすめてこようとします。そういった文化戦略には、自覚的でありたいものです。

で、総会の会場には、わたしのように声を上げる人がいなくても、公共の施設のような、ニュートラルな会場を選んでください。たばこの煙を迷惑だと声を上げる人がいなくても、公共の場では喫煙しないのと同じようなことです。

1月の中旬に開催する、と決めたら、公共の施設の予約申し込み開始にあわせて、近所でいける人に、行って予約してもらえば、それですむことです。今回のように、2週間前に開催を知るのでは、都合のつかない人もいます。

ちなみに、わたしは、きょう、16日現在、まだ、総会の案内を受け取っていません。このメーリングリストで、総会があることを知っただけです。
事が終わったあとで案内が来ても、古新聞の束を持って来て、新聞の購読料を請求されるようなものです。

宗教の話は、はた迷惑な信仰を押しつけようとする人が近くにいる状況では、時間の無駄なので、したくありませんが、誠実そうな高野さんとでしたら、有意義な時間が過ごせそうです。
いつか、お会いできるときを楽しみにしています。

  田中敬三

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藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房)

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北海道有機農業研究会の場合

世の中には、いろいろな組織がありまして、人間がやることですから、何かとトラブルはつきまとうわけなのであります。
栽培生活の掲示板のほうで、今、盛り上がっている話題で、「北海道有機農業研究会」という組織があります。掲示板を見て、「メーリングリスト」って、何?という人のために、くだんのメーリングリストでの一連のやりとりを、このブログに転載しようと思ったのですが、書いた人たちが転載を許可してくれそうにないので、とりあえず、わたしが書いたところだけを転載することにします。個人名は××で伏せます。
組織運営の参考にしていただければ、幸いです。

××様

会員名簿管理の状況についてお答えいただきありがとうございます。

会員名簿の管理については、2点、指摘させていただきます。

一点は、わたし田中は、北広島に住んでいたことは一度もないということです。
「今回も北広島に送らせていただきました」とありますが、「北広島」って、どこの田中さんの話ですか? 去年の××さんの言い訳も呆れましたが、××さんのこのお答えを聞いて、管理のし方が杜撰そうな印象を、さらに濃くしました。

もう一点は、2カ月ほど前の、11月11日に××さんの名前で発送されたメールが、宛先がCC(カーボンコピー)で、全員のアドレスが晒されているんですけど、これについては、どのように思われているのか、新旧事務局の見解をお知らせください。

会員名簿の管理については、以上です。

今年の総会の会場が宗教団体関連の施設となっていることについて、わたしは、信じられないほどの不見識だと考えていますが、役員の人たちはどう考えていらっしゃるのか、ぜひともうかがいたいです。黙る、という反応も含めて、それぞれの方がどのように考えていらっしゃるのか、非常に興味があります。

ちょっと補足します。去年の総会の案内が、事務局のミスによって、わたしのところに届かなくて、わたしは、去年の総会には、参加できませんでした。で、事務局に電話をして、正しい住所を伝えたのです。なのに、今年の総会の案内も届かなかった、という事情です。
はい、では、続きです。このあと、宗教がらみの記述に反応して、××さんからの投稿がありました。それへの、わたしからの答えです。

××様

お答えありがとうございます。××さんは答えてくださると思っていました。

簡単にコメントします。クリスチャンセンター側が広量な精神をもって、仏教徒やイスラム教徒にも施設を貸すとしても、仏教徒やイスラム教徒側では、クリスチャンセンターで催しをしようとはしないでしょう。
問題の所在は、施設を貸す側ではなく、借りる側がどの施設を選ぶか、というところにあります。宗教団体関連の施設でなければ参加したいと思っていた人が、参加できなくなるわけですから、その責任は、会場を選択した人にあります。
北海道有機農業研究会は、有機農業を研究する団体ですから、宗教団体関連の施設を選ばなければ、誰でも気持ちよく参加できるはずです。わざわざクリスチャンセンターで総会を開催しようとするのは、常識的に考えても「変」です。
それでも、北海道有機農業研究会の総会をクリスチャンセンターで開催することを「問題にするほうがおかしい」とおっしゃるのであれば、それは、文化の多様性を理解しない、傲慢な考え方だと思います。
ミッションスクールについては、ミッションスクールだから行かない、という人は、いくらでもいます。

CCについては、会員名簿の杜撰な管理と同質の問題で、メーリングリスト参加者全員のアドレスを無断で晒してしまっているわけで、こういう事では困る、ということの一例として挙げました。

以下は、事務局への意見です。

わたしのところに去年も今年も総会の案内が届かないのは、どうやら、北広島の田中さんという人の所に届いていて、間違いとして返送されてこなかったから、というのが真相なのでしょうか。
わたしは、去年の1月に会に転居届を出したのではなく、会報類が届いていないことに気づいたわたしが、3度請求しても来なかったので、××さんに電話をかけて、「正しい」住所を連絡したのです。それなのに、今年の総会の案内も届かないというのは、本当に北海道有機農業研究会の事務局って、どうなっちゃってんの?!って感じなんですけど。
今年は総会前に発見できてよかったですが、会場がクリスチャンセンターということなので、わたしは参加できません。キリスト教関係だからどうのといちゃもんつけているのではないのです。有機農業の研究団体なのですから、誰でも気持ちよく参加できるように、特定の宗教や特定の政治傾向などに関係しない会場を選ぶのは、役員として当然の義務ではないかと、わたしは思います。

  田中敬三

はい。この××さん、クリスチャンセンターで総会を開催することを「問題にすることがおかしい」とのたもうのです! で、クリスチャンセンターは、宗教に関係なく誰でも利用できる、と。そして、ミッションスクールを例に挙げて、それらと同じだ、と。ミッションスクールは、「学生をクリスチャンにしようとしているわけでもない」ですって。あのう……ミッションスクールって、日本語に訳すと、「伝道学校」なんですけど。
この××さん、こういう、まったく矛盾することを平気で強弁するくせがあるんですよね。以前も、ご自分のことを、「絶対的権威(神)に服従するアナーキストだ」と、自己規定されていました。白い猫は黒猫だってか。束縛は自由だ!ってか。オーウェルですか。××さんは、バクーニンを読んだことがないんじゃないかと推測しますが、どうですか。百科事典の解説じゃなくて、本として、の話で。
××さんではないですが、ちょっと前に、詩人で、キリスト教日本聖公会の伝道師でもあった山村暮鳥の詩を読んでいましたら、「苦痛は美である!」「苦しめ」とかいう行が出てきました。日頃からはりつけの物語に親しんでいると、感覚が倒錯してくるのかもしれません。図書館で借りたこの山村暮鳥の詩集の中に、明白な差別用語がもろに差別的に出てきたので、図書館の職員に指摘したら、閉架のほうに引っ込めてしまいました。

次は、別の方からです。
この方は、わたしが総会の会場の選定が「不見識だ」と非難したことに対して、「見識の違いでしょう」と、かわします。そして、こういう「ゆるさ」が、この会の味なんだ、とおっしゃいます。過去には、世界救世教の施設で総会を開催したこともあるそうです。信ジラレナ~イ! 不見識というか、無節操というか。
はい。では、その方への、わたしからの答えです。

××さん、こんにちは。

誠実なお答えをいただき、ありがとうございます。××さんの発想の「ゆるさ」に、ほっとさせられました。

個人的には、キリスト教であれ、神道であれ、宗教団体関連の施設での総会への参加は、遠慮させていただきます。皆さんにお会いできないのは残念ですが、わたしの宗教的良心が許さないですね。

それで迷惑をこうむる人がいない限り、文化の多様性は、できるだけ尊重されるべきだと、わたしは思っています。その意味では、「器はどこでもいい」というご主張は、文化の否定のように感じられます。

わたしは、思っていることを、わりとすぐ言ってしまうのですが、中には、黙って欠席する人もいるかもしれませんし、出席はするけど、違和感を抱き続ける、という人も、いるかもしれません。

来年の総会の会場選定のときは、「ついていけない」と感じかけている人がいるかもしれない、ということを、ちらっとでも想像していただけると、うれしいです。

  田中敬三

とまあ、こんな感じで、やりとりしました。
結果から言うと、会の、ほとんど唯一の活動である総会の案内が、2年連続して、わたしのところへ届かなかった、ということと、総会を宗教団体の関連施設で開催することについて、「おかしい」という感覚がない、ということです。変でしょう?

北海道有機農業研究会というのは、こういうところです。ご参考までに。

【関連記事】
北海道有機農業研究会のメーリングリストから
北海道有機農業研究会、まとめ
一楽照雄と日本有機農業研究会
藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房)

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冬作型の豆のこと、自給的農業の経済のこと

ここ最近、記事を書いていません。豆のより分けをしたりとか、豆の食べ方を考えて試したりとか、本を読んだりとか、ほかの人のブログを見たりとか、そんなふうに、のんびりと過ごしています。

ところで前回、冬作型の豆(エンドウ豆、そら豆)は、北海道では、露地ではつくれないのではないか、と書きましたが、大うそでした。エンドウ豆にいたっては、北海道は、都道府県別の出荷量が、全国第一位ですらありました。
冬作型の作物について、笹村出さんのブログ「地場・旬・自給」の、きのうの記事、「自給農経済」に、なるほどと思う説明がありました。この記事には、自給農を営む際の、金銭的な収支についても、分かりやすい説明があります。勉強になりました。

http://blog.goo.ne.jp/sasamuraailand/e/0abcb4c35f51637346651c794b12e6b6

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C4植物

トウモロコシで思い出したのですが、トウモロコシも「C4植物」なんですね。

「C4植物」というのは何かといいますと、植物は、光合成の仕組みの違いで、「C3植物」と「C4植物」に分けられます。「C3」とか「C4」とかいうのは、光合成の仕組みの最初の段階でつくられる物質の炭素数から付けられた名称です。
「C4植物」は、「C3植物」に比べて、効率よく炭素を固定できるようになっています。光合成の速度は、「C3植物」の約2倍もあるそうです。
この効率のよさを、自動車のターボエンジンにたとえる人もいます。
特に「C4植物」は、高温、乾燥、低肥料の環境で、強さを発揮します。作物としては、環境の変化に対応して、安定して収穫できる作物だといえるでしょう。

農作物の中では、どのような作物が「C4植物」かといいますと、トウモロコシ、サトウキビ、ヒエ、キビ、アワ、モロコシ(タカキビ、コーリャン、ソルガムともいう)、それから、中南米で栽培されている、ヒユ科のアマランサスも「C4植物」です。
ちなみに、麦・稲のたぐいは、「C3植物」です。

いわゆる「雑穀」と呼ばれる作物が多いですね。大切な遺伝資源として、栽培して、食べて、伝えていきたいものです。

【追記】
植物には、「C3植物」と「C4植物」のほかに、乾燥地域に適応した「CAM植物」というのがあります。
コメントでご指摘いただいた森下礼さん、ありがとうございました。

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「チ」――異質なものに一体化する想像力

「チ」というのは、アイヌ語で、「わたしたちの、わたしたちが」という意味です。「ナショナルトラスト・チコロナイ」の「チコロナイ(わたしたちの沢)」の「チ」です。
「わたしたち」というと、「あなたとわたしでわたしたち」だと思いがちですが、アイヌ語の「チ」には、話しかける相手が含まれません。「(あなたではない)わたしたち」なのです。これは、カムイの言葉が人間の言葉に転化していったのだろう、アイヌ語は、カムイと人間の一体感を表している、と、ポン・フチさんは言っています(『アイヌ語は生きている』)。
ここで、カムイを「神」と訳すと、分かりにくくなります。「霊魂」とも違います。生き物ではない、火のカムイとか、日常生活の道具のカムイとかがいたりしますから。
人間とは違うカムイが、いろいろなところにいるとすること、語りの世界をとおして、カムイの視点に「一体化」して物事を認識する習慣があるということ、そのような世界観を想像すると、それがとても魅力的なものに感じられます。
人間の利益しか考えられない人たちがいます。その人間も、民族が違うと、「人間扱い」することさえできなくなる人たちがいます。その一方で、アイヌ民族のような、柔軟な想像力を持った人たちもいます。
「チ」という語の使われ方は、人間中心主義的な考え方から脱出できないでいるわたしたちに、揺さぶりをかけてくるように感じられます。

このブログの副題「《わたしたち》の自給を目指して」は、「あなたとわたしでわたしたち」の「わたしたち」しか考えないで付けた名前です。でも、そう名付けておいたので、「チ」が気になって、アイヌ語に教えられることになりました。

さて、今年の栽培は、そろそろ終わりです。このブログも、冬の間は、更新が遅くなります。何度も見に来てくださったみなさん、ありがとうございました。また、雪がとけるころになったら、お会いしましょう。
「うちらは、冬でも栽培しとるよ」という方、よろしかったら、掲示板のほうで、このごろのご様子など、お知らせください。
それから、今年(来年?)からは、わたしからは、どなたへも年賀状をお出ししないことにします。1月1日が新しかったり、めでたかったりする理由が、わたしには、全く理解できないからです。先方からいただいたお年賀状には、お返事は出しますけど。

それでは、また。(○゜ε゜○)ノ~~バイバイ

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森林を開拓して就農するやり方

わたしは、「販売農家」という意味での就農は、する気がなくなりましたが、自給のための栽培は、続けていきたいと思っています。タイトルの中の「就農」は、「販売農家」だけではなくて、「自給のための栽培」を含めて言っています。

自給のための栽培をしようと思ったときに、農地は、法律の縛りがあって、利用しにくいものがあります。特に北海道の場合、小規模での農業は、新規参入がむずかしいです。
では、どこで栽培をしようかと考えたときに思いつくことの一つが、「森林」ではないでしょうか。わたしも、そう思って、森林組合の事務所を訪ねたことがあります。森林の売買についての情報は、森林組合にあります。森林組合には、住宅地での「住宅地図」に当たる「森林地図」があって、森林の所有者や、それらの森林の性質について教えてもらえます。
北海道の森林は、かつてそれが一般の人たちに「払い下げ」られたときに、5町(約5ヘクタール)が標準的な単位だったために、今でも、5町単位で区切られていることが多いです。5町の森林を買って、その一部を、業者に頼んで、畑や住居用に開拓してもらう、というやり方は、可能だと思います。値段は、地面だけの値段としては、5町で50万円ぐらいからあるようです。
ただし、交通が不便なところが多いです。雪の多い地域では、冬の間は、陸の孤島のようになります。電気・電話・水道などのライフラインがないところがほとんどです。人間に有害な虫や野獣(クマとか)などが多いところも多いです。気候や地質によっては、農耕に向かないところも多いでしょうから、事前の十分な調査と、かなりの覚悟が必要になります。
冬期は町場に住む、という方法は、現実的だと思います。家を2軒持つ余裕があれば、の話ですが。一年中町場に住んで、畑をやりに山へかよう、というのは、自動車の燃料代がかさみます。いわゆる「粗放的農業」で、あまり手をかけないでやれる作物であれば、可能かもしれません。

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新規就農を考えている方へ

きのう、「北海のヒグマ」さんから、「家庭菜園的農業は事実上不可能だ」というコメントをいただきました。新規就農のあり方について、問題提起をいただいています。
また、このブログの右のほうにある「検索フレーズランキング」という欄で、今1位に輝いているのは、shine「新規就農 失敗」です。この検索フレーズは、ずーっとランキング入りし続けています。
ということで、このブログは、新規就農に興味・関心がある方がたが見に来てくださっているらしいので、あらためて、新規就農についての、わたしの姿勢というか、現在の立ち位置みたいなものを表明しておこうかと思いました。

以前から読んでくださっている方がたには繰り返しになりますが、検索して飛んできた方のために説明しますと、わたしは、拓殖大学北海道短期大学の、「新規就農コース」というのを卒業しました。このコースは、現在は、学生募集をやめています。
在学中に、同コースの学生、男5人で、法人(を目指すグループ)をつくって農場経営をやりはじめたのですが、1年でつぶれました。つぶれた原因は、経営的見通しが悪かったせいだと思います。責任は、言い出しっぺでもある「リーダー」にあると、わたしは思っています。「リーダー」本人も、他のメンバーに対して、「責任は全部自分が持つ」と、常日頃口にしていましたし。わたし個人としては、共同で何かをやることのむずかしさを学びました。傷口が広がる前に、早ばやとつぶして、正解だったと思っています。
新規就農コース卒業後は、2年間、短大がある深川市の外れの、山の中の耕作放棄地を使わせてもらって、すきなように栽培させてもらいました。ところが、わたしの栽培のやり方は、生産性が低いので、いつまでたっても農業者に認定されることができず、また、閉鎖的な農村社会にもなじめず、この畑は、2年で引き上げることになりました。
そして今年からは、畑の面積を縮小して、自宅に比較的近いところに3カ所、畑(空き地)を借りて、栽培生活を続けています。無職無収入で、市営住宅に母と暮らしています。年金生活者の母の生活に身を寄せています。以前よくニュース報道で、人の職業を言うときに「家事手伝い」という表現がありましたが、あんな感じです。母も、自立できにくい事情があるので、仕方がないと思っています。農業以外の収入の得方を模索してはいます、一応。

わたしは、農業でばりばり稼ぐ、ということをしたことがないので、農業で「人並み」の収入が得られるようになる方法を伝授することは、できません。農業でばりばり稼ぎたい人は、その方向で成功している人に聞いてください。わたしがやっている「栽培」は、機械・農薬・肥料に極力依存しないで、自分(たち)が食べるものをつくっていこう、というものです。来年は、陸稲の栽培面積を広げて、小麦やソバや稲きびや豆類なんかとあわせて、かなり自給率を上げられそうになってきました。

「半農半X」という言葉がありますが、支出を抑えて、最低限の現金収入のために、何か農業以外の仕事「X」をする、というやり方で、楽しい自給生活は十分に可能だと思います。
うちの家計で、ダントツに大きい出費は、車(軽トラ)に関するもの(維持費や保険料など)です。車を使わないで栽培したり、生活したりできるようになると、かなり楽になると思います。
買い物依存症みたいな人には、無理かもしれませんが、やりたくないことをやらせられることにストレスを感じる人には、「半農半X」は、試してみる価値は、大いにあると思います。うまくバランスをとって、「自分経営」をしていってほしいです。

「北海のヒグマ」さんの、一つ前のコメントと、それに対するわたしのコメント

以前、書いた記事↓
「新規就農 失敗」

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エクアドルの新憲法

ウニさんのブログ「壊れる前に…」の、きょうの記事、「自然が生きのびる権利」に教えてもらいました。
先日、国民投票で採択された、エクアドルの新憲法の中に、「人間の権利」だけでなく、「自然の権利」もうたわれている、という記事です。ぴんときた方は、上のリンク先の記事をごらんになってください。
ウニさんは、

もしかするとこの憲法は、人間中心の思想に囚われてきた「近代」からの鮮やかな決別の宣言であると言えるのかもしれません。

と、記事をまとめています。

クライブ・ポンティングさんは、『緑の世界史』の中で、地球の自然環境の危機の原因として、人間の思想・宗教の中にある「人間中心主義」を指摘しました。エクアドルの新憲法が「自然の権利」をうたい込んだことは、ウニさんが指摘するように、世界の憲法史上の、画期的なできごとなのかもしれません。
ただ、エクアドルのラファエル・コレア大統領は、地下資源の国有化を進めて、社会主義的な政策を進めようとしているそうなので、大統領が「自然の権利」と「開発」とのバランスをどうとっていくかは、注視し続けなくてはならないと思います。日本国憲法の「戦争放棄」の条項に似て、「言っていること」と「やっていること」とのずれが生じる可能性は、大きいかもしれません。

エクアドルの国民は、この新憲法をどのように活用していくのでしょうか。「自然の権利」を楯に、開発にブレーキをかけることができるのでしょうか。

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「キャベツ50トンを泣く泣く廃棄」

キャベツ50トンを泣く泣く廃棄 南幌・鹿追 価格暴落で需給調整

きょうの「北海道新聞」の見出しです。全国では7145トンのキャベツを、市場に流通させないことを、全国農業協同組合連合会が決めたそうです。そのうち、北海道では、50トンを、トラクターで畑にすき込んだそうです。
食べられるものを、なんてもったいないことでしょうか! しかし、ここで全量を出荷し続ければ、みんなが赤字になって、共倒れです。誰かにつぶしてもらわなければならないのです。

たくさん収穫できたら価格が安くなる、という値段の決まり方がよくないのです。なぜこんな変な値段の決まり方になっているかというと、生産する人と消費する人とが分離してしまっているからなのです。
生産者は、他人が食べるものを大量につくります。生産量は不安定で、消費量は気まぐれです。生産量と消費量のバランスとりは、非常にむずかしいのです。消費者のほうは、値段が下がれば、「得した」としか思いません。生産者の痛みなんか、考えもしません。

自給を進めていけば、この問題は解決していきます。作物がとれすぎたときには、たくさん食べればいいのですし、近所の人に差し上げてもいいのです。このやり方ならば、誰も「損」をしませんし、野菜を畑にすき込むような無駄もありません。
100%の自給なんか、そう簡単に実現できるものではありません。でも、せめて、食卓の一品、たとえば、おひたしでも、漬け物でも、味噌汁の具でも、何でもいいのです、何か一品だけでも、自給できたら、楽しいと思いませんか。そして、大根が得意な人、白菜が得意な人、豆を育てるのがすきな人、それぞれが得意なものを分け合って食べたりするのも、楽しいのではないでしょうか。

生産者と消費者の分裂を、少しでも修復する方向で、活動していこうではありませんか。人間は、昔は、そんな分裂など知らなかったのですから、きっとできるはずです。

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食欲の秋で、自給率、急上昇

「だめだよ。もう気がついたよ。誰もトウモロコシ、注文しないようだよ」
「あたりまえさ。親分の書きようがまずいんだ。あすこへ、「交雑しています。黄色い粒の中に黒い粒が混ざってたりして
ます」なんて、間ぬけたことを書いたもんだ」…………。

わたしは、トウモロコシは、白もち、黒もち、黄もち、八行、キャンベラの5種類を栽培しているので、雌花に5種類あって、それぞれに5種類の雄花からくる花粉を受けるのですが、全種類の花粉を同時に受けることも可能です。雌花と雄花の順列組み合わせは、全部で何種類になるのでしょうか。
「一夫多妻ですね」と言ったIさん、違います。「一妻多夫」です。トウモロコシ1本を動物の1回の出産にたとえると、多卵性多生児の、一人一人の父親が違うようなものです。すごいことになっています。全然売れないです。おかげで、我が家の晩飯は、毎日トウモロコシです。

トウモロコシだけではなくて、ジャガイモも、ミニトマトも、キャベツも、ズッキーニも、くらかけ大豆の枝豆も、畑でとれる野菜がいっぱいあって、食品は、なーんにも買う必要がありません。ここ1週間ほどは、買い物をしていません。
ある日の、家族ごとの自給率を調べることがあれば、我が家は、間違いなくトップクラスにランクされるでしょう。

先日、市役所から電話があって、「「健診結果相談会(健康診断の結果についての相談会)」をやるから、来てください」と言います。健康診断を受診したら、やれ肥満気味だ、善玉コレステロールが少ない、糖尿になりやすい、などと、身に覚えのないことをいろいろ言われたので、この際はっきりさせてやろう!と、出かけていきました。
栄養士さんにアドバイスをもらえるというので、
「油ものも、甘いものも、ほとんど食べていません。もっぱら畑でとれる野菜を食べて、畑で一日中体を動かしていて、運動も十分なはずです。どうしてこのような結果になるのですか」と問いただすと、栄養士さん、「うーん」と考え込んでしまいました。
しばし間があって、ふっと、栄養士さんが聞いてきました。「トウモロコシとか、枝豆とか、ジャガイモとか、どのぐらい食べているのですか?」。わたしが食卓を思い浮かべながら答えると、栄養士さんが、きっぱりと言いました。
「原因が分かりました。田中さん、あなた、食べすぎです」

教訓:「健康にいいものを食べていても、食べすぎたら、何にもならない」

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作物の機能性(効能)を言いたてることについて

せんだってから乾燥させていたエゴマの葉っぱを使って、エゴマ茶をつくってみました。

Egomacha ティーポットに数枚の乾燥させた葉っぱを入れて、熱湯を注いで数分。ごらんのように、緑茶のような色のエゴマ茶ができました。味は……味はあんまりしなくて、エゴマの葉っぱのにおいがしました。そのまんまの表現ですが。スーッとしたにおいというよりは、どちらかというと、葉緑素っぽいにおいです。くせのない、ノンカフェインの飲み物としては、悪くないです。でも、わたし個人としては、キクイモ茶のほうに軍配をあげます。2つをブレンドしたら、どうなるかな……。

エゴマ茶というのは、市販されているのかな? いくらぐらいで売られているのかな? という疑問が、入道雲のようにわいてきたわたしは、ネットで調べてみました。そしたら、ちゃんと売られていました。それはいいのですけれど、いくつかのサイトで、こんなうたい文句をつけて売られていたので、あきれてしまいました。いわく……

α‐リノレン酸たっぷりのエゴマの健康茶!

確かにエゴマには、α‐リノレン酸がたっぷり含まれています。ただし、エゴマの実に、です。葉に、ではありません。エゴマ茶は葉からつくるものです。エゴマの葉には、α‐リノレン酸は、あんまり含まれていないはずです。ですから、α‐リノレン酸がたっぷり含まれていることを理由に、エゴマ茶が健康にいい、ということは、言えません。
お客さんからクレームが来たら、「α‐リノレン酸たっぷり」は「エゴマ」を修飾していて、そのエゴマの葉っぱを使ってつくったお茶は、α‐リノレン酸とは関係なく健康的なんだよ、とか何とかと、開き直るんでしょうか。そもそも「健康茶」って、何なんでしょうか。「健康茶」でないお茶は、「不健康茶」なんでしょうか。あ、「ふつうのお茶」ってのもあるのかな。

とにかく、「α‐リノレン酸」という、何かすばらしいものがたっぷり含まれている、健康にいいお茶だ、というイメージを演出しようとしているらしいことは、分かります。でも、「α‐リノレン酸」という言葉は、あまり知られていませんよね? 何がどのように健康にいいのか、けっきょくは、分からないのです。分からなくても、とにかく、「健康にいいらしい」というイメージだけは、印象に残るように、演出されているのです。
こういう宣伝を見ただけで、このエゴマ茶を買うような人は、そうとうにオメデタイ人だと思います。

エゴマ茶の通販で気になったのは、原料の欄に、「エゴマの葉、エゴマの茎」と書いてあったことです。葉っぱは分かるのですが、「茎」? お茶でも、「茎茶」というのがありますから、エゴマの茎からも、エゴマのエキスが溶け出してくるのかもしれませんね。茎を粉砕して一緒に入れておけば、カサも増えるし、お買い得な感じがして、いいのかもしれません。よう知らんけど。

わたしは、エゴマを栽培していますが、エゴマの機能については、ほとんど語ったことがありません。機能を求めて食品を摂取するのは、はしたないことだと、わたしには感じられるからです。おいしさを追求するのも、はしたないと、わたしは感じます。食べ物というのは、身近なところで簡単に手に入るから、それを食べる、というあり方が本当だ、と思います。
わたしは、エゴマや、キクイモや、イネ科の雑穀類を栽培しています。それらを栽培する理由は、それらが比較的栽培しやすく、それでいて、わたしたちの生命を支える力を十分に持っているからです。これらの作物の機能性を喧伝する人たちもいますが、そういう人たちに、わたしは与したくありません。「ダイエット」とか、「グルメ」とか、わたし、一度も言ってませんでしょう? 当たり前の生活を、自分でつくっていきたい、わたしの願いは、ただそれだけなのです。

きょう、畑にいたとき、犬を散歩させている女性がとおりかかって、道路沿いにちょうど100本育てているキクイモを見て、
「あ、これ、キクイモですね」と言いました。
キクイモを知っている人は少ないので、うれしくなって、
「はい、そうです」と、明るく答えました。
話を聞いたら、今年から、その女性もキクイモを育てているのだけれど、収穫時期が分からない、ということなので、1年先輩のわたしは、得意になって説明してあげたのでした。

その女性が言うには、効能(どんな病気に効くか、ということ)と調理法を印刷した紙をつけて、土曜市か道の駅で売れば、爆発的に売れるのではないか、とのことでした。
効能のほうは、薬事法違反になるので、書けませんが、調理法をつけて売る、というのは、いいアイデアです。「爆発的に売れる」かどうかは、分かりませんけど。
効能を書かないのは、薬事法違反だから、というだけではなくて、わたしはキクイモという作物がすきなので、効能などというヤボな口上で売り込みたくないのです。ちょっと『清貧譚』の主人公、馬山才之助が、すきで育てている菊を、生活費を得るために売るのをためらうのに似ているかなー、なんて思ったりしています。

それにしても、近所に、キクイモなどという、超マイナーな作物をつくっている人がいることを知っただけでも、大収穫でした。それこそ、「爆発的に売れる」ようになったら、ライバルになるかもしれませんね?!

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農産物の値段

ジャガイモの販売をはじめたのですが、ある方からメールで、「値段が安すぎませんか?」と指摘されてしまいました。ジャガイモ5㎏で、400円+宅配料、10㎏で、700円+宅配料、という設定です。
わたしがつくったジャガイモは、写真を見れば分かるように、大きさもばらばらですし、形もよくないし、普通に市場に出荷しても、扱ってもらえないような品質なのです。それに、まとまった量を出し続けられないようでは、市場では、受け付けてももらえません。

わたしは、ジャガイモは、スコップを使って、人力で掘りますが、北海道のジャガイモ生産者のほとんどは、ジャガイモ掘り機で掘ります。この機械は、土の中から芋を掘って、地表に放り出すまでをする機械で、地面の上に転がった芋を拾い集めるのは、たいてい、出面さんをおおぜい雇って、人海戦術でおこなわれます。
わたしも、芋拾いを手伝ったことがあります。畑の主の話では、ポテトチップスをつくる会社に売るのだということでした。そのときに聞いた、ジャガイモの値段は、1キログラム当たり30円だ、とのことでした。しかも、ポテトチップスをつくるのにちょうどいい大きさの芋だけしか、買ってもらえません。大きすぎる芋も、小さすぎる芋も、畑に捨てられて、腐るに任せられていました。
1キログラム30円ですから、10キログラムで300円。わたしの10キログラム700円が安くないのが分かりますでしょう?

農産物の値段は、需要と供給の関係で上下しますが、ものすごくおおざっぱに平均して言うと、スーパーマーケットで売っている値段の、2割ぐらいを農家がとって、8割ぐらいを流通がとります。たとえば、200円で売られている大根があったとしますと、農家が受けとったのは、40円ぐらいだと考えるといいと思います。
出荷のための段ボール箱代は、農家もちです。値段が箱代以下になったら、出荷しないで、トラクターで畑にすき込んだほうが、赤字が増えなくていい、という判断になります。

わたしがつくっているジャガイモは、付加価値をつけて売るような、特別なジャガイモではありません。ほとんど素人のわたしが、いい加減につくっただけのものです。自給のための技術は、だれでもまねできるものでなくてはいけない、とわたしは考えています。
わたしのジャガイモを買ってくれる人というのは、ホームページを見て、「この人がつくったジャガイモを食べてみようか」という気になった、奇特な方とか、もともとわたしの知り合いで、「田中さんが作ったジャガイモを食べてみたい」という、これも、かなり奇特な方とかです。毎度ありがとうございます。

「田中さんのジャガイモ」といえば、舞踏家の田中泯さんが、20年以上前から、農業をやっていて、田中さんのホームページ「田中泯 Min Tanaka Official Website」を見ると、田中さんがつくったジャガイモが通信販売されています。名付けて「桃花村のみんじゃが」だそうです。1キログラムで500円だそうです。10キログラムですと、5000円ですか。わたしの7倍以上の値段をつけています。
「田中泯さんがつくったジャガイモを食べたい!」という人たちがいるんでしょうね。田中泯さんは、かっこいいから、ちょっと高くても買っちゃう!、ってことなんでしょうね。いえいえ、張り合うつもりなんかありませんです。

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職業適性診断

もう、10年ぐらい前の話ですけれど、遊び半分に、「職業適性診断」だか、「職業適性テスト」だかいうのを、受けてみたことがあります。受診料を払って、受診を申し込むと、アンケート用紙みたいなのが送られてきます。「屋外で働くのはすきですか?」とか、「正確さを要求される仕事を根気強く続けるのは、すきですか?」とかいった一連の質問に答えて、解答用紙を送ると、「あなたに向いている職業は○○です!」という、「診断結果」が、送り返されてくる、というものです。まあ、占いみたいなもので、当たらずといえども遠からず、な「診断結果」が来るわけです。そのとき送り返されてきた「診断結果」によりますと、わたしに最適な職業は、「測量技師です」とのことでした。

この「職業適性診断」は、仕事を類型化して、そこに一人一人の人間を割り振っていくやり方です。実際には、一つの仕事の中にも、いろいろな要素が含まれています。こまかく分断されない、分野横断的な仕事もあります。農業でも、森林を切り開いて、大農場を建設するようなやり方もありますし、食品加工と組み合わせた業態もありますし、漁業や土木業などと組み合わせたようなのもあります。教育・医療・福祉の分野と重なるものもあります。育種をしている人もいます。個人でこぢんまりやる人から、大企業がやるものまで、さまざまな形があります。
これこれこのような性質の人だから、農業に向いている、向いていない、ということは、そう単純には、言えないのです。農業は、基本的な産業ですし、体験してみることで得られるものは、多いはずです。何の仕事をするにしても、どこかで農業に関わるように仕向けていくと、有意義な人生を送れるのではないかと、わたしは思います。「農業は、あなたには向いていない」と、はねつけるのではなくて、それぞれの人に向いた農業のやり方を見つけていく、あるいは、人に合わせて仕事をつくっていく、という心構えでいると、いいと思います。

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老人性ウツに園芸セラピー

Therapy 写真は、わたしの母です。畑で遊んでいます。
歳をとると、今までできていたことができなくなったり、死について考えたりして、ウツになりやすいです。そんなときの気晴らしにもってこいなのが、畑です。
子どもが、水や砂で遊んで、夢中になるのと同じで、自分でやりたいことを見つけて、どんどんやっていきます。
ちなみに、この人、「要介護2」で、杖か手押し車がないと歩けない人なのですが、写真のように、杖なしで、安定歩行できていますでしょう? 夢中になって、自分が杖なしでは歩けない人だということを、すっかり忘れているのです。

一人で活発に、なにやら活動しているのですが、畑仕事の助けにはなりません。試しに何か簡単な作業を頼んでみても、さっぱりできないか、頼まれたということを忘れるかの、どちらかです。
ところが、自分のすきなことをやるとなると、とたんに生き生きしてきて、野菜の花を、「生け花にちょうどいい」と摘んだり、実でとる豆を、さやでとったり、「あ~ぁ、やっちゃった!」と、ため息をつかされること、しきりです。
でも、ひととき、気持ちが若返って、身体的能力まで戻ってくるのですから、植物の力は、たいしたものだ、と思います。

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野草 v.s. 雑草

「野草」というのは、野原なんかに、自然に生えている草のことです。それに対して、「雑草」というのは、おもに田畑に生えてきて、農作業の邪魔になる草のことです。
「野草」と「雑草」では、草の種類が違います。「野草」は、自然の野原などの、比較的肥料分の少ないところに、生えてくるものが多いです。一方、「雑草」のほうは、人間が肥料を施している田畑などの、比較的肥料分が多い土地に生えてくるものが多いです。

わたしが畑をはじめてから、よく見てきた「野草」の代表格は、タンポポとオオバコでしょうか。丘の上の畑で、肥料分がどこからも流れてこない、地力の乏しいところでも、しっかりと生えています。
一方、「雑草」の代表格は、アカザとスベリヒユでしょうか。あと、ちょっと生え方が特殊なんですが、スギナなんかも、畑で迷惑がられる、という意味では、「雑草」に分類したほうがいいかもしれません。

わたしは、「草は土の元」と考えているので、作物を害しない限り、むしろ生やしておいたほうがいい、と思っています。ときどき、適当に刈ってあげればいいのです。刈りきれないほど茂るとすれば、それは、畑を広げすぎているのだと思います。畑の適正規模は、草が教えてくれるのではないでしょうか。
通常、土の中には、いろいろな種類の草の種が含まれています。草たちは、種の形で、自分が育つのに適した環境が現れるのを、待っているのです。ですから、たとえば、耕耘機で草原を耕したりすると、今まで見たこともなかったような草が、急に生えてきて、驚かされたりします。

Suberihiyu 先ほど、スベリヒユの名前をあげました。厚みのある、光沢のある、独特の葉っぱを持つ草です。俗名を「ツメキリソウ」というそうです。なんで「ツメキリソウ」かというと、爪は、切っても、しばらくするとまた伸びてきます。スベリヒユも、切っても、すぐまた生えてくるので、それで「ツメキリソウ」というのだそうです。

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知里幸惠『アイヌ神謡集』序

かつて、狩猟採集を中心に生活していたアイヌ民族に農業を強制したのは、わたしたち和人です。植生を破壊して、動物たちを滅ぼして、機械・燃料・肥料の面で、外国の地下資源に依存して、持続不可能な農業を抱え込んで、右往左往しているのが、現在のわたしたちです。特に、北海道に住んでいる和人であるわたしたちは、わたしたちが壊してきてしまったアイヌ民族の、「持続可能な」生き方に、改めて学ぶ必要があると思います。

アイヌ民族の文化の特徴の一つは、文字がない、ということだと思います。人に何かを伝えるということは、声を出して語ることなのです。そして、人びとは、他の人が語るのを聞きます。そうやって、語られる内容を共有します。伝え続けるためには、語り続ける必要があります。伝わっていくうちに、内容は変化するかもしれません。語られる内容は、固定させることができません。それは、「誰かのもの」ではないのです。
アイヌ民族の文化の特徴で、もう一つあげておきたいことがあります。わたしは、アイヌ民族の文化について、そんなに詳しくないので、間違っていたら訂正していただきたいのですが、アイヌ民族は、たぶん、貨幣を持っていなかったのではないか、と思います。アイヌ民族は、保存食はつくりましたが、貨幣の形で富を蓄えることはしなかったのではないか、と思います。そして、お金によって自由が拘束されることもなかったのではないか、と思います。

Chiri 以下に、知里幸惠の『アイヌ神謡集』の序の部分を、「青空文庫」からコピーします。アイヌ民族がかつて生きていた世界と、今の現実の世界とが、対比的に述べられています。知里がなげく現実の世界とは、それへの同化を強制した、わたしたち和人の、この行き詰まった現実の世界でもあります。

   序

 その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝(かがり)も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円(まど)かな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.
 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名,なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.
 その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう.
 時は絶えず流れる,世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう.それはほんとうに私たちの切なる望み,明暮(あけくれ)祈っている事で御座います.
 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語,言い古し,残し伝えた多くの美しい言葉,それらのものもみんな果敢なく,亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか.おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います.
 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵,雪の夜,暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました.
 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば,私は,私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び,無上の幸福に存じます.

  大正十一年三月一日

知里幸惠

『アイヌ神謡集』全文をお読みになりたい方は、コピー元の青空文庫か、「栽培生活」のホームページの↓こちらへどうぞ。
http://saibaiseikatsu.jp/ainushin.html

【追記】
ネット検索で、「アイヌ民族には貨幣がなかった説」を探していましたら、CO2地球温暖化原因説を批判もしている、あの武田邦彦さんが書いていました。↓これです。
武田邦彦「人生の鱗 第三十五話 アイヌ文化の持続性」

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「リン鉱石の枯渇」から思ったこと

リン鉱石の枯渇が、肥料高騰の原因の一つになっていることが、あちこちのブログで、話題になっているようです。もともと、有限の地下資源に依存した農業に命を預けること自体、あやういことなのですが、しかも日本の場合、国内にその資源がないという、二重にこころもとない事情があります。
ですからわたしは、燐酸資源は、大切にリサイクルして使うべきだと思うのです。使わないで垂れ流せば、水系が富栄養化で汚染されてしまいます。

外国の地下資源由来の燐酸に依存した農業には、リン鉱石を産出する国で、自然と人びとの生活が破壊される、という問題もあります。その例として、以前にもこのブログでご紹介した、クライブ・ポンティングの『緑の世界史』(朝日選書)という本の上巻の、終わりのほうの数ページに、ナウル島とオーシャン島(ともに、当時の呼称)で、グアノ(海鳥糞化石)採掘をめぐって、どのような悲劇が繰り広げられたかが書かれていますので、ご参照ください。
世界が持続不可能な生き方をしていれば、遅かれ早かれ、破綻はやってくるのです。

水、食料、エネルギーなどの、生きていく上で必要なものの、地域内自給が望まれます。必要なものが自前で調達できれば、国際価格にふりまわされることはありません。これ以上の安心は、ありません。
地域内自給が大切だ、とはいっても、個人でやれることには、限界があります。こんなことを言っているわたし自身でさえ、いまだに、あれこれと多くのものを買って、消費して生活しています。しかし、多くの人たちが自給の大切さに気がついて、できる範囲で、たとえば、家庭菜園をはじめるのでもいいですし、水やエネルギーの節約をするのでもいいですし、そういう、ちょっとでも自給の方向に向けた動きをとりはじめることができるとしたら、それは、社会の大きな変化のはじまりになるかもしれない、と思うのです。

寝言のようなことと思われているかもしれませんが、あきらめないで、しつこく言い続けていこう、と思っています。読んでいただいて、ありがとうございました。

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槌田敦「エントロピー論から見た農業」「エントロピー農学のすすめ」(「at」第6号、第9号)

「エントロピー」という概念があります。わたし流の理解のし方ですと、熱エネルギーの拡散の度合い、と言っていいのではないか、と思っています。熱い物と冷たい物が触れ合っていると、熱が拡散して、どちらも同じぐらいの温度になっていきます。熱いところと冷たいところがかたよってある状態が、エントロピーが低い状態で、全体が同じような温度になった状態が、エントロピーが高い状態、ということになります。
エントロピーは、低い常態から高い状態に変化して安定する、というのが法則ですが、生き物は、エントロピーが低い状態を維持しています。生き物は、エントロピーの低いエネルギー源をとり入れて、活動によって生じた、エントロピーの高い廃物や廃熱を捨てることによって、これを可能にしています。この低エントロピーを維持するやり方は、一個の生物の中だけではなくて、人間社会についても、地球全体についても、同じような働きがある、と言えます。
生物、社会、地球という、レベルの違う対象を、「エントロピー」という概念を導入することによって、同列に扱うことができるようになります。

今回、わたしが読んだのは、槌田敦さんによる、雑誌に掲載された2つの論文です。槌田敦さんといえば、「CO2地球温暖化説」を批判していることで有名ですが、最初の論文のはじまってすぐのところでも、「間もなく地球は寒冷化する」と、かましてくれます。地球は、3300年ほど前から、寒冷期と温暖期を繰り返して、温暖期はだんだん短く、寒冷期はだんだん長くなっていて、今は一時的な「温暖化」が問題になっているけれども、それよりはるかに深刻なのは、そのあとにやってくる寒冷化だ、というのです。食料を生産しにくい寒冷期が来たときに、食料を自給できない民族・国家は、はたして生き残れるのでしょうか。

自然の熱や物質の循環を説明するのに、槌田さんは、海の生物の存続条件から説きはじめます。わたしなど、海には、どこにでも魚やプランクトンなどの生き物がいるのだろうと、勝手に思い込んでいましたが、海の多くの場所は、生物のいない「砂漠」のようなところなのだそうです。海流の影響で、低エントロピーの栄養素が豊富な場所だけで、海の生き物が生存できるようになります。
地上でも同じで、栄養素のあるところに、生き物は生存し続けることができます。ただ、常識的に考えれば、重力によって、栄養素は高いところから低いところに流れてきて、最後は海に流れていって、地上の栄養素はとぼしくなっていくと思われます。ところが、生き物たちが循環する自然には、じつは、重力に逆らって、栄養素を運ぶ「運び屋」がいたのです。それが、海鳥であり、鮭です。鮭については、次のように言っています。

 鮭は北半球に多いが、南半球には少ない。その結果、北には森林が深いが、南には森林はまばらという違いを生ずることになる。
 このような森林の外でえさを得て、栄養素を森林に運び込む動物がいなかったら、森林は維持できない。北海道の森林を維持してきた鮭を、人間は海上の定置網で取り除き、陸地に遡らせないので、北海道の森林はどんどん痩せている。

ダムをつくるのも、鮭をさかのぼれないようにする原因でしょう。北海道の人工的な森林は、見なれていますが、開発が進む前の自然が豊かだった森林を想像すると、今とはまったく違った光景だったのだろうと思われます。

海鳥の糞や、川をさかのぼっていった鮭が動物に食べらる、その動物の糞で森が育ち、水の流れとともに、流域の土地を肥やし、海に流れ込んでは、海の生き物を育てる。そういう循環をしています。槌田さんは、かつてあった干鰯(「ほしか」、煮干の肥料)を高く評価し、復活を望んでいます。畑も、低エントロピーの栄養素をとり入れて、不要な物質を捨てる、という循環によって、維持・存続されているのです。
江戸時代、武蔵野台地には木が生えていませんでしたが、江戸の人びとの糞尿が注がれた結果、雑草や虫が発生して、ムクドリが繁殖して、その糞によって種が運ばれて、武蔵野台地は雑木林になっていった、とあります。この雑木林から、江戸は薪炭を得ていたそうです。人糞を利用しなかったヨーロッパでは、森林が育つよりも速く燃料用に森林が伐採されていきましたが、そのために砂漠化をまねいたのとは、対照的です。

人糞尿は肥料にすべし、とうのが、槌田さんの主張です。水洗便所が発達した現代では、糞尿は池に流し込んで、鯉や浮き草を育てて、それらを干鰯や堆肥にして、畑の肥料に使えばいい、と提案しています。北海道のような寒冷地ではむずかしいので、コンポストトイレのような形になるかもしれません。
人糞尿は、肥料にするとして、では、生ごみはどうしましょうか?

 地方都市、または巨大都市でも周辺ならば、動物の食べ残しと同じように、山奥に運んで他の野生動物のえさにすればよい。これを食べた動物の糞により山は豊かになるから、猪や猿は山奥での生活ができるようになる。増え過ぎて人里に現れることになれば人間との住み分けのため処分して食べればよい。

……のだそうです。
栄養素の大きな循環を考える、というところがポイントです。自然を豊かにするには、海からの栄養素の還元を促進する必要があります。自然が、生き物たちが、いきいきと生きて、物質が循環すれば、そのような環境は、人間にとっても、豊かで過ごしやすいものであるに違いないでしょう。外国の地下資源に依存した農業など、いつまでも続けられるものではありません。

これからの農業は、自給的な小規模農業になったほうがいいと、わたしは考えていますが、槌田さんも、失業が増えている問題にからめて、次のように言っています。

 これからの農業は、科学技術による大量生産の農業ではなく、可能な限り人力を使う農業に戻す。これにより過剰人口に対応することができる。生産性を高くして失業するよりは、多くの人達が働ける農業に戻すことが大切である。

昨今、燃料費が高くなって、漁業者も農業者も経営が苦しくなって、政府に補助を求めたりしています。肥料の価格も上昇しています。第一次産業軽視の政策を改めなければならないのは言うまでもありませんが、機械・農薬・物質的に循環しない肥料などに頼る農業からの脱却、根底的な発想の転換が求められると思います。槌田さんは、「大型機械や肥料や農薬という科学技術の使用に対して課税すればいい」(!)と提案します。こういう逆噴射的政策を実行してくれる政党って、あるんでしょうか。あったら、投票したいです。槌田さん、総理大臣になってください。

槌田敦「エントロピー論から見た農業 砂漠こそ基本的な自然である、という認識からの出発」(「at」第6号、太田出版)
槌田敦「エントロピー農学のすすめ 劣化した農業と農地の再生を目指して」(「at」第9号、太田出版)

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作物のまわりに草が多いと、虫による食害が少ない

去年まで家庭菜園として使っていた畑を、全部そのまま貸してもらっている畑です。Daizukusa

中央の2列は、大豆です。ポリマルチの外側は、草がたくさん生えています。ネキリムシの食害はありますが、概して、安定しています。

Cabbageoff キャベツが、大きくなってきました。不織布をとっても、特に成育には、変化がないようです。
草むらに虫は、いっぱいいるのですが、キャベツには、ほとんどついていません。同じ土で、通路の脇(草が少ない)に植えたキャベツには、多くの虫がついていて、葉に穴がたくさんあいていました。
周囲に草が多い畑のキャベツには、「天敵」が、その草にすんでいて、その、いわゆる「害虫」を調整してくれているのでしょう。草がなければ、「天敵」もすめません。草は、無駄ではないのです。

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自然農

わたしが住んでいる、同じ深川市の中で、耕作放棄された畑で、今年、自然農をはじめた、という方がいます。畑を見せてもらったのですが、文字どおりの「草生」栽培。草原をそのままにして、作物を植えるところだけ、くわでけずって、そこに種をおろす。その上に刈り草を薄くかけて、天然のマルチにする、というやり方です。肥料は、まったくやってないそうです。
2年前に、山の中の耕作放棄地を開拓して、畑をつくっていった、自分の姿に重なるような気がして、なつかしいような、切ないような、奇妙な気分になりました。ただ、その方の場合、わたしがやった畑仕事とは、くらべものにならないほどに、繊細で、ていねいで、美しい畑になっていました。「自然農の原点が、ここにある」と、思いました。ぜひ、初心を大切に、忘れないで、続けていってほしいと思いました。

以前、このブログで、「低栄養成長」という題で記事を書きましたが、西村和雄さんが紹介する、滋賀県の水稲農家や、「奇蹟のりんご」の木村秋則さんみたいに、無肥料・低肥料での栽培は、安定した収量が得られるまで、時間がかかるのは当たり前、と思っていたほうがいいです。あせりは禁物です。畑が借り物の人は、自家採種した種と、経験の蓄積が、財産です。
それと、理解のない人が言う言葉は、さらりと聞き流せる、心の、ある種の「タフさ」が必要です。いやなことを言う人がいたとしても、それらのいやな言葉は、どれも音波にすぎないんです、みたいなことを、アルボムッレ・スマナサーラさんが、どこかで言っていました。そうそう、音波、音波……って、わたし自身、よく自分に言い聞かせています。

【関連記事】
自然農、再訪

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虫を殺すココロ

「元水田畑」は、去年まで田んぼだったので、その土の中には、ミミズをはじめ、畑の虫は、心配になるほど、まったくいません。地上には、羽のある虫やクモなんかがいますが。「住宅地の中の空き地畑」は、盛り土は、よその田んぼから持ってきたものなので、ミミズなどは少ないですが、周囲に草むらなどがあるので、そこそこ虫たちがいます。「家庭菜園引き継ぎ畑」は、3つある畑の中では、一番、虫が多いです。それでも、去年まで使っていた山の畑に比べると、さびしいものですが。でも、カやアブのような、刺す虫が少ないのは、作業をするには、ありがたいです。

「家庭菜園引き継ぎ畑」で、スズマル大豆が発芽しました。

Suzumarume 関西の人たちは、あまり納豆を食べないようですが、わたしはすきで、よく納豆を食べます。納豆に使われることが多い、小粒の大豆が、このスズマルです。この豆で納豆をつくってもいいですし、豆もやしにしてもいいのではないか、と思って、育てています。
お店で売られている納豆では、毎度お世話になっているスズマルですが、芽を見たのは、今回が初めてです。葉が薄くて、色が明るい感じです。垢抜けていて、ちょっときゃしゃなようでいて、それでいて、野生のしなやかさをどこかにかくしているような、「個性」を感じさせる芽です。

スズマルは、3粒ずつ、種をまきました。1本芽を出したもの、2本芽を出したもの、3本芽を出したもの、あるいは、まったく芽を出さないものなど、いろいろあります。まったく芽が出ていないポリマルチの穴をよく見ると、芽が出たらしいのだけれど、地上部がとられたような穴がいくつもありました。こういう穴の土を掘ってみると、必ず、コロッと太った虫が出てきます。豆の芽は、この虫に食べられたに違いありません。わたしは、この虫を、見つけ次第につぶして殺します。手でつぶすのは気持ち悪いので、足で踏みます。靴の底を通して、虫の体の皮が破裂して、中のドロッとした液が、ブチュッと出てくる感触が、伝わってきます。

わたしは仏教徒ですが、仏教には「不殺生戒」というのがあって、「生き物を殺してはいけない」と言います。しかし、この「不殺生戒」というのは、やっかいなもので、わたしたちは、生き物を食べている以上、これを厳密に適用すると、わたしたちは生きていけなくなってしまいます。
川口由一さんは、むさぼりの心から殺すのは避けなければならないが、自分の命を生きるためならば、迷わずに殺しなさい、という意味のことをおっしゃっています(鏡山悦子『いのちの営み 田畑の営み』)。個人レベルでは、これが正しい生き方なのでしょう。

虫にも、鳥にも食べてもらって、その残りもので生きていくことができれば、それがいいのです。ただし、他人が食べるものをつくるために、そのために生産性をあげなくてはいけなくなって、虫を殺しまくるようになったら、それは明らかに、「むさぼり」です。まして、自分では、虫はおろか、土にさえ触らないで、豆だけ食べているような人たちは、「むさぼり」の極致です。
不殺生戒が、効率よく農薬で虫を殺させて、できた野菜を食べるところだけで、命の循環に参加している、わたしたちの「むさぼり」に気づくための、きっかけになればいい、と思います。

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間引きと感傷

ニンジンが発芽していました。ニンジンの種まきでは、わたしは覆土をしませんでした。今年は、3カ所の畑を借りているのですが、その3カ所に毎日行けるとは限りません。ニンジンは、発芽の時期の乾燥に弱いので、土の乾き具合を確認しに行きにくい状況で、育つかどうか心配だったのですが、このところ雨がちだったのと、不織布でおおっていたのがよかったのか、予想以上に芽が出ていました。Ninjinhatsuga
芽が出ていないところには、重ねて、予備の種をまきました。込み合っているところは、間引きました。ニンジンは、こうやって、種を厚めにまいて、丈夫そうな株を残して、成長に応じて間引いていくのが、一般的な育て方です。
込み合っているところでは、どちらも丈夫そうなのだけれど、どちらかを間引かなくてはいけない、ということが、よくあります。たまたま生える場所が、ほかの株との位置関係から、生き続けることに不利になることがあるのです。かわいそうだなあと、わたしは思います。

同じような、選ぶことがためらわれる場合は、ほかにもあります。作物の、植える種は、重くて大きい、しっかりしたものを選別することが一般的ですが、わたしは、ほとんど選んだことがありません。食用にしている種を、そのまま植えることが多いです。せいぜい、唐箕の一番口から出てきた重い粒を種にして、二番口から出てきた軽い粒を、食用にするぐらいです。
豆類は、種を3粒植えて、3つとも発芽したら、そのうち1本を間引いて、2本立てにすることが多いですが、それなら、最初から2粒植えればいいじゃないか、と思ってしまいます。トウモロコシ類でしたら、2粒植えて、1本立てにするのが多いでしょうか。受粉しにくい環境では、2本立てで育てる人もいますが。

あと、ジャガイモやトマトの「芽かき」とかもそうです。せっかく芽が出てきたのだから、みんな生かしてやればいいのにと、つい思ってしまいます。ジャガイモは、実をならせても意味がないので、花は、摘みとってしまうことがありますが、あれも、かわいそうです。
わたしは、自給がメインなので、多少見てくれが悪くても、かまわないのですが、出荷がメインの農家では、一定の基準で均質的に生産できないと、流通に乗らないので、非常に気をつかい、基準に外れる、いわゆる「外品」を捨てることは、少なくありません。

選別・競争があるから、生産物の品質がよくなるのだ、といった議論は、理解できるのですが、選別・競争で負けて、捨てられる野菜たちに、つい自分の姿を重ねて見てしまうのでしょうか。十分に食べられるのに、もったいない、もっと、おおらかになれないものかなー、と思ってしまうのです。
家畜を飼っていれば、えさにする、という手もありますが、わたしは家畜を飼っていないので、それもできません。せいぜい、自分が頑張って、たくさん食べるぐらいのものです。生の野菜では売れなくても、加工すれば、「きず」にならないものは、いっぱいあります。

選別・競争のために、多大な資源・労力が浪費されています。家族単位の食料自給という考え方が普及すれば、農業生産や流通のやり方も、大きく変わってきて、無駄がなくなっていくだろうと思われます。

Amame これは、亜麻の芽です。このへんは、込み合ってますから、いずれは、間引かなくてはいけなくなるでしょう。もっと、薄くまけばよかったのですけど、つい厚くまいてしまうのです、いつも。矛盾していると思います、自分ながら。

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素人寄り

きょうの畑作業は、まず、タマネギでてこずりました。プラグで育苗していた「札幌黄」種が、死にかけてしまったのです。Shinikake あわてて畑に炭カルとボカシ肥をまいて、くわで耕して、移植しました。そもそも、タマネギの育苗をプラグでするのが、間違っているのだと思います。苗で買って、畑に移植してあった、品種不明のタマネギも、しおれたり、ちぎれたりして、死にかけていました。こちらもあわててボカシ肥を追肥したり、「追炭カル」したりしました。計画性のない、粗雑な仕事をしていると思います。そもそも、タマネギのような手のかかる作物を扱うこと自体が、「わたしのやり方」から外れている、とも言えそうです。

わたしが栽培している作物は、栽培にあたって、特別な技術を必要としないで、その作物の生命力にたよれば、誰にでも育てられるようなものが多いです。玄人(プロ)の栽培人が、身につけた「特別の栽培法」を売り物にするのに対して、素人(アマチュア)は、誰でもできるような、特別の技術を必要としない方法で栽培します。わたしは、自分は、素人寄りの栽培をしているのだと思っています。
玄人(プロ)への道は、険しいものがあります。極端なことを言うようですが、栽培者は素人でいいのではないでしょうか。つくりやすいものをつくるのが、自然なことなのであって、つくりにくいけれども高く売れるものをつくろうとする玄人(プロ)の発想は、人の生き方として、不自然なのではないでしょうか。
わたしは、あえて、これからも、素人(アマチュア)的でいたいと思います。

タマネギの次には、陸稲にかかわりました。ポリマルチの穴に植えたのですが、半分ぐらいの穴には、苗が全く成長していませんでした。Okabome 芽出しをしてから植えればよかったなあ、というのが、反省したことです。
何日か前に、朝方、続けて、気温が、0℃近くまでさがったことがありましたが、苗が寒さにやられなかったことを思うと、陸稲は、寒さには強いのかもしれません。
この陸稲を育てることになったのは、じつは、去年、偶然、ある方から、この作物の種をいただいたのが、きっかけでした。種をくださった方も、陸稲の栽培については、「5月上旬にまけば、芽が出てくるよ」ぐらいの知識しか持っていないようでした。この種を絶やさないようにしながら、わたしが栽培法をさぐっていかなくてはなりません。

タマネギは、つくりにくい作物ですが、逆に、今、わたしが育てている作物の中で、丈夫なものは、春まき小麦Haruhatsuga と、キクイモです。種や種芋を土の中に埋めたほかには、これといったことをしたことがありませんが、今のところ、順調に育っています。このような丈夫な作物が、わたしのような「素人的な栽培者」を、支えてくれるのだと思います。Kikuimohatsuga

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新規就農 失敗

「新規就農 失敗」で検索して、このブログに来る人が、あいかわらず多いです。はっきり言って、失敗しています。このブログは、全体が失敗の記録みたいなものです。

わたしは、今やっている農業モドキをはじめるまえに、短大の「新規就農コース」というのを卒業しています。卒業する前に、「営農計画」というのを立てるのが、必須の課題になっています。わたしが立てたのは、うまくいって、年収 50万円ぐらいになる計画でした。月収ではありません。ふつうは、こんな「営農計画」を提出したら、卒業させてもらえないのですが、学校に残られても迷惑と思ったか、この必須科目に、最低ぎりぎりの及第点がついて、卒業させてもらえました。
学生時代は、授業料免除、家賃免除で、農業研修をしながら、いくらか生活費ももらえる制度があって、まあまあ、暮らせたのですが、卒業後は、何と言っても「うまくいって、年収 50万円」の計画ですし、最初から「うまくいく」わけありませんから、2年間、ほとんどただ働きで、生活費持ち出しの状態でした。多少は、単発のアルバイトもしましたが。

認定農業者制度というのがありまして、「認定農業者」というのにならないと、農地を買うことはもちろん、借りることもできません。認定農業者になるには、田畑の規模とか、売り上げ高とかで、一定の水準以上の成績をあげられる営農計画を農業委員会というところに提出しなくてはいけません。「うまくいって、年収 50万円」では、北海道では通用しません。
2年間、わたしに山の畑を使わせてくれていた地主さんは、わたしが認定農業者になって、その畑を買ってくれると期待していたのですが、わたしの農業のやり方では、とても認定農業者になれそうもないと、2年で見限ることになったわけです。
安ければ農地を買うかもしれない、と思って用意してあったたくわえも、この2年間で、ほとんど使ってしまいました。それでも、母と二人暮らしで、家賃の安い市営住宅にいるので、何とかやってこれたわけです。

それで、今年からは、農業は、自給する程度にとどめて、兼業で継続的にできる仕事をはじめようとしていたところが、別の地主さんと出会って、「ワン・モア・チャンス」をいただいて、出荷農家への道に引き戻されることになったのです。
自分のペースで、やりたいようにやれる限り、わたしにとって、農業ほど楽しい仕事はないので、先のことは考えないで、この地主さんの話に乗りました。やっているうちに、新しい展開があらわれるかもしれませんし。「先のことを考えない」というのは、生き延びる知恵かもしれないと、今は思っています。

他の農業者に雇われて、農業の仕事をする人たちは、おおぜいいて、能力がある人は、それでしっかりと稼いでいます。また、いつか独立することを夢見ながら、当面は農業労働者としてやっていく、という道もあって、そうしている人たちもいます。もちろん、農業以外の仕事をやりながら、家庭菜園程度の農業をやっている人たちも、おおぜいいます。
仕事や人の生き方について、最初から「こうでなければいけない」というイメージを強く持ってしまうと、苦しむことになります。臨機応変に、楽に生きていこうと思っています。

というわけで、「新規就農の成功のし方」については、聞かれても分かりません。あしからず、です。

【追記】
その後に書いた記事です↓。
「新規就農を考えている方へ」

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自転車通勤

今年は、3カ所、畑を借りています。そのうち2カ所は、自宅から自転車で通える距離にあります。わたしは、重いものを運ぶ必要がないときは、いつも自転車で通っています。くわを自転車のかごに入れて、自宅と畑を行き来しています。職住接近、というやつです。去年まで、山間の畑に自動車で通っていたのに比べれば、すばらしく、ガソリンの節約になります。
ワゴン車は処分して、今は、軽トラ1台を所有しています。いろいろあって、自動車なしの生活にまでは、踏み込めないでいます。しかし、去年の10月からの半年間、1度も給油していません。たいしたものでしょう? 歩いて行って済ませられる用は、歩いて行きます。雪や氷の上を歩くこつを覚えました。すべって転ぶようなことはなくなりました。雪がとけてからは、自転車を使うようになりました。

野生の鳥やけものたちがひょっこり顔を見せる山間の畑もいいのですが、自動車で毎日通うのは、ちょっとつらいかな、と思います。山間に住んでしまえばいいのですが、なかなか人間、思うようにはいきません。
街中の畑は、自動車の音や、人の声がひっきりなしに聞こえますが、それはすぐに慣れると思います。東京に長く住んでいたのですから、それに比べれば、まだまだ静かほうです。それよりも、今回、自動車の使用を抑えられるようになったのが、うれしいです。

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有機性廃棄物の利用法

「自然農あぐりーもの菜時記」さんの「愛知県では」という記事で、愛知県の農政が化学肥料や農薬を減らす方向に動いている、という新聞記事が紹介されていて、そこにわたしが、本筋とはちょっとずれた、酪農・畜産農家で家畜の糞尿がたまって、処理しきれないでいることについて、あまりよく知らないのに、「肥料にして畑に入れるぐらいしかないのでは?」みたいなコメントをつけたところ、耕作人さんに「ほかにも有効な利用法があるのでは?」と返されました。そこで、ネット検索して調べていましたら、「EICネット」というサイトのある「バイオガス」についての記事が参考になりました。引用します。

再生可能エネルギーであるバイオマスのひとつで、有機性廃棄物(生ゴミ等)や家畜の糞尿などを発酵させて得られる可燃性ガス。
主な成分はメタン(CH4)が60~70%、二酸化炭素(CO2)が30~40%、その他微量の窒素(N)や酸素(O)、硫化水素(H2S)及び水(H2O)等を含む。
このようなガスの熱源利用は、南アジアや中国で古くから行われている。一方、欧州の酪農国では1980年代末から家畜糞尿の処理を主たる目的として取り組まれてきた(中略)。
(中略)なお、発酵処理後に残る消化液は、液肥と呼ばれる良質な有機肥料として農場に還元される。

家畜の糞尿に限らず、人間の糞尿もそうですし、家庭から出る生ごみや、食品加工で出る廃棄物なども、ただ捨てる(埋め立てる)だけでは、発酵してメタンガスが出る「だけ」ですが(本当は、「だけ」ではなくて、捨てた土地にあった自然をつぶしますし、周囲の地下水を汚染するという悪さもします)、そのメタンガスを燃料に使えれば、有益なわけです。しかしそれでも、メタンガスを利用したあとの「かす」や「液」は残るわけで、これらの利用法はないのか?と思うのです。
そう思って、検索を続けていたら、宮崎市のサイト
に、「活性汚泥から乾燥肥料へ」という記事がありました。これも、下水中の有機物(無機物を含む)を処理したあとの、廃棄物の利用方法を示しています。引用します。

下水を処理した後の活性汚泥も資源として有効利用できるものであり、宮崎処理場では、この発生した汚泥を濃縮し消化させた後に脱水し、その後約800℃の熱風により乾燥処理させることで、衛生的で使いやすい顆粒状の肥料として、昭和56年から販売しています。この乾燥肥料は、肥料取締法に基づいた農林水産省からの登録認定を受けた下水汚泥肥料種の乾燥肥料となります。毎年約9万袋の売り上げ実績があり、これまでたくさんの農家の方や市民の方々に好評を得ています。

やはり、処理して肥料として畑に入れる、という使い方が、穏当なのでしょうか。肥料にすれば、やがて作物へと、物質は循環していきます。肥料100%のままを捨てたら(埋め立てたら)、環境汚染が懸念されますから、それより畑に入れたほうがいい、ということになるのでしょう。
宮崎市のサイトには、この乾燥肥料の成分が載っています。窒素 4.7、リン 5.2、カリ 0.5未満だそうで、世界のリン鉱石枯渇後のリン資源として、有効利用できるのではないかと思います。しかし、リン鉱石が枯渇したときには、糞尿や生ごみの元の、家畜の飼料や人間の食料が、そもそも生産できなくなるわけで、特に、それらを圧倒的に輸入に頼っている日本としては、廃有機物の有効利用技術以前の、糞尿を出そうにも、元になる食うものがなくなる、という根本的な問題にぶち当たるのでした。
ちなみに、この宮崎市の乾燥肥料は、1袋(15kg入)で50円だそうです。

次の記事は、下水汚泥から造られた肥料から、許容基準を超えた水銀が発見された、というものです。
鹿西町中部浄化センターの下水汚泥肥料、家庭菜園に使われた事例が判明

 石川県の鹿西(ろくせい)町中部浄化センターが生産している下水汚泥肥料「グリーン・エース」の中から許容基準を大幅に超える水銀が検出された件で、この肥料が街路樹や山林のほかに家庭菜園で使われているケースがあることが新たにわかり、鹿西町から農林水産省に平成15年5月21日付けで報告があった。
 農林水産省は当初「この肥料は食用農作物には使われていないので、ただちに人の健康を害することは考えられない」との見解を示していたが、報告に基づき発表を訂正。
 また鹿西町はこれまで家庭菜園で使ったことがわかっている10名に対し、出来た農作物を食用にしないよう連絡を行なうとした。
 この件では独立行政法人肥飼料検査所が鹿西町中部浄化センターに下水汚泥肥料の出荷停止と出荷した製品の回収を要請したほか、農林水産省も鹿西町中部浄化センターに水銀が許容基準を超えた原因の究明と下水汚泥肥料が使われた地域の土壌調査を要請している。【農林水産省】

肥料としての安全性に対する不安、というのがあります。この記事のように、水銀などの、危険な重金属が含まれていることがあります。家畜の糞尿を元に造った肥料は、家畜の飼料は、ほとんど輸入の遺伝子組み換え作物ですし、飼育の際に、ホルモン剤や抗生物質などの薬剤が使われることも多いですから、それらが畑の作物や自然環境にどのような影響を与えるかが分かっていないので、不安です。
それから、これは、このような有機系の肥料だけではなくて、化学肥料にも言えることなのですが、肥料を多用すると、虫や病気による害を受けやすくなりますし、硝酸態窒素が蓄積して、味の悪い、健康によくない野菜になります。畑の表面に刈り草を積み重ねていって、時間をかけて少しずつ土にしていく、いわゆる草生栽培の方法をおこなって、どうしても必要な場合以外は、肥料はなるべ使わないほうがいい、という考え方もあるのです。

愛知県建設部下水道課のサイトにも、下水の汚泥を利用して乾燥肥料をつくっている記事が出ています。愛知県の乾燥肥料は、無料で配布しているそうです。
愛知県の仕事でユニークなのは、下水汚泥を焼却して、その灰を利用して、レンガやブロック、タイル、セメントなどの、建築資材・原料を造っているところです。人間の糞尿で家が建つなんて、すてきすぎです、皮肉でも何でもなく。そんな資材で建てた家があって、家賃が安かったら、即、入居したいです。ただ、下水汚泥を焼却するのに、かなり燃料を使うのではないかと思うのですが、そのへんは、どうなのでしょうね。心配しはじめると、きりがないです。

【追記】
もう少し検索して調べていたら、北海道農政部が運営するサイトに、わたしの農学の「師」である、故・相馬暁先生の、とんでもない「レポート」を見つけてしまいました。「宮崎県はクソまみれで、イエローゾーン」なんて、よそのこと、そんな悪く言っていいんかい。そっち方面がおすきな方、お食事時でない方、よろしかったら、どうぞ。↓
北海道の農耕地における物質循環の現状と畜産リサイクルの課題

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去勢

【ご注意】今回の記事は、畜産の現場で経験したことを扱っています。人によっては、不快に感じられる表現があるかもしれませんことを、あらかじめ、お断りしておきます。過敏な方は、お食事前には、読むのをさけたほうが無難かもしれません。

もう、一昨年のことになってしまいましたが、わたしは、冬の間、ある畜産農家でアルバイトをしていたことがありました。そこでは肉牛を飼育していて、えさやりと、糞尿の片づけが、おもな仕事でした。ここで、去勢の仕事を手伝うことがありました。去勢というのは、肉の食味をよくしたり、従順な性格にして扱いやすくするために、オスの睾丸を抜きとることです。わたしは、えさやりや糞尿の片づけの仕事に慣れてから、去勢の手伝いをやったので、「こんなものなのかなあ」ぐらいですんだのですが、別のあるアルバイトの人は、運悪く初日に去勢の手伝いをやらされて、昼の弁当が食べられなくなった上に、そこでのアルバイトも、その日一日だけでやめてしまったそうです。
畜産の仕事をする上では、去勢はやらないわけにはいかないので、これは、慣れるしかありません。慣れると言えば、去勢以外では、何百頭も飼っていると、しばしば途中で死ぬ家畜が出てくるので、死体にも慣れないといけませんし、最後はみんな肉になるので、いやがる牛をトラックに載せて出荷するのにも、慣れなくてはいけません。ほかに注意することは、牛は大きくて重いので、押しつぶされないように注意することと、角で突かれないように注意することぐらいでしょうか。牛のほうに悪気はなくても、事故は起こることがあります。冗談でなく。

去勢はどのようにやるかというと、まず、牛をうまく誘導して、身動きができないほどに狭い鉄枠に閉じ込めます。動けなくしたあとで、メスで陰嚢を切って、睾丸を引っ張って、手でちぎりとります。麻酔はしませんでした。切ったあとを縫ったりもしませんでした。それでいて出血は、ほとんどありませんでした。最後は、傷口に消毒液を吹きかけて、終わりです。このへんの作業は、慣れた人がやって、わたしは、牛を動けないように拘束したり、バケツで、ちぎりとられた睾丸を受けとったりする仕事をしました。一日に何頭も去勢するので、バケツには睾丸が、どんどんとたまっていきます。
牛は、切られる直前までは、あばれて抵抗しますが、睾丸をとられてしまうと、あきらめるのか、急に静かになります。表情や動きから想像するに、切られること自体が痛いのではないようで、いやなことをされることに対する抵抗と、されてしまったことによるあきらめの気持ちがあるようです。鉄枠から解放されても、わたしたちを恨んで反撃したりは、しません。
バケツにたまった睾丸は、地面に置いた洗面器にあけて、そのまま生で、農場の飼い犬に食べさせていました。ナマコみたいな、軟らかいのだけれど、芯がある感じで、犬が食べている音から、コリコリとした触感が伝わってくるようでした。「田中くん、持って帰って、食べる?」と言われましたが、遠慮しました。

牧畜民には、去勢は身近な技術で、家畜にはもちろん、人間自身に対しても、おこなわれてきました。文化史としてよく知られているところでは、カトリック教会のカストラート(男性去勢歌手)や、中国の宦官(後宮に仕えた去勢男子)があります。ヨーロッパや中国などの牧畜民は、牧畜の発想を、人間社会にも適用する(人間を家畜視する)ことを、当たり前におこなってきました。キリスト教思想や儒教思想などの家父長的な社会文化が発達したのも、牧畜に由来するものです。人口抑制策(断種・避妊手術)などというものも、牧畜民的発想がよくあらわれた政策で、森林の民、稲作の民、漁労の民には、なじまないものです。
アメリカに戦争で負けてから、日本人も肉を食べるように仕向けられてきました(学校給食など)が、今でも畜産・酪農の飼料はほとんどが輸入に頼っていますし、畜産・酪農の農場の糞尿の処理は、きちんとできているとは言えず、元素の流れを高所から見れば、輸入した窒素が日本国内にたまり続けていることになります。物質がうまく循環するようにはできていないので、畜産・酪農は、食料生産のシステムとして、まだ日本になじんでいない、と言えると思います。どんなに牛丼やハンバーガーなどで肉を売り込んだとしても、森林と、田んぼと、海の資源をいかして生きてきた日本人の民族性は、そう簡単にかわるものではない、と思います。

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人口抑制策批判 その1

前回、プランテーションの問題を扱ったときに、資料を見る前の予想としては、プランテーションがあるから食料自給がさまたげられて、飢餓が発生するのだ、ということがあらわれると思っていたのですが、実際は、プランテーションよりも、戦争のほうが、圧倒的に飢餓に影響を与えていることが分かりました。飢餓をなくすには、戦争をやめさせることが一番いい、という結論。もちろん、プランテーションのある国ぐにが、国内に飢餓をかかえながら食料を輸出している、いわゆる「飢餓輸出」であることも分かりましたので、やはり、プランテーションが問題であることには、かわりありません。

きょうは、人口抑制策を批判してみようと思います。
じつは、「雑草の言葉」さんのサイトのコメント欄で、サイトの主の雑草Zさんと議論になっていた(「グローバルな視点話さなければならないか?
)のですが、打ち切りにされてしまったような感じなので、自分のサイトで考え直してみよう、と思ったのでした。
素人が、たいして資料もない状態で考えたことですので、間違いが多いと思います。ぜんぜん学問的ではありません。そのつもりで見てください。コメ
ントをもらえますと、さらに考え続けるきっかけになりますので、よろしくお願いします。

「環境問題の切り札は人口抑制策だ」というスローガンがよく聞かれます。人口が爆発的に増加していて、食料が足りない、エネルギー資源が足りない、自然が破壊される、ということで、人口を抑制して危機を乗り切ろう、というような主張です。わたしは、この主張に、ものすごい傲慢さを感じないではいられません。アメリカ・ヨーロッパ・日本などの、増えるだけ増えて、人口安定期に入っている高開発国が、中国・インド・ブラジルなどの、これから増えて発展しようとしている低開発国に向って、「おまえら、人口を減らせ」と言っているようなものだからです。
人口抑制策は、低開発国の、特に底辺層をターゲットにして実施されます。豊かな人たちは、子どもが少なければ、少
ない子どもにより多くのお金をかけて育てることができる、と発想します。しかし、底辺層では、子どもが生活を支えてくれる、と考えられます。また、生活環境の悪さから、成長する途中で死んでしまう子どもが多いので、多く産んでおきたい、という気持ちが発生します。
高開発国の発想では、人口抑制策は、自発的に受入れられやすいですが、低開発国では、人びとの抵抗が発生します。
勢い、人口抑制策の実施方法が、強制的・暴力的にならざるを得ません。ウェブ上の記事を、いくつか拾ってみました

まずこれ。『もうひとつの戦争 インドの人口政策と女性たち』というインド映画の紹介記事です。
(以下、引用は、無作法で申し訳な
いのですが、少しはしょりながらおこないます。全文は、それぞれのリンク先から読んでください。)

稲垣早穂「インドの人口政策に思う。経口避妊ピルは、不妊手術より「ちょっとだけ」マシ

不妊手術3100万件、IUD2500万件、その他の方法1450万件。これ、インドの人口抑制政策の目標件数(1985年~1990年)です。
 ドキュメンタリー作品『もうひとつの戦争』によると、1977年までに650万人の男性がパイプカット手術を強いられ
、そのために当時の首相は選挙で大敗、人口政策のターゲットは女性に移りました。
 ビデオの中で、ある開業医は語ります。現在では、腹腔鏡を用いた方法で、不妊手術が1人あたり45秒でできるよう
になった。1日200件だってできる。私はこれまでに31万回行った。
 手術室の端で、女性たちは列をなし、手術の順番を待っています。部分麻酔で、それすらじゅうぶんに効いていない
のか、悲鳴をあげる女性も(多少痛くても45秒間だし、という理屈なのか)。術後は床にごろごろと並べられて休息、約1時間ほどで家に帰れる、のだそうです。
 当然のことながら死亡例もあるという不妊手術ですが、手術と引き換えに食料が配給されたり、土地や井戸を得られ
ることもあるため、むしろ積極的に妻を送り出す夫も少なくないようです。
皮下埋め込み式のノルプラント(※)は避妊効果が5年間持続し、注射法(デポ・プロベラ)も3ヶ月間有効です。そ
して現在、「避妊ワクチン」とやらを開発中、とのこと。
(※)ノルプラントも、デポ・プロベラも、日本では認可されていません。アメリカで開発され、強い副作用のために
自国では承認が得られなかったうちから途上国に輸出されていたという、いわくつきの代物。
 こうした避妊法、私はどうも、歓迎できないんですよね。いくら避妊効果が高いとか経済的とか言われても、やりき
れない。副作用の心配だけじゃありません。
 なぜ女性の身体ばかりがあちこちいじくられ、なぜ女性ばかりが薬剤を投与されるのか。どう考えても不均衡だもの
。女性の地位が低い国ほど、女性は犠牲を強いられているようにも思える。

インドでは、女性の地位が低いですから、こういうときに犠牲になるのは女性になります。「人口を抑制しろ!」と口にする人たちは、こういう痛みに目を向けようとしません。インドの貧乏な女たちの痛みよりも、自分たちの将来の食べもの・エネルギー・生活環境の確保のほうが大切なのです。
対象となる人の人数が膨大ですから、早く・安く・効果のある人口抑制策がとられることになります。

次は、中国の場合です。中国は、「一人っ子政策」という人口抑制策を積極的に実施して、抑制を達成させています。
東京新聞からの引用です。リンク先の東京新聞は、リンクが切れています。

東京新聞:強引人口抑制策で暴動 中国農村ルポ 罰金払えぬと略奪 不妊手術を強要

年収を上回る罰金を徴収され、当局が発行した領収書を次々に記者に見せる民衆=24日、博白県で(平岩勇司撮影)
【博白(中国広西チワン族自治区)=平岩勇司】強引な人口抑制策に対し、民衆が暴動を起こした中国広西チワン族自治区博白県の村の一つ、沙陂鎮を二十四日、取材した。暴動発生から五日が経過し、焼き打ちされた役場庁舎は立ち入り禁止に。表面上は平...

残念ながら、この先はコピーされていません。
ここで注目は、チワン族という、少数民族の自治区で暴動が起きている、ということです。少数民族は、多数民族に飲
み込まれて、消滅する恐怖を感じていると思います。多数民族による「人口を減らせ」という要求には、民族の誇りを傷つけられる思いがするのではないかと、想像します。
「年収を上回る罰金」というあたりに、きびしさを感じます。死ね、ってことですものね。

次の記事は、産経新聞からの引用です。上の東京新聞と同じ事件を扱っています。こちらのほうが、くわしいです。リンク先の産経新聞は、リンクが切れています。
女性をを拉致して、強制的に不妊手術を受けさせたり、罰金を払わない人からの略奪があることを伝えています。略奪
しているのは漢族中国人で、反発して暴動を起こしたのは、チワン族です。

中国、少数民族を強制連行避妊手術

不妊手術強制、法外な罰金 中国、一人っ子政策“暴走” 住民抗議、高まる緊張
 【北京=野口東秀】中国広西チワン族自治区の博白県などの農村各地で「一人っ子政策」により女性に不妊手術を強
制するなど地元政府の横暴に抗議して今月中旬から住民約3000人が役所を包囲したり、放火するなど緊張が高まっている。
 暴動の背景には「地元政府が一人っ子政策を実施するにあたり粗暴かつ勝手な(罰金の)徴収を行った」(新華社電
)ことが指摘されている。さらに博白県の県長談話として「一部民衆は計画出産活動を理解せずに反発している。多くの民衆は計画出産に対する概念と順法意識を欠いている。その一方で当局の出産計画活動にもいくつかの問題があった」と伝えた。
 当局側の拘束を恐れて広東省に逃れた20代後半の住民は産経新聞の電話取材に、当局者を含む数十人が死傷したと
の情報があると指摘。車数台、バイク十数台が炎上。他の県でも暴動参加者は延べ数万人にのぼり、武装警察部隊が民衆数千人を棒で殴打して回っていると打ち明けた。
 この住民によると、当局に臨時に雇用された数十人から100人以上の規模の取り締まりチームが鉄パイプを手にト
ラックで各戸を回り、連れ去った女性に不妊手術を強制的に受けさせていた。乱暴された女性もいた。一人っ子政策を破ったとして「男たちは2000元から1万元(1元約15円)の罰金を住民に支払わせていた」という。
 罰金の支払いに応じなければ「台所用品やテレビ、オートバイなど家財道具一式、牛や豚など家畜を持ち去る」のは
日常茶飯事で、「通学中の女子高生を連行し不妊手術を実施した」という情報さえある。博白県では上層部から「不妊手術1万7000件を実施しろ」「『社会扶養費』(出産計画への罰金)788万元を集めろ」と今年2月ごろから圧力をかけられ、数千人を動員し横暴な取り締まりを実施していたとも指摘されている。
(2007/05/23 23:47)

「一人っ子政策“暴走”」の見出しがありますが、すさまじい暴圧ぶりです。多くの異なる民族をかかえる大国の運営は、暴力的にならざるを得ないのでしょうか。ジェノサイドの乗りを感じます。こういう現場にいたら、いやおうなく、どちらかの陣営に引き込まれて、戦いに参加することになってしまうのでしょうか。

やはり少数民族の、ウイグル族への人口抑制策が、抵抗にあっている、という記事です。

さらなるウイグル族への出生抑制策、強制堕胎、不妊手術に発展の可能性も

1988年よりウイグル人はほとんどの中国の家族に一人の子供しか許さない、厳しい政策の例外として2人から3人の子供を持つことを限定されていた。人権団体はこのような政策は強圧的な人口抑制と往々にして貧困な医療条件のもとでの強制堕胎および不妊を導いたと言ってきた。
亡命したウイグル人活動家ラビヤ・カーディル(レビヤ・カディールRebiya Kadeer)さんは人口抑制政策はすでに新疆
において強化され、農村部の女性が特別な注意のために目をつけられるのか、疑問を呈した。
ウイグル人はすでに多数派たる漢族中国人の新疆ウイグル自治区への大規模移住政策および苛酷な政治的、文化的政策
によって疎外されつづけてきた、と彼女は述べた。
「これはウイグル人にとって極端に悪い知らせです。とくにウイグルの女性にとって。」カーディルさんはそう文書で
言明した。
800万人の人口を持ち、ウイグル人は新疆で最大の民族集団を構成している、しかし彼らはもはや完全な多数派ではな
い。最近のこの地域での資源およびインフラの発展は更なる漢族中国人の流入を招いてきた、首都ウルムチの増大する人口400万人の多くは漢族である。

漢族中国人とウイグル人の民族対立になっている例です。民族間の人口による圧力がとりざたされている中での、人口抑制策の強化は、強く政治性をおびてきます。こういう感覚は、日本人には分かりにくいです。

インドと中国の人口抑制策の実例を見てきました。どちらも、対象者の意思に反して、暴力的におこなわれる、という特徴があります。インドの女性は、泣いて、あきらめているようですが、中国の少数民族は、抵抗している、という違いはありますが。
さて、このような人口抑制策が、「人道」の名のもとにおこなわれることが、しばしばあります。飢餓で苦しんで死ぬ
よりも、生まれてくる人数を減らして、食料をより多く受けとれるようにしてやるほうが、当人たちにとっても幸せなことなのだ、という理屈です。この考え方は間違っていると、わたしは思います。概念図を描いてみました。

Yokusei

赤い部分が、栄養不足人口です。世界の総人口の12%(8億5000万人)ぐらい、あります。この「栄養不足」というのは、人が生きていくための必要栄養に不足する、ということで、いわば、餓死に向いつつある人たちのことです。
この栄養不足人口に相当する人数を、人口抑制策で減らせば、飢餓がなくなる(左図)、というのですが、そんなこと
はないと思います。まず、人口抑制策で人口が減らせる、というのが怪しいのですが、仮に、中国のような強制的人口抑制策が実施されて、栄養不足人口分の人口が減らせられたとしても、栄養不足人口がなくなるのではなくて、実施前の社会構成比が縮小されたような形(右図)にしかならないと思います。つまり、栄養不足人口は、なくならないのです。
人口抑制策で浮いた食料は、もっと上の、多くの食料を消費する層に吸収されて、贅沢や無駄となるだけだろうと予想
します。もし、それで吸収しきれないときは、食料生産量が抑えられることになるだろうと思います。そう考える理由は、栄養不足人口は、人口コントロール、および階層社会の秩序を維持するために、必要とされているからです。
食料増産と飢餓とによって、人口はコントロールされています。穀物は寡占されていて、その価格は、穀物メジャーの思うままに決められています。高くすれば、買える穀物が減りますから、餓死する人が増えます。穀物メジャーは、食料援助もしています。援助も含めて、すべてをコントロールしようとするのです。
人口は労働力として、消費者として、兵力として、必
要とされています。ですから、食料を過剰めに生産して、必要な人口が「生産」されています。多すぎる人口は、飢餓という形で調整されます。1年に900万人ぐらいの人が、餓死しています。コンビニエンス・ストアで、欠品を防ぐために、お弁当やおにぎりを過剰に仕入れて、一定量を廃棄しているのと同じです。この人口のコントロールのやり方をかえないかぎり、飢餓は必要とされ続けます。飢餓には経費がかかりませんから、なかなかやめられないようです
現在の食料生産量でも、配分のやり方をかえれば、地球上の飢餓をなくすことはできる、と計算されています。食べも
のは、余っています。日本でも、ヨーロッパでも、休耕に補助金を出しています。農産物の価格を安定させるためです。つくろうと思えば、今ある畑だけでも、もっと増産することもできます。それなのに、なぜ飢餓があるのでしょうか。それは、食料配分のかたよりが、社会的に必要とされているからです。
飢餓をなくしたいと考える人たちによって、食料配分のかたよりを是正しようとする試みがおこなわれてきました。しか
しそれらは、失敗し続けてきました。なぜでしょうか。富を集中して、都市を形成して、権力によって国を統治するためには、社会階層が必要だからです。多く働き、少なく受けとる、低い階層の人たちには、それ以下の栄養不足人口のようすを見せられることによって、「あれよりはましだ」となぐさめられ、「あのようにならないように」とはげまされます。栄養不足人口は、階層社会の秩序を維持するために、必要なのです。
『人口論』を書いたマルサスは、飢餓を「自然淘汰」だと言いました。つまりこれは、劣った個体が切り捨てられてい
く、という差別的な考え方です。飢餓は、階層社会の秩序を維持するために必要とされる、ということを傍証する考え方だと言えるでしょう。マルサスのこの発言は、飢餓の要因である「必ず食料の配分にかたよりを持たせる」ことについて、より少なく働いて、より多く受けとる、高い階層の人たちの罪悪感を、薄める役割りをはたしました。
飢餓は社会にとって必要であるために、再生産され続けてきました。ですから、社会のありようを、人間の意識を、
根底的にかえない限り、飢餓はなくなりません。人口抑制策を実施して、総人口が減ることがあったとしても、その人口の中で、また飢餓が形成されるでしょう。ですから、「人道」の名のもとに人口抑制策をおこなうのは、欺瞞です。現場の福祉職員がどんなに善意から活動したとしても、何度でも飢餓は再生産されることになります。

人口抑制策のおかしな点は、もう一つあります。もし建て前のとおり、食料が足りなくなるからとか、エネルギーが足りなくなるからとかいう理由で人口を減らすのであれば、たとえば、アメリカ人はインド人の20倍のエネルギーを消費していますから、インド人を減らすよりも、アメリカ人を減らしたほうが効率はいいのですが、絶対にそのような動きにはならないのです。人口の増加率が高いから、という理由で、低開発国がターゲットにされ、さらに、その中でも、底辺の階層にいる人たちがねらわれるのです。小さい国が、弱い民族が、貧しさや無知に付け込まれて、暴力的な人口抑制策の犠牲になって、体を傷つけれれ、命を落とす人も出てくるのです。つまり、人口抑制策は、国ぐにの強さの格差を広げる働きをします。
このような、しょうもない人間社会のあり方の問題に、解決策はあるのでしょうか。希望の光は見つかるのでしょうか。
そのあたりを、自給的社会の構想にからめて、「人口抑制策批判 その2」で、考えてみたいと思います。いつになるか分かりませんけど。とりあえず、きょうは、このへんで。

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プランテーション

きょうは、わたしが苦手な、数字を扱ってものを考えることを、ちょこっとやってみようと思います。

「プランテーション」というのは、「大土地所有に基づく単一作物企業農園」(「世界大百科事典」による定義)です。安い労働力をつかって、農産物を生産させて、輸出させる農業のスタイルです。プランテーションの最大の問題点は、そのような農業のスタイルが入ってくる前にあった、自然との調和のとれた、自給的な食料獲得の方法を持った、伝統的な生活様式を壊してしまったことです。プランテーションは、開発・開拓・拡大志向で、人間の生存の基盤となる自然を、回復しがたいまでに、壊してきてしまいました。

「ウィキペディア」の「プランテーション」の項に「プランテーション作物の輸出の割合が多い国」が5カ国あげられています。

エチオピア(コーヒー)
ケニア(茶、コーヒー)
セントビンセント・グレナディーン諸島(バナナ)
エクアドル(バナナ)
ガーナ(カカオ)

この5カ国に、それぞれの国の飢餓率を重ねてみますと、以下のようになります。飢餓率は、「WFP国連世界食糧計画」の「ハンガーマップによっています。

エチオピア(コーヒー) 飢餓率 35%以上
ケニア(茶、コーヒー) 飢餓率 35%以上
セントビンセント・グレナディーン諸島(バナナ)飢餓率のデータなし
エクアドル(バナナ) 飢餓率 5~20%
ガーナ(カカオ) 飢餓率 5~20%

食べものを輸出しながら、自国内に5~35%以上の飢餓をかかえています。こういう状態を「飢餓輸出」と言います。
こういう国ぐにでは、食料自給率も低いのではないかと想像して、データをさがしてみました。よく、「日本の食料自給率は39%だ」などと言うときの、カロリーベースの全食料の自給率の各国版がないかと思ったのですが、見つかりませんでした。そのかわりに、農水省の「世界各国の穀物自給率(2003年)」
というのがありました。これは、自国民に食べさせないで輸出にまわしたとしても、その国で生産された穀物でさえあれば、自給のほうにカウントされます。そのへんを頭に入れた上で、穀物自給率を、さきほどの表に加えますと、次のようになります。

エチオピア(コーヒー) 飢餓率 35%以上  穀物自給率 79%
ケニア(茶、コーヒー) 飢餓率 35%以上  穀物自給率 73%
セントビンセント・グレナディーン諸島(バナナ)   穀物自給率 3%
エクアドル(バナナ) 飢餓率 5~20%   穀物自給率 73%
ガーナ(カカオ) 飢餓率 5~20%   穀物自給率 77%

「セントビンセント・グレナディーン諸島」が3%と極端に低いですが、ここは小さな国ですし、また観光収入が多い国なので、特殊例と考えられます。
この農水省の「世界各国の穀物自給率(2003年)」によりますと、日本は28%だそうですから、それにくらべれば、各国とも、むしろ意外に高いのではないか、という印象を、わたしは持ちました。
いずれにしても、飢餓輸出状態であることにはかわりないわけで、「自給率」と言っても、「自給的」農業によって生産されたものではないであろうとは、想像されます。

さて次に、「ハンガーマップ」で赤く塗られている、飢餓率35%以上となっている24カ国の穀物自給率をまとめてみました。
数字が抜けている国があるのは、データがないからです。

アルメニア……39%
アフガニスタン
タジキスタン……78%
バングラデシュ……95%
モンゴル……45%
カンボジア……122%
シエラレオネ……39%
リベリア……22%
ニジェール……95%
中央アフリカ……82%
コンゴ……3%
ケニア……73%
エチオピア……79%
エリトリア……21%
ソマリア
ルワンダ……86%
ブルンジ……79%
タンザニア……80%
モザンビーク……70%
マダガスカル……86%
ジンバブエ……66%
ザンビア……73%
アンゴラ……26%
ハイチ……32%

アフガニスタン、バングラデシュ、リベリア、コンゴ、ソマリアが20%以下と極端に低いのは、戦争ないし政情不安定によるものと思われます。アフガニスタンは、干ばつの影響もあります。やはり、戦争は最悪です。
カンボジアの穀物自給率122%というのは、作物は稲でしょうし、米は輸出していないと思うのですが、それなのに飢餓率35%以上というのは、食料配分事情によほどの不公正があるのでしょうか。よく分かりません。

プランテーションは、貧困を生んで人びとを不幸にさせます。また、自然を破壊して、遠からず行き詰って運営できなくなる産業システムです。プランテーションには、ぜひ本国に引きあげてもらって、かつてあったはずの、自給的食料獲得の方法を復活させて、自然と調和した安定した社会を形成していきたいものです。

プランテーションで生産される農産物を消費することは、その代金がめぐっていって、プランテーションのシステムを支えることにつながります。ここはぜひ、プランテーションなしで暮らす生活を、想像してみようではありませんか。バナナを食べなくても、日本にはみかんやりんごがあります。コーヒーや紅茶を飲まなくても、日本には緑茶や麦茶があります。チョコレートを食べなくても、日本にはだんごやようかんがあります。国産品を愛用することで、日本の産業も元気になっていくでしょう。

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徴農制

「徴農制」というキーワードで検索してみましたら、「ウィキペディア」に、

徴農制度(ちょうのうせいど)は、軍事における徴兵制度と同様に農作業への従事を国民の義務として定める制度。

という定義がありまして、さらに、毛沢東やポル・ポトの例があげられたり、「近年の日本では、政治家や実業家が「ニートを徴農制で叩き直す」と言ったプランを主張する事例も見られるようになっている」という解説も出たりもしていました。毛沢東やポル・ポトといった共産主義思想については、今後の研究課題ということで、今は横に置いておきます。
検索でヒットした別のサイトでは、

「徴兵徴農」発言を陳謝 東国原知事
 宮崎県の東国原英夫知事は4日、徴兵制に賛意を示したように受け取られた発言と、道徳観を養成するため若者に強制的に農業を体験させる“徴農制”が必要とした発言について「不適切だった」と陳謝した。社民党宮崎県連の鳥飼謙二代表らが同日、発言撤回を申し入れたのに答えた。
(2007年12月5日 西日本新聞朝刊)

という新聞記事がありました。
徴農制が何でいけないのかと言うと、上であげた「ウィキペディア」の解説によれば、「日本国憲法第18条(刑罰以外の奴隷的拘束及び苦役からの自由)に反する」からなのだそうです。
社民党の人につっこまれた東国原宮崎県知事は、「農業の大切さ、食の大切さを勉強してはどうか、教育のカリキュラムに入れることも考えるべきではないかという趣旨だった」と釈明したのだそうです。
「徴農制」なんてキツい言葉をつかうからたたかれるので、最初から「食農教育」とか言っていれば、これなら社民党もOKサ、だったのかもしれません。

ここで気になるのは、「徴農制」と「食農教育」って、どのへんが同じで、どのへんが違うものなんでしょうか、ということです。「徴農制」だって、やりようによっては、「農業の大切さ、食の大切さを勉強」する機会にすることは可能ではないでしょうか。ということは、「徴農制」と「食農教育」の本質的な差は、先にあげた、日本国憲法第18条にある、「奴隷的拘束」および「苦役」があるかないか、ということになるのではないでしょうか。
ということは、「徴農制」を主張する人たちは、農業の中に正しく「奴隷的拘束」や「苦役」を見ているわけで、そうとなると、歯が浮くような美辞麗句で農業をおだてるような人たちよりも、はるかに誠実なのではないかと、わたしには思えてきます。

今の日本の学校教育の中に「奴隷的拘束」や「苦役」がないとは、わたしには思えないのですけれど(「学校に来なくてもいいよ」と言ったら、来ない生徒が多いと思います)、その中で「奴隷的拘束」や「苦役」がないように「農業の大切さ、食の大切さを勉強」させる、というのは、至難の業なんでないか、という気がします。
農家の現場の作業を見学させたり、体験させたりした場合、それを将来の自分の仕事にしたいと思う生徒がどのくらいいるか、非常に疑問です。農業は典型的な、いわゆる「3K職場(きつい・汚い・危険)」なわけですから。それに、こんにちの、日本農業をつぶそうとしているとしか思えないような農政の動きを見ていると、人に就農を勧めるのは、その人を泥舟に乗せるようで、気が引けます。

わたしは、拓殖大学北海道短期大学の新規就農コースを卒業しました。このコースは、現場での実地研修に重点を置いた課程になっていて、4月から10月にかけて、北海道で農業ができる期間はずっと、実際の農家の田畑で実習をするようになっています。体力も気力も弱いわたしは、2年めの春でへたばってしまい、しばらく休んで、そのご、学校が紹介する農家ではなくて、自分で探してきた農家で実習の続きをさせてもらいました。へたばったころは、本当にぼろぼろで、畑の上で呼吸困難になって倒れたり、脚がつって歩けなくなったりしました。精神的にも傷だらけで、精神科で処方してもらった薬を飲みながら働いていました。
わたしは、いろいろな仕事をしてきました。力仕事もしましたし、汚い仕事もしましたし、気をつかう仕事もしましたが、正直言って、農業が一番しんどいと思いました。

いろいろあって、今は、自給的農業をやっています。自分(たち)が食べる分以上の作物をつくろうとしない農業です。自給的農業というのは、畑の面積で言うと、1人5aが基準です。たとえば4人家族ならば、20aということになります。このぐらいの農業でしたら、うってかわって、楽しくてしようがないのです。もう、鼻歌まじりです。このぐらいの規模でやるのが、農業の本当の楽しさを知る、一番の近道だと、わたしは思います。もっと手広く栽培していて、しかも、「ヨロコビを感じている」と言う人も、もしかしたらいるのかもしれませんが、それはきっと、ヨコシマなヨロコビです。本物は、1人5aです。10m×50mの、学校のプールぐらいの面積です。
自分が食べるものは自分でつくるわけですから、少なくとも、自分が食べる食べ物を作らせることに関して、他の人につらい思いをさせていない、と思えるだけでも、すがすがしいではありませんか。
できた作物は、原則自家消費で、売りません。必要な現金は、他の仕事を兼業でやって、かせぐことになります。なるべく支出をへらす生活をする工夫をしますが、これがまた楽しいのです。生活全般にわたって反省してみると、けっこう無駄なことが多いことに気づきます。

「食糧自給率(正しくは「食料国産率」)をあげよう」という議論は、もっともな面もありますが、一歩間違うと、危険な方向に進みかねません。さらに大規模化、機械化、多肥料化、多収穫品種化、そして「徴農制」のように、やりたくない人に無理やり農作業をやらせるような方向に向かうのではなくて、楽しんでやれる自給的農業をやる人がふえる方向に進んでほしいものだと思います。
もちろん、身体的にも精神的にも、わたしなんかよりはるかに丈夫な人には、「家」なり「会社」なり「国」なり「宗教」なり「思想」なり、何らかの拠り所にしがみついて、ばりばり働きまくる、という道もあるのでしょうが、それによって、直接間接に迷惑をこうむる人たちがいることに、気づいてくれることがあるのかなあ、無理だろうなあ、なんてことを考えながら、まだまだ生きている、きょうこのごろです。

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「栽培生活blog」への、検索キーワード

この「栽培生活blog」は、@NIFTY のココログというサービスを利用しています。ココログには「アクセス解析」という機能がありまして、どの記事がどのぐらい読まれているか、とか、検索エンジンで訪ねてきた人が、どんなキーワードで検索してこのブログに来たか、といったことが、管理者に分かるようになっています。
今回は、今までこのブログを訪問された方たちが、どんなキーワードを検索して来たか、ということを見て、もうじき2年ぐらいになるでしょうか、続いているこのブログの、傾向と対策を振り返ってみたいと思います。「あ、オレ(あたし)が検索したキーワードだ!」という方も、おられるかもしれませんね。
以下、【検索キーワード】→ わたしのコメント、です。

【クローバー 種のまき方】→ 歩きながら、ぱらぱらとまいてます。浅く耕しておいて、雨の降りそうな、ちょい前あたりにまくといいのではないでしょうか。覆土はしません。

【籾殻 燻炭 作り方】→ 燻炭製造機を、三栖さんのところで見ました。ドラム缶のような「かま」の中で、籾殻に灯油を混ぜて、焼くのです。エゴマに籾殻燻炭がよくない、という記事が、日本エゴマの会の「エゴマ便り」にありましたが、灯油の成分が残って悪さをするのでは?と、素人考えに、疑っています。

【はさがけ 味 科学的根拠】→ 追熟するから、おいしいのだと思います。あと、熱風乾燥で傷むこともないですし。

【安い圧力鍋の煮豆の作り方】→ 安い鍋と高い鍋で、どこか違うのでしょうか。豆を煮ると、体積が増えますし、蒸気穴に豆のカスがつまると危ないですから、豆を少なめに煮たほうが、安全だと思います。煮る前に、水にじっくり漬けて、もどしておくのは、言うまでもないですね。

【北海道 貸し農地】→ あるらしいですけど、わたしは知りません。深川市の市営の「市民農園」ならば、春に抽選で利用者を決めています。

【大根栽培の失敗例】→ 失敗談ならば、まかせてください(笑)。やはり、播種のタイミングが大切なのでは、と思います。それと、保存方法です。洗って、ラップにくるんで、寒すぎないで暗いところに置いておく、というのがいいのかなあと、とりあえずは、思っていますが。

【マクロビオティック 選民思想】→ 「生き残る」か「生き延びる」か、の話ですね。わたしが「生き残る」という発想に共感できないのは、わたしに子どもがいないせいもあるかもしれません。とりあえず、自分一人が「生き延びる」ことだけ気にするけど、それもいつかは死ぬわけですし……。
それと、マクロビオティックって、陰とか陽とか、いろいろ独特な概念を扱いますが、わたしにはむずかしくて、分からないです。
それにしても、「マクロビオティック 選民思想」の組み合わせで検索してくる人がいる、ということに、妙に納得させられるものがあります。

【春まき小麦 種販売】→ 「春よ恋」という品種の種を、旭川農協で買いました。春まき小麦を多く栽培している地域の農協に相談してみると、いいと思います。一般の人が小麦を種として販売することは禁止されていると、農協の人に言われました。

【豪快な号外】→ 「豪快な号外」は、批判したことがあります。最大の紙面を占めるあのマンガ、どぎついですし、温暖化論や二酸化炭素犯人説も異説があるのに、決め付けているのは問題があります。「方便」って、きらいなんですよ、わたし。
環境のためにやったほうがいいのは、ズバリ節約ですが、実際問題、生産減・消費減を「あおる」というのは、至難の業ですよね。へたすると、「豪快な号外」の制作・配布に協力した人たちの商売を否定することにもなりますし。
それに、第一、あんなにたくさん印刷して、紙がもったいないです。

【種まき機 ごんべえ 使い方】→ 耕作人さんとこのブログで教えられて、カタログもとり寄せたんですけど、そのご、栽培面積が縮小になって、こんなに狭いなら手まきでいいかー、みたいな感じになってしまっています。まだ分かりませんが、なりゆき次第では、買うかもしれません。

【ニンニク栽培 植えた 枯れた】→ 何ですか、このキーワード? でも、事実、植えて、枯れました。ニンニクは丈夫で、育てやすいって言われているのに、何ででしょうね。畑の場所的に、水はけが悪かったのかもしれません。今度は、高めのうねを立てて、また作ってみたいです。

【食用菊 種】→ このキーワードで来る人、多いです。食用菊は、挿し木でふやすもので、たぶん、種は売ってないと思います。

【コイン精米所】→ ぬかをもらうために、よく寄りました。そんなに大量に必要でないならば、そしてすぐ近所にあるならば、便利でありがたいものです。

【トリカブト 栽培】→ 栽培してどうするんですか? 吹き矢とか?

【ホクレン 玉ねぎ種子】→ 作付け制限強制の話題ですね。農協って、農政の民営化されたようなものですから。つくりすぎて、値崩れして、畑にすき込む、なんてことになったら、無駄ですし。もうかる作目→つくりたがる人が多い→制限される、という流れです。農家の自主性と統制との葛藤の問題です。

【単為生殖】→ ジャガイモの話でしたっけ? カタツムリの両性具有の話もありましたね。生物が、種としてある程度完成してくると、単為生殖でよくなるのでしょう。環境の変化に合わせて種としても進化していかなくてはいけない状況になったときに、遺伝情報をかき混ぜる意味で、有性生殖が出てくるのでしょう。

【山野草を売る店 北海道】→ うちの近所にもあります。ハウスを持っていて、栽培して、増やして売っているようです。

【ジャガイモ 浴光育芽】→ 種芋の切り方とか、切り口に何かつけるのかとか、植えるときに切り口は上に向けるか下に向けるかとか……春になると、ジャガイモ関係の検索で来る方がふえます。
北海道みたいに、栽培面積が広くて、機械化が進んでいると、こまかいことはどうでもよくなる傾向があります。
ジャガイモの皮をむいて食べて、皮についている芽だけを植えて、ジャガイモを育てた、というつわものもいます。あ、種用に売っている芋は、殺菌処理とかしてあるかもしれないので、食べないほうがいいと思います。

【ホンダの耕運機】→ 同軸同時逆回転って、よくこんなものつくったなー、と感心します。最初の機械を盗まれて、全く同じ機械を買いなおしました。2台めが、不調の連続で、まいりました。ホンダにかぎりませんが、機械って、当たりはずれがあるんだ、ということを学びました(←代理店の人が認めていました)。

【ガルバンゾー 栽培】→ ガンバルゾーではありません。ガルバンゾー。別名、ヒヨコ豆。あんまり成績よくなかったです。レンティル(レンズ豆)も。今年は栽培するの、やめようと思っています。大豆と小豆があれば、もうそれでいいんでないかい。

【イワンは本当に馬鹿か】→ さあ、どうなんでしょう。じつは最高にかしこかった、ということでしょうか。

【自家採種禁止】→ 生命特許の話ですね。そもそも遺伝子情報に特許を認める、というのがおかしいです。種苗会社の利益のためにやとっているような「品種保護Gメン」を強化して、積極的に自家採種を摘発するようにするとか。ひどいです。何でも自分のものにしたがるジャイアンみたいなやつが、いつの時代にもいる、ということです。困ったものです。

【テーラワーダ仏教】→ なかなか普及しませんねー。まだまだ、今の人類には早すぎるのでしょうか。とにかく、絶やさないで伝えていけば、いつの時代にかは、花を咲かせることになるだろうと思います。

【ニセアカシア 枯らし方】→ 育てている人に、枯らし方を聞かないでください。枯らし方、知ってますけど、教えません。

【コンデンス除湿機 よくない】→ よくないのですか? よくないと思うのは、暖かい地方の人でないですか。低温環境でばりばり除湿してくれるコンデンス除湿機、わたしのところでは、穀物の乾燥などにも、快適に使えてますけど。

【キハダの煎じ方】→ 土鍋かホーローか。とにかく鉄の鍋を避ければいいのでした。

【ミツバチ 携帯電話】→ 携帯電話の中継局からの電波の影響でミツバチが巣に帰れなくなっているのではないか、といううわさ話。そのご、どうなったのでしょうか。ご存じの方いらっしゃいましたら、教えてください。

【北海道 植民地】→ 北海道が国内植民地である、ということもありますし、カナダがアメリカにアラスカを売ったように、この先、実質、どこかの国の植民地になる可能性も、なきにしもあらず、ということでもありましょうか。「沖縄と北海道は特別」と考える人が、沖縄と北海道以外では多いみたいです。

【肥料食いの植物】→ スイートコーン・アスパラガス・ニンニク・白菜なんかでしょうか。肥料分がないと、ほとんど育たない作物と、ソバのように、なければないなりに育つ、という作物とがあります。「あと作」がむずかしいです。

【食品と暮らしの安全 怪しい】→ 昔の「日本子孫基金」ですね。別に「怪し」くはないでしょう。カタログハウスの「通販生活」を、さらに一まわり堅くしたような感じですか。「うちの商品は安全」ということの見せつけ方が、あざといと思う人はいるかもしれません。消費者として、自分には何が必要なのかを判断する力がありさえすれば、この会社(株式会社です)が発しているメッセージは、大切な問題提起を含んでいるものが多くあって、有用だと思います。

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暦について

最近、メールのやりとりの中で、偶然、暦について話題にすることが重なったので、きょうは、暦について考えてみます。
わたしのいる深川あたりでは、大根の晩夏まきは、8月20日ぐらいに種をまきます。「8月中旬」という言い方がされるので、それにつられて、あわてて8月10日ぐらいにまいたりすると、これが微妙に早すぎるんです。冬の大根は保存用として使われることが多いのですが、このように10日早くまくことによって、早く成長しすぎて、日持ちが悪くなりやすくなります。

農業をやっていると、何月何日ごろにどんな仕事をするかという、予定表のようなものができてきます。これは、使用している暦が、太陽の動きの変化に対応した暦(太陽暦)だからできることです。月の満ち欠けを基準にした暦(太陰暦)や、太陽や月の動きから独立した暦では、これができません。
月の動きは、動植物に影響を与えるので、太陰暦(アジアの広範な地域で用いられている、いわゆる旧暦など)も、農業の参考にはなるのですが、月日と季節がずれていくので、年間の予定表を作るのには、向いていません。たとえば旧暦では、去年は閏月がありました。7月が2回繰り返されたのです。「7月何日ごろの仕事」のように覚えていたら、どちらの7月だか分からなくなります。

こういう不便さを抱えた暦は、旧暦だけではありません。イスラム圏で使われているヒジュラ暦では、1年が354日と定められています。「13の月の暦」として知られるツォルキン暦では、1年が260日と定められています。これらの暦では、毎年の月日が、実際の季節に対して、少しずつずれていきます。このような暦では、農業の年間予定表を作ることが困難です。
このように、農業をするためには便利な太陽暦ですが、不合理なところもあります。まず、年の基準、つまり西暦1年が、キリストの誕生に起源を持っている、ということがあります。また、1月1日を現行の日にしたのは、キリストの復活にちなむ復活祭の日を春分に合わせるように決められました。年の基準も1月1日の基準も、ともにキリストに由来している、という問題があります。キリスト教を信じる人の少ない国で、このような暦を使うのは、奇妙なことだと思います。

月が12月あって、その日数が、28日、30日、31日と、いろいろあるのも、落ち着きが悪く感じられます。曜日が7つあって、日、月、火、水、木、金、土などと、特定の物質と結び付けて呼ばれることにも、怪しげで、違和を感じる人が少なくないのではないかと思います。現実の地球の動きが、きりのいい数字で割りきれない、半端なものなので、どのように整理しても、すっきりとは納まらないのです。
わたしの感覚としては、年の基準がキリストの誕生に起源を持っている、ということが、一番気になります。そこでわたしは、何月何日の部分は現行の暦のままに、年の数に544年を足して、頭に「仏紀」という号をつけて呼ぶことにしています。こうすることで、簡単に、わたしが尊敬するブッダの誕生年を基準にした暦に変換することができるのです。
この方式によりますと、今年は仏紀2552年になります。このブログは、記入日が自動的につくので、できませんが、「栽培生活」のホームページのほうでは、わたしは記録類はすべて、この「仏紀」を使用しています。

こういう、年月日の表記のような「基準」を疑う、ということは、大切なことだと思います。「基準」というのは、絶対普遍的なものではなくて、「とりあえず」のものでしかない、ということを知っておきたいと思います。そして、だから、一つに統一しなければいけない、というものではない、ということを知っておきたいと思います。いろいろあっていいのです。

時間の基準について考えましたが、空間(位置)の基準についても、同じように考えることができます。
よく、空想劇で、タイムマシーンというのが登場します。何年、何十年、何百年昔の、あるいは未来の「ここ」へ行ける、という機械です。しかし、「ここ」という位置は、どこを基準にして決めているのでしょうか。地球は自転をしていますし、太陽の周りを公転もしています。わたしたちが立っている地面は、宇宙空間を猛スピードで移動しているのです。しかも、地球の運動の速度や角度は、少しずつ変化しています。仮に太陽を基準に考えたとして、たとえばもし100年前の「ここ」に飛んだとした場合、もしかしたら、突然、空気のない宇宙空間に放り出されて、窒息してしまうかもしれません。
「ここ」という場所を「ここ」と規定できる基準というのは、もしかしたらないのかもしれません。もし、「ここ」を「ここ」と規定する基準がないとしたら、この世に「特別な場所」というところは、ないのかもしれません。

わたしたちは、しばしば「こだわり」にとらわれて、苦しみます。しかし、「特別な時」や「特別な場所」がないのだと考えてみれば、「こだわり」から自由になるきっかけがつかめるかもしれません。「こだわり」を捨てて自由になる練習として、何かの「基準」を疑ってみる、別の「基準」にとりかえてみる、ということが役に立つかもしれません。

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自給……自分たちのための畑

もう三十年ぐらい昔の話ですが、わたしは、飯田秀一さんという方に「編曲法」を教わったことがあります。飯田先生の専門は、「教育音楽」です。飯田先生は、「いい? 音楽を利用して教育をするのよ。いい音楽(芸術)をつくるための教育をするんじゃないの」と、「音楽教育」との違いを強調していました。
飯田先生から教わったことで、二つ、忘れられないことがあります。一つは、「理想的な楽器、理想的な奏者を想定した音楽を書くんじゃありません。実際に演奏される楽器の機能、実際に演奏する奏者の技能に合わせた音楽を書きなさい」ということです。もう一つは、「聴衆のための音楽を書いちゃだめ。演奏する人自身、歌う人自身が楽しめる音楽を書かなくちゃ、意味がないのよ」ということです。飯田先生は、顔と口調がつり合わない人でした。
自給的農業をやるようになって、飯田先生が教えてくれたことは、畑についても言えるのではないか、と思えてきました。つまり、農法というのは、理想的な畑や、理想的な農業者を想定して考えてはいけないのではないか、ということです。実際に自分が扱う畑に合わせて、自分が持っている農具や、手に入る種に合わせて、また、自分の体力や性格に合わせて、臨機応変に対応できなければいけないのではないか、ということです。そして、消費者が求めるような農産物ではなくて、自分たちが食べたいものを作る、いや、もっと言ってしまえば、それ自体が楽しいからやる畑仕事にする、ということが大切なのではないか、と思います。

自分たちのための畑と言えば、中島正さんの本に、「隠し畑」のことが出ていました。借りた畑で作った生産物は、でき高がよくても悪くても、年貢をとられてしまう。百姓たちは、生きるために、山の中に「隠し畑」を作って、借りた畑とは別に、こっそり自分たちが食べるものを作ってきた、と。いろいろなところに、「隠し畑」がつくられていくようになればいい、と思います。
名前は言いませんが、北海道で新規就農した、ある方の畑を見せてもらったことがあります。山道をのぼっていくと、墓地があって、墓地の広がりの奥からまた道が続いていて、その先に畑があるのでした。あれなんかも、位置的には、りっぱな「隠し畑」ではないかと思います。もっとも、山の奥の畑というのは、農薬のドリフトを避けたり、「慣行農業」的農法をさせようとする周辺農家の視線を避けたりする利点もあるのかな、とも思います。

ところで、一昨日のエントリーで、「有機」という語が全体主義と親和性を持つことを言いましたが、イバン・イリイチが『生きる思想』(桜井直文監訳、藤原書店)の中で、「生命という概念のいかがわしさは、エコロジー論議において、とくにはっきりあらわれ出る」「通俗科学が作りあげた偶像である「一つの生命 a life」は、「人格 person」という正当な概念を無効にしてしまうおそれがある」と指摘しているのを思い出しました。「有機」「自然」「生命」「いのち」「エコ」「神秘」「宇宙」「神」……そういう思考停止を誘うような単語をもてあそぶのは、やめたほうがいいと思います。追究したい人はしてもいいですが、きちんと意味を定義して、つじつまの合う話し方をしてほしいです。
わたしが「有機」という語について考えたことは、以前読んだイリイチの思想がヒントになっていたのかもしれません。もっとも、イリイチはカトリックの人ですから、「にせもの」の言葉を批判しているだけで、「ほんもの」を指して使われる言葉なら容認するのでしょうね。そこいくと、概念批判に関しては、初期仏教のほうが徹底していると言えると思います。

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著作権保護期間の延長に反対します

インターネット図書館の「青空文庫」が、著作権保護期間の延長に反対する署名を集めています。賛同していただける方は、リンク先からダウンロードできる署名用紙に署名して、青空文庫へ送ってください。今回の署名は、第二次です。第一次の署名をした方も、もう一度署名できます。締め切りは、今月いっぱいです。

↓この署名について(用紙のダウンロードも)
http://aozora.gr.jp/shomei/

自分たちが食べるものを自分たちでつくることが、生きるための基本的な権利であるように、文化も、自分たちで育み、伝えていくものだろうと、わたしは思います。作者の死後50年を経た作品は、著作権継承者の承諾なしに複製したり、原作として利用したりして、わたしたちの共有文化として、自由に利用できますが、それが、作者の死後70年に延長されようとしています。もし延長されれば、多くの作品は、さらに読まれる機会を失い、埋れていくでしょうし、古い作品に触発されて新しい作品が生み出されることも、少なくなるでしょう。わたしたちの文化をこれ以上貧しくしないためにも、保護期間延長は阻止したいものです。
食べものをわたしたちに、そして、文化をわたしたちに。生れてきた人間として、死ぬまで当たり前に生きていくために。

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「有機」ということについて

きょうは、「有機」という語について、考えてみたいと思います。

「有機農法」「有機農産物」などのように、農業に関連して「有機」という語が使われる場合、基本的には、「有機物を資材に使う農業」という意味になります。有機物というのは、生き物、または生き物が作り出したもの(枯れ草とか、家畜の糞とか)を指します。しかし、有機物、すなわち、生き物由来のものならば何でもいい資材なのかと言うと、そんなことはありません。たとえば、緑肥(草)をすき込むにしても、やり方を間違えれは、地中にガスが発生して、作物の根を傷めます。また、たとえば、完熟させない厩肥を使うと、害虫が発生したり、作物が病気になりやすくなったりします。
「有機」という語はまた、上記のような使われ方のほかに、自然や社会を生き物にたとえる言い方でも使われます。この、有機物/無機物の別を言う使い方と、自然や社会を生き物にたとえる使い方との、2つの使い方があるのは、中国語由来の「有機」でも、英語の「オーガニック」でも、同じです。「有機」という語も「オーガニック」という語も、同じような使われ方をするのは、偶然ではないと思います。
「有機」という語の使われ方の中に、「生き物や生き物が作り出したものには価値がある」という偏見や、「生き物をモデルに自然や社会を形成することには価値がある」といった偏見などが、含まれているのを感じます。偏見と言うよりは、実体化された「生き物」とか「生命」とかいう観念(これらを総称して「有機体」という)自体が、幻想なのだと、仏教的な立場(無我説)からは、言えると思います。
「有機」という語の使われ方の例を見てみましょう。日本の有機農業の推進役を果たしてきた、NPO法人「日本有機農業研究会」のホームページから引用します。

  会の名称に使われた「有機農業」という言葉は、後に一楽照雄が邦訳した『有機農法』(ロデイル著、原題 Pay Dirt ) にヒントを得たものだが、漢書にある「天地、機有り」からとったものだ。「機」とは、英語ではダイナミズム、自然の原理、天地の動きには法則があるという意味であり、農業というものは、自然の原理に順応してそれを助け合うものであることを表している。後にはさらに、特に生産者と消費者の間の「有機的な人間関係」を築くことが重要であるという意味あいも付与された。
(日本有機農業研究会 「生産者と消費者の提携」)
http://www.joaa.net/mokuhyou/teikei.html

農業資材として有機物を使う、というだけではなくて、自然観の「たとえ」としての有機、社会観の「たとえ」としての「有機」が語られているのが分かると思います。ここに見られるのは、言いかえれば、「自然=有機体」説、「社会=有機体」説です。何かを何かにたとえるのは、直感的に分かりやすく説明するための方便ではありますが、あくまでも自然は自然、社会は社会です。たとえ話には限界があること、場合によっては、不合理な面もあることを、忘れないでいたいと思います。
有機体説は、全体主義と親和性があります。自然なり社会なりを、一つの有機体とする考え方です。一つの生き物ですから、その中には、頭もありますし、心臓もありますし、足の裏もありますし、尻の穴もありますし、いろいろな部分があるわけです。個人のあり方から、その集合としての全体のあり方を考えるのではなく、先に全体のあり方を考えて、それを成り立たせるように、個人のあり方を規定していく考え方が、全体主義です。
全体主義の身近な例としては、日本の「国体論」があります。かつて文部省は、『国体の本義』という冊子を発行して、これを学校で配布して、「日本には昔から優れた「国体」というものがあるので、これを守らなくてはいけない」という考え方を普及させました。まず、国のあり方を定めて、それを成り立たせるように、個人のあり方を考える、という順序です。
わたしのような「はずれぎみ」の人間としては、先に枠を決められて、そこにはまってください、と言われると、なかなか適応しにくいものがあります。そんな堅苦しいことは言わないで、いろいろな人がいるのですから、まず身近な人たちの中で、快適な付き合い方をさぐっていって、その積み重ねとして国ができていく、という順序で考えてもいいのではないか、と思うのですが、そのへんは、「まあまあふつう」に生きてきて、死ぬまで「ふつう」に生き続けたいと願っているような方たちとの、人生に対する美学的な違いもあるのでしょうか。
わたしは、日本有機農業研究会が全体主義だ、と言っているのではありません。ただ、「有機的な人間関係」のような、何気なく使われる表現の中にあらわれる、実体化されて、たとえ話にされる「生き物」や「生命」の観念を指摘しておきたいだけです。

海野弘さんの『陰謀の世界史』(文春文庫)という本に、トマス・ヒル・グリーンという人のことが出てきます。キリスト教福音主義派牧師の息子として育った人です。『国体の本義』の思想のイギリス版的な思想をつくった人です。引用します。

二十世紀のはじめ、社会主義や自由主義・植民地主義が奇妙に結びつき、社会帝国主義があらわれる。そこで大きな役割りを果したのがトマス・ヒル・グリーンであった。彼は牧師の子としてヨークシャーに生れ、オックスフォードの道徳哲学教授となった。絶対我(絶対意識)がまずあり、自我はそれに向って人格を形成していくのだ、とした。絶対我は自我の自由の実現であり、国家とは、その実現のための道徳的共同意志のあらわれである。つまり国家は、人間を自由にし、生活を向上するために積極的に介入すべきものである。これがグリーンの〈有機的国家〉の考えで、個人対国家というそれまでの対立に代って、国家を積極的に認める社会改革主義の道を開いた。自由放任主義の行きづまりを恐れていた英国は、自由帝国主義を受入れたのである。共同体とか愛国主義への関心が復活する。

Thomas Hill Green。緑の丘です。で、まあ、彼の思想が契機となって、今の労働党政権につながるような世界観のレールが敷かれることになったわけです。有機的国家、つまり、一つの生き物のような国家ですから、そこからは当然、優れた頭脳が体全体をコントロールする、という、一種のエリート主義が形成されることになるのです。

幻想に浸りつづけることがいいのか、頭を冷やして、人間のあるがままの状態を直視しようとすることがいいのか、人間が持っている知恵と慈悲の力が、試されることになるのでしょう。

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一楽照雄と日本有機農業研究会
藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房)

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ブッダの戦争観

前回、「聖書」の戦争観を見ましたので、比較の意味で、今回は、ブッダの戦争観を見てみたいと思います。(って、これ、何のブログだ? 興味のない方は、とばしてください。)

「相応部経典」に「戦いについての二つの語」という、短い二つの、対になるお経があります。はじめのほうは、マガダ国のアジャータサッツ王がコーサラ国のパセーナディ王に対して、カーシ国に攻め入ったため、パセーナディ王もカーシ国で迎え撃ったのですが、このときはパセーナディ王が負けて、都城のサーヴァッティーに逃げ帰ってきた、という状況です。ブッダや弟子たちはサーヴァッティーにいます。パセーナディ王は、日ごろ、よくブッダの説法を聞いて、影響を受けています。
サーヴァッティーの、ブッダたちの様子を描くところから、引用します。

 その時、おおくの比丘たちは、朝はやく、衣をつけ、鉢をもって、サーヴァッティーに入った。彼らは、サーヴァッティーに托鉢し、食をおえて、鉢を置くと、世尊のいますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐した彼ら比丘たちは、世尊に申しあげた。
「世尊よ、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王と、コーサラの国のパセーナディ王とが戦いました。その戦いにおいて、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、コーサラの国のパセーナディ王を破りました。コーサラの国のパセーナディ王は、その都城なるサーヴァッティーに逃げ帰りました」
「比丘たちよ、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、悪しき友、悪しき仲間、悪しき取巻きをもつ。比丘たちよ、コーサラの国のパセーナディ王は、善き友、善き仲間、善き取巻きをもつ。だが、比丘たちよ、コーサラの国のパセーナディ王は、今夜は、敗者として苦しい眠りをねむらねばならないだろう」
そして、世尊は、このように仰せられた。
「勝利は怨みを生み
 敗れては苦しくねむる
 ただ勝敗を捨てさってこそ
 静けく楽しくもねむるであろう」
(増谷文雄訳『阿含経典第四巻』筑摩書房)

と、まあ、世の中、必ずしも「正義が勝つ」わけではないわけです。もっとも、この場合、パセーナディ王は、「正義」のために戦争したのではなくて、攻めてこられたから、受けてたっただけなのですが。
ブッダは、負けたパセーナディ王の苦しみを気遣いながらも、「負けたからと言って、怨んじゃいけないんだ」ということを言っているわけです。
さて、対になるお経のあとのほうですが、また戦いが起きます。またしても、マガダ国のアジャータサッツ王と、コーサラ国のパセーナディ王との戦いです。今回は、パセーナディ王のほうが勝って、アジャータサッツ王は捕えられますが、やがて釈放されます。
戦場のカーシ国から、ブッダたちがいるサーヴァッティーに場面が切り替わるところから、引用します。

 その時、おおくの比丘たちは、朝はやく、衣をつけ、鉢をもって、サーヴァッティーに入った。彼らは、サーヴァッティーに托鉢し、食事をおえて、鉢を置くと、世尊のいますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐した彼ら比丘たちは、世尊に申しあげた。
「世尊よ、マガダの国のヴェーデーヒーの子アジャータサッツ王は、四軍をひきいて、コーサラの国のパセーナディ王に対し、カーシの国に攻め入りました。コーサラの国のパセーナディ王は、それを聞いて、王もまた四軍をひいて、これを迎え撃ちました。そして、その戦において、コーサラの国のパセーナディ王は、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王を破り、彼を生擒(いけどり)にしました。世尊よ、そこでコーサラの国のパセーナディ王は、かように考えました。〈このマガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、たとえ、なんの害も加えないわたしに害を加えようとするのであるとはいえ、やっぱり彼はわたしにとっては甥である。わたしは、むしろ、彼から彼のすべての象軍・馬軍・車軍・歩軍を奪い去って、そのうえで彼を放つこととしよう〉と。世尊よ、かくて、コーサラの国のパセーナディ王は、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王から、その四軍のすべてを奪い去って、彼を釈放いたしました」
その時、世尊は、そのことの意味を知って、つぎのような偈を誦したもうた。
「おのれに利のあるかぎり
 人は他を掠(かす)めてやまず
 また、他に掠めらるれば
 彼もまた掠(と)りかえす
 愚者はその悪のみのらざるかぎり
 そを当然のことと思う
 されど、ついにその悪のみのるとき
 彼はその苦しみを受けねばならぬ
 他を殺せば、おのれを殺すものを得
 他に勝てば、おのれに勝つものを得
 他を譏(そし)れば、おのれを譏るものを得
 他を悩ませば、おのれを悩ますものを得
 かくて業(ごう)の車は転がり転がって
 彼は掠めてはまた掠めとらる」
(出典同上)

これで、このお経は、終わりです。怒り・憎しみの気持ちを持てば、それはいつか必ず自分に向かってもどってきますよ、と。荒んだ感情の応酬はやめて、心の平安を求めなさい、と。そういうことですね。アジャータサッツ王は、一度は捕えられながらも、生きて帰れたのですから、これを教訓に、もう戦争をしようとしなくなるといいですね。

このお経はこれで終わりなのですが、インドに仏教を復興させた、あのビーム・ラーオ・アンベードカルが、この続きの話を書いています。たぶん、アンベードカルの創作だと思いますが、感動的なので、引用します。

 平和を勝ちとった勝者は、被征服民を奴隷化させないまでも屈辱を与える権利があると主張する。しかしブッダは全く違った考えを持っていた。平和に意味があるとすれば、勝者が打ち負かした相手の向上のためにその勝利を利用することにある。ビクたちにこう語った。
 「平和がもたらされた暁には、戦争の熟練者たちは有能で正しい人間として、丁寧な言葉、思いやりある態度、謙虚で打ちとけた、感じのいい客人として振舞い、出しゃばらず感官を制御して、賢く、人を脅かしたりしない人であらねばならない。厳しい制裁をもって卑屈な態度で膝まずかせてはならない。
 全てのものが幸せと平和に暮らし、強者も弱者も、身分の高いものも低いものも、遠くに住むものも近くにいるものも、生れたもの、これから生れてくるであろうものも、全てが平和に暮らせるようでなければならない。
 誰も仲間にへつらったり軽蔑したりせず、怒りや憎しみで他人を傷つけようとさせたりしてはならない。
 母親が我が子を命がけで庇おうとするように、生けるもの全てを我が子と思う心を抱き、全世界への愛、内に憎しみをもたぬ汚れなき、敵意を起こさせない愛を抱かしめよ。
 このように、汝らは立つ時も歩く時も、坐ったり横になったりする時も常に全力をもってこのことを考えよ。〝これが清らかな状態である〟」
(R.B.アンベードカル著 山際素男訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書)

絶対者に求め、与えられる平和ではなくて、ひとりひとりが全力で考えて、実現していく平和であることと、強者も弱者もある、身分の高いものも低いものもある、つまり、絶対者の下の平等=均等(イクオリティ)ではない、多様であることが許される世界にしようと、呼びかけているところが、ポイントです。

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「戦争について」

11月30日のエントリーで、日本の農業がおかれているきびしい状況を生き延びるためにも、アメリカ人の集団の無意識を通して大きな影響を与えている、ユダヤ・キリスト教文化について、批判的に考察しなければならないことを言って、さらにコメントで、ニーチェ、フロイト、マックス・ヴェーバーなんかを勉強しなくては……と、自分で課題を定めたのですが、なまけもので、まだ1冊も読んでいません(一応、買ってはあるのですが……)。で、とりあえずきょうは、このあたりの諸般の事情の総責任者である、「聖書」の言葉を引用して、問題提起に替えたいと思います。とりあえず、です。すみません。

「聖書」の中に、「戦争について」という見出しがつけられた文があるのを、皆さんはご存じでしょうか。本当に、こういう見出しがついているのですよ。「聖書」を持っている方は、確認してみてください。引用しますね。

戦争について

 ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられる敵の分捕り品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠く離れた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業(しぎょう)として与えられたる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあたなたちに教えて行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである。
新共同訳聖書 申命記 20.10-18)

以上の内容を一口に言ってしまえば、神によって下された、「異民族(異教徒)は、これを滅ぼしつくせ」という命令です。近くの国を攻めたら、必ず滅ぼしつくさなくてはならない、と。なぜなら、異教の神を信じないようにするためだ、と。そして、遠くの国は、降伏すれば、全員奴隷にして強制労働、降伏しなければ、男は皆殺しにして、女、子ども、家畜その他の財産は、ぶんどって、すきなようにしてよろしい、と、そういうことです。これが、「聖書」が教える、戦争のやり方です。
内政干渉をして、法律を変えさせて、食料を人質にして、自分たちの利益をごり押ししてくる相手国民の、そのメンタリティを規定するのに絶大な力を及ぼす宗教文化が、どのようなものか、理解しておくのは、絶対に必要なことです。
「聖書」を読めば、神が人間を、大量に、残虐に、殺しまくっていること、殺せと命令しまくっていることが、はっきりと書いてあります。このような血なまぐさい「聖書」を拠り所にする宗教が粗暴な性格になるのは、なんとも止めがたいものです。ユダヤ・キリスト教を、「愛と平和の宗教だ」などと言うのは、「聖書」のごくごく一部の表現だけを取り出して、極端に歪めた解釈だとしか、わたしは思えません。素直な気持ちで「聖書」を読めば、その暴力性は、明らかです。
だから、ユダヤ・キリスト教徒をやっつけちゃえ!などと言い出したら、向こうと同じレベルになってしまいます。病気は治療するべきなのであって、病人をいじめるのは、お門違いです。ユダヤ・キリスト教徒の皆さんが患っている病気を、彼らに自覚してもらって、どうやったら無害化していくことができるか、その道筋を、みんなで知恵を合わせて、考えていこうではありませんか。

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矢部正範・右京零『爆笑トリビア 解体聖書』コアラブックス

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除草剤ラウンドアップ

不耕起栽培の利点と、そのノウハウを教えてくれる人に、水口文夫さんという方がいます。わたしも、本を通して、多くのことを学ばせてもらっています。その水口さんの本に、『図解60歳からの小力野菜つくり』(農文協)というのがあるのですが、その中に、こんなくだりが出てきて、驚きました。

 私は、ラウンドアップをウメ畑や野菜畑の除草に使っている。ラウンドアップは分解すると、アンモニアとリン酸になる。アンモニアもリン酸も肥料成分であるから有害物質が残留する心配はない。
 土に残留物質が残らないから、作付け前に雑草を枯らしてから種まきしたり、苗を植えたりもできる。不耕起栽培の作付け前の除草にも適している。

ありゃ、水口さん、モンサント社の除草剤・ラウンドアップを宣伝してますよ。どうしましょう。
ラウンドアップの危険性については、わたしは、安田節子さんの『遺伝子組み換え食品Q&A』(岩波ブックレット)という本で知っていました。安田さんは、ラウンドアップ耐性遺伝子組み換え作物についての解説の流れで、除草剤ラウンドアップ自体の危険性にも触れています。引用します。

ラウンドアップが環境に多く使用されることは、土壌や水を汚染することになります。モンサント社はラウンドアップは生分解性のよい、環境にやさしい農薬で土壌微生物によって数日で分解され二酸化炭素と水になってしまうと宣伝しています。しかし、ニューヨーク州はこの宣伝内容は正しくないとして九一年提訴。九七年の判決でモンサント社は敗訴し、今後ニューヨーク州では環境にやさしいなどという宣伝はできなくなり、訴訟費用五万ドルを支払わされています。ラウンドアップには一五%ほど非イオン系の界面活性剤がふくまれており、これによる急性毒性が強く、カリフォルニア州では生産者に被害をもたらすワースト・スリーの農薬に数えられています。日本でも死者が報告されています(ラウンドアップ中毒処理報告書。八四年六月~八六年三月、急性中毒五六例中九例が死亡)。

ラウンドアップが分解して残る物質が、水口さんと安田さんでは違いますが、これは、いろいろ残る物質のうち、どれを言うかの違いで、どちらも間違いではありません。
念のために、ラウンドアップの販売会社がつくっているホームページがあるので、そこを見てみると、かっこいいビデオを使って、しきりに「土に対する安全性が高い」と言っていました。「土に対する」という微妙な限定を、さりげなく加えているのです(「土に対する安全性」って、何よ。作物に対する安全性は? 作業する人に対する安全性は??)。で、よくよく見ていくと、小さく「危険有害性の要約」という文も載っていて、そこには次のように書いてありました。

皮膚に対して通常の取り扱いでは有害性は低いと予測される。
眼に対して刺激性がある。
魚類に影響を及ぼす。
藻類に影響を及ぼす恐れがある。

この文の中の、「通常」の中には、除草剤を噴霧中に風向きが変わって、薬剤を吸引してしまうような場合は想定されていないようです。
魚類や藻類に影響があるのですから、ほかの生物にも影響があるのではないかと、想像されます。畑の中にも生態系があります。何かの生き物を害すれば、そのバランスが崩れることは、十分予想されます。わたしとしては、予防原則にしたがって、生物間の連鎖反応の先に、どのような影響があるか分かりにくい資材は、極力使わないようにしたいと思います。
また、安田さんが教えてくれている、2年間で9人死亡という、ラウンドアップの、農作業する人への影響は、便利さとを天秤にかけて、どちらをとるか、ということなのでしょう。自動車は交通事故を起こすから乗らない、とか、たまに死ぬ人もいるから予防接種はしない、などとは、ふつうは言わないのと同じような問題なのでしょう。
農作業は、工夫をすれば、除草剤を使わなくても、そんなに大変な仕事にはならないと思うので、わたしとしては、危険をおかしてまで除草剤を使おうとは思いません。わたしは、運動神経がにぶいので、噴霧中に薬剤を浴びて、死んでしまうような予感がします。君子危うきに近寄らず、ですね。え?だれが君子だって?

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清めの儀式

きのうの、「捨てられたみそ」というエントリーで、近所の「おばあさん」への差別意識をあらわにしてしまったわたしですが、たとえば、地産地消を進めていく上で、地元の農協婦人部がつくったみそよりも、名前の知れた大メーカーがつくったみそのほうが安心して食べられる、なんてことは、ないのでしょうか。まあ、現実には、大メーカーだから清潔だ、ということでもないのですけれど。
手づくりの食品を信用しなくなるのは、自分が手づくりの食品をつくらないからなのだと思います。そして、地域の中で、食べ物についての会話がないからだと思います。食べ物についてに限らず、何についても、会話らしい会話をしていない人から、「これ、つくったから、食べてみて」と言われても、そう簡単には、なじめないだろうと、思います。
以上のことを、自分の差別意識への自戒の意味も込めて、表明しておきます。

今ちょうど、ダナンジャイ・キール『アンベードカルの生涯』(光文社新書)という本を読んでいたら、イメージとしての「きたない」の、いい例がでていました。
インドには、4つのカースト(階級)があります。カーストは、法律では禁じられていますが、現実の社会には、現在に至るまで、厳然としてあり続けています。で、さらに、このカーストの外側に、人間扱いされない、不可触民がいます。アンベードカルは、この不可触民出身の政治家です。のちに、かつてイスラム教徒に侵略されて以来、インドの地に途絶えていた仏教を、不可触民を中心に、復興させていく指導者になります。

時は1927年3月、アンベードカルらは、マハード市で、1万人を超える不可触民の集会を開催しました。そして、法律では、不可触民に開放されているはずの貯水池まで行進をして、水を飲んだのです。そのことは、カーストヒンズーたちの怒りを買い、暴動が起きて、集まっていた不可触民たちは襲撃されました。
「きたない」不可触民のせいで水を飲めなくされたカーストヒンズーたちは、その対策を考えました。引用します。

 不可触民に貯水池を〝穢された〟マハードのカーストヒンズーはその後どうしただろうか。オーソドックスヒンズーたちは街の寺院に集まり、どうやったら池を清められるか相談した。かれらの〝穢れ〟に対する万能薬は、牛の小便、牛糞、ヨーグルト、水を一緒に混ぜた団子であった。かれらは荘厳な儀式をはじめた。先ず一〇八箇の土器製の水がめに貯水池の水を汲み、その壺の中に、ヨーグルト、牛糞、牛の小便、牛乳をなみなみと入れ、ブラーミンが厳そかにマントラ(経文)を誦する中、その一〇八箇の壺をしずしずと池に沈めたのである。かくてカーストヒンズーたちは再び安心して池の水を飲めるようになった!

池の水が、人間が飲んだら穢れて、牛糞や牛の小便を入れたら清まる、というのが、はたから見ると奇妙なのですが、本人たちは真剣にそう感じているのでしょうね。インドでは、牛は神聖な動物とされていますから。
厚労省の認可という儀式を経ると、清まったように感じる、日本のわたしたちも、はたから見たら、奇妙に感じられるのかもしれません。あるいは、食品製造会社の偉い人たちが、そろって頭を下げて謝ると清まるとか……。そういう「儀式」は、いろいろあります。
ちなみに、ガンジーは、不可触民をどうしようとしていたかというと、カーストの外側にいて人間扱いされないのがかわいそうだからというので、5番目の最低のカーストを新設して、そこに組み入れてあげよう、と考えていたそうです。

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考える力

大晦日ですね。年末には、よく、「今年の10大ニュース」みたいな特集をやったりするところが多いのですが、わたしとしては、個人的には、2年間開拓して、やっと畑らしくなってきた畑を去らなくてはいけなくなったのが、今年最大のニュースでした。残念ではあるのですが、今の時点で振り返ってみると、この畑を去ることのほうが、長い目で見たら、現実的な対応なのだと思えます。
何にしても、もう一度ひっくり返すわけにはいかないので、今は、未来のことを考えることに集中したいと思います。栽培生活は、来年も、規模は縮小しますが、別の畑を借りて、続けていくつもりです。そして、農業以外のことをする時間をふやそうと思っています。

未来のことを考えるといっても、わたしの場合、定年退職して、退職金を使って、田舎に移住して、家庭菜園でもしながら、のんびり暮らそうか……といったような、恵まれた状況ではなくて、歳だけはとって、体力は衰えてきているけれども、たくわえはなくて、その上、特別に身を助けるような才能があるわけでもない、という、ひどく恵まれない状況にあります。でも、恵まれないと言っても、わたしが置かれいるのは、ある意味で、一般的な状況でもあります。
北海道農業は、なかなか「寒い」ですし、世界情勢は、戦争が拡大しそうですし、わたし個人の
可能性としては、行き詰って、のたれ死ぬ率が高いと思われますが、そう言ってしまうと、身もふたもないので、どうしたものかと、作戦を練っているわけです。
こういうときこそ、考える力がものを言うのだ、とかなんとか言ってはいますが、考えるばかりで、行動がともなわないので、現実逃避しているのではないかと疑われてもしかたがない、とも思います。まあ、逃げながらも、逃げられないのが、現実というものなのですが。

きょう、水野弘元さんの『経典はいかに伝わったか』(佼成出版社)という本を読んでいましたら、まさに、たった一人で、考える力によって、たった2日間の、言葉だけによる論争によって、民族の歴史を変えてしまった、すごい人の話に出会うことができました。
時は1870年、スリランカでのことです。スリランカの歴史については、わたしはまったく無知なので、このグナーナンダという人の話を初めて聞いて、大きな感銘を受けました。引用してみます。

 スリランカを占領したイギリスは、表面的には信教の自由を約束しましたが、裏面では新旧のキリスト教の教会を島内各地に建て、所属の学校では、国民の税金でまかなわれていても、キリスト教的な教育がほどこされ、西洋文明やキリスト教の優秀さと仏教の低級野蛮さとが吹きこまれました。また、教会の宣伝と仏教の攻撃が続けられました。何も知らない若いスリランカ人は、教会や学校の宣伝を信じ、仏教に対しては信頼と尊敬を失うようになってきました。そうでなくても、役人となって社会的地位を得るためには、学校の校長である神父や牧師からのキリスト教徒であるという証明書がなければなりません。
 このようなキリスト教的な学校教育が長年にわたって続き、卒業生が成人するようになると、もはや仏教は忘れられ、滅び去ってしまうのではないかと思われました。この危機に際して、グナーナンダという一人の英雄的青年が現れました。彼は学校の教師たちがあまりにも仏教を攻撃するのに反感をいだき、仏教がそのようにつまらないものであるかに疑問をいだきました。
 そこで、専門の僧侶について仏教を学んでみて驚いたことは、仏教はキリスト教よりもはるかに合理性を持ったものでありました。自信を得た青年は出家して仏教の僧侶となり、単身でキリスト教の攻撃を受けて立ち、一八七〇(明治三)には、中立的な英字新聞社の企画で、キリスト教の論客を向こうにまわして二日間の論戦をなし、ついに彼らを打ち負かしてしまったのであります。これを契機としてスリランカの仏教も復活に向かいました。

ということで、いかがでしょう、筋を通す、間違いを正す、そのような、言葉の力を使うことによって、金や武力や迷信的脅しによる圧力をはねかえすことができたのです。押し付けられた現実に対して、「そういうものだ」「それが世の中というものだ」と、あきらめてしまっていたら、わたしたちは、限りない暗黒に沈んでいってしまいます。
どうしたら危機的な状況から抜け出せるかを、よくよく考え、よくよく作戦を練って、実行していきたいものだと思います。現実というのは、端的に言えば、近くにいて、あれこれと規制をしてくる人たちの顔色のことで、そんなものに振り回されるのは、つまらないことなのです。
未来を想像できれば、その方向に向かって歩みだすことができます。わたしたちが今ほしいのは、明るい未来を想像できる、考える力です。

追記
スリランカは、もともとテーラワーダ仏教が盛んだったところなのですが、上に紹介したような歴史的な「2日間論争」を経たあと、インド独立の影響も受けて、イギリスから独立して、再び、テーラワーダ仏教が主流の国になりました。スリランカの、現在の民族・宗教事情は、Wikipedia によれば、「仏教が70%、ヒンドゥー教が15%、キリスト教が8%、イスラム教が7%となっている。また、ヒンドゥー教徒のタミル人と仏教徒のシンハラ人の対立が深まっている。」のだそうです。

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栽培生活の注目サイト(ヤイユーカラの森)

このブログの右側の欄にある「栽培生活の注目サイト」、もう一つ追加です。

ヤイユーカラの森

最近、入会を申し込みました。
サイトを見ると分かりますように、大人も子どもも、一緒になってキャンプをしたり、アイヌ刺繍をしたり、いろいろ活動しています。キャンプでは、シカ狩りもしています。また、「西本願寺札幌別院・連続差別落書き事件」をめぐって、「ヤイユーカラの森」として教団側と話し合いを続けるなど、差別問題に対しての活動もしています。
被差別部落への差別は、同じように差別を受けているアイヌ民族にとって、他人事ではないのでしょう。宗祖・親鸞由来の平等主義的な性格を持つ浄土真宗の中で、差別意識が、差別される痛みに対する鈍感さが、侵食してきています。その原因は、必ずあるはずですから、それをはっきりさせて、正しい対応をしていかなくてはいけないと思います。
建て前では、多くの人が「差別はいけない」と言いますが、本音の部分での差別意識は、なかなか根深くて、解消するのが難しい問題です。前回のエントリーで触れた、岸田秀さんも言っていますが、差別意識は、日常的には潜伏していても、結婚をめぐる場面で、改めて噴出してくるものなのかもしれません。「わたしは、分け隔てなく付き合ってますよ。でも、うちの子と結婚するのはだめだ」みたいに。

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栽培生活の注目サイト 追加分

もう1月近く更新していないのに、何度もここをのぞきに来てくださった方がた、申し訳なくも、ありがとうございます。

栽培生活については、ことさら新しく書くこともないのですけれど、右の「栽培生活の注目サイト」欄に追加したサイトについて、メモしておきます。

【ナショナルトラスト・チコロナイ】
アイヌ民族の伝統的な生活様式を支えていた自然環境を回復させようと、山林を買い取って植林したりしている団体です。だいたい10年先の木材の価格を見越して植林されることが多い北海道の森林が多い中にあって、100年先、200年先のために、今木を植える、という、時間感覚がすごいです。自然とともに生きる知恵を教えてもらえるので、ありがたいところです。
相手にする自然は、息の長い生活をしていますけれど、人間の側は、理事長とか事務局とか、そんな何百年も無事に引き継いで、続けていけるのでしょうか。続いてほしいのですけれど。森の自然についても、アイヌ文化についても、まったくと言っていいほど素人のわたしには、何の力にもなれなくて、残念です。
サイトの中に紹介してある「チコロナイ友の会」というのは、解散しました。

【らくだ林園】
京都のほうの「半労半遊の農林作業サークル」だそうで、わたしは、参加したことは、ありません。
「今後、石油がさらに値上がりしていった場合、物質的な生活水準を落とさなくてはいけなくなるけれど、覚悟はいいですか?」という問いかけは、誰もが心しておかなくてはいけないと思います。
また、青木慧さんの本『山猿流 自給自足』を引き合いに出して、青木さんが薪ストーブで毎年灰にしている丸太の量を計算して、とても多くの人がまねできるものではないことを示しています(やったら、日本の森林は、たちまち禿山になる。)。わたしなんかは、青木さんの本は、読んだことがありますけれど、計算が苦手なので、こういう計算をしようという発想は浮かびません。まあ、今都市に暮らしている人で、山村に住んで、自分で薪を切り出して、薪ストーブで暖を取って暮らそう、なんて人は、そんなにいないでしょうから、心配する必要もないと思いますが。
でも、ひるがえって、じゃあ、あんたならどうするの?と聞かれたら、凍え死ぬしかないのか。いや、暖かい地方に移住しているような気がします。

【日本ベーシック・イングリッシュ協会】
これは、わたしも会員の一人です。と言うか、このホームページ、わたしが作ってます(「栽培生活」のホームページと、色違いみたいでしょう?)。
ベーシック・イングリッシュというのは、チャールズ・ケイ・オグデンという人が発明した、一種の「国際補助言語(違った言語を話す人たちが意思や感情を伝え合うための道具)」です。基本は、たった850の英語の単語のリストです。この850語だけを使うだけで、ほとんどあらゆることが言えてしまう、というのです。非常によくできていて、習得が容易なだけでなく、利用者に明快な思考をうながす、という効果を持っているのが特徴です。
で、これが栽培生活どう関係するのかと言うと、世界の成り立ちを明快に理解する、というところで、関係してくるのではないかと、わたしは期待しています。種を植えれば、勝手に育って実がなる、という単純なものではなくて、自然的にも、人為的にも、えらく複雑そうで、うまくいかないのが栽培生活で、どう考えたらいいのか分からなくなったときに、ベーシック・イングリッシュで表現してみようとすると、いらない飾りというか、ごみみたいな概念がふるい落とされて、大切なことだけがはっきり浮かび上がってきて、解決の道が分かってくる。そういう効果があるような気がします。
生まれ故郷のイギリスを遠く離れて、はるかかなたの日本で、80年近くもたっているのに、こうやって自発的に活動する愛用者の団体が生き残っている、というのは、すごいことだと思いますが、ここも、事務局の後継者が続かなくて、存続が危ぶまれています。わたしが少しは英語ができれば、お手伝いしたい気持ちはあるのですが、学校の英語の授業、もう、大っきらいでしたから。さされても、「分かりません」ばかりでしたし。

【葬送の自由をすすめる会】
ここも、わたし、会員です。会が主催する特別葬として、父の遺灰を、東京都の水源林にまきました。テレビや新聞にも出たものでした。ほんと、お世話になりました。
墓地造成のために自然が破壊されていくのと、死んだら墓地に入らなくてはいけないとか、戒名をつけてもらわなくてはいけないとか思い込んで、一所懸命に年金から貯金している人たちがいる、なんて話を聞くと、もっと自由な考え方をしてもいいのではないか、死んだあと、灰になって、山や海の自然に帰してもらう、という考え方をしてもいいのではないか、と、思います。
今の農地法が、小規模での農業への新規の参入を拒む制度であることは、このブログでも、繰り返し言ってきました。取りようによっては、現役の農業者が、地主としてくくられて、排他的な感情を持つように仕向けられている、とも、言えなくもないと、わたしは思うのです。本来、新規就農者というのは、現役農業者と敵対するものではなくて、お互いの合意があれば、農地を小分けに譲ったっていいはずだと思うのです。
それと同じように、人間の骨(灰)に対して特別な感情を持つように仕向けられて、本来ならどこにまいてもいいものを、気持ち悪いだの何だのと偏見で排除しようとさせられているだけなのではないかと、思うわけです。当事者たちは、本来自由なはずなのに、対立するように情緒を操作されて、うまく全体が支配されてしまっている、という意味で、埋葬法と農地法は、似たような構造を持っているのではないでしょうか。あと、ついでに言えば、著作権法も。

【食糧第一:食糧と開発のための政策研究所(本部:アメリカ・カリフォルニア州) 日本語サイト】
カリフォルニアだからなのかもしれませんが、アメリカ人にも、こういう批判的な考え方をする人たちがいるというのは、勇気づけられます。
「世界飢餓にまつわる12の神話」を読んでもらえれば分かると思いますが、開発とか援助とか、いかにもいいことをしているかのように見せかけて、とんでもなく残忍なことがされている、ということを、はっきり知らなくてはいけないと思います。これは、アメリカだけの問題ではなく、木材や食料を輸入しまくることによって、相手国の人たちを傷つけ、自然環境を取り返しがつかないほどに破壊してしまっている、わたしたち日本人の問題でもあります。加害者であることを、はっきりと認識しなくてはいけません。

【STOP ROKKASHO】
苦しみの元、災厄の元をつくり出して平気な感覚というのが、信じられません。ちょっと視野から外れるだけで、存在しないことになってしまうのでしょうか。苦しむことが喜びになっているのでしょうか。倒錯の世界ですね。ニュースを見ていると、次から次にいやなことが起こって、そのうちに、そういうニュースの刺激が切れると、禁断症状が表れてくるようになる。何か事件はないか?って。どうしてこう、人間って、愚かしいのでしょうか。「愛」を語りながら憎しみ合っているし、「平和」を求めながら戦争し続けているし。こんな危険極まりないエネルギーなんか、やめろよ、いいかげん。悲しくなってきますね。青森県の人たちが勝手に受け入れたって? 違うでしょう? 押し付けたんでしょう? 北海道だって、日常的に汚染されますよ、農産物も海産物も。負の遺産を、これ以上ふやすな!

【ものぐさ唯幻論】
岸田秀さんの本は、まだ読みたくて読んでない本がいっぱい残っています(小滝透さんとの対談とか…)。精神分析は、人間の差別とか、攻撃性とかを考える上で、絶対に欠かせない思想だと思います。
現代ほど、人の命が粗末に扱われる時代はなかったのではないでしょうか。そして、日常的にストレスにさらされている時代も。都府県の農家の負債(借金)は、だいたい一戸当り平均300万円ぐらいですが、北海道だけは、平均1200万円以上で、都府県の約4倍です。これ、あくまでも平均ですから、多い人は、億の単位の借金を抱えているわけです。勤め人ならば、首つっていますよね。
集団営農とか言ったって、借金の支払い人をバトンタッチしていくだけでしょう? よく、新規就農者を「担い手」と呼びますけど、あれなんか、わたしには、「借金の担い手」のように聞こえてしまうのですが、気のせいでしょうか。
コメや野菜の値段なんて、農家が決めているのではないのですから。農政の失敗を、農家個人の責任にして、借金を負わせるわけですから、たちが悪いです。
北海道の農業というのは、そんな、夢のない状況なわけでして、農家が悪いのではない、ということがはっきり分かる考え方がほしいです。そして、生き延びられる方法をつかみたいのです。責任のなすりあいではなくて、当てにならない幻想でもなく、有効な解決が導き出せる思想がほしいのです。
わたしにとっては、岸田秀さんの、民族や歴史現象を精神分析するやり方は、腑に落ちるし、現実を生きるのが楽になる方法であるだけではなくて、さらに、情勢を正しく判断して、ともに「生き延びる」(他をけ落として「生き残る」のではない)思想でもある、と思われます。特に、世界の多くの人びとを、世界の自然環境を、激しく傷つけ、苦しめてきたアメリカ、ないしは、そのバックグラウンドとしてのユダヤ・キリスト教的文化を理解するには、非常に優れた思想です。
「注目サイト」にはあげませんでしたが、浄土真宗の僧侶・武田勝道さんの「安芸ねっと」の中の
「岸田秀先生からの回答」というページにある、岸田さんによる、差別と宗教に関する考察も、大切な考え方を示していて、とても参考になります。

【日本テーラワーダ仏教協会】
ここも、わたしは会員になっています。ほとんど、スマナサーラさんの一人の才能で成り立っているようなところが、気にはなりますが。
原始仏教というか、釈尊の思想そのものは、空前絶後、ものすごくユニークなものなのです。そして、わたしたち人間にとって、一番大切なことを教えてくれているのです。問題は、それがほとんど知られていないということです。
「仏教を信じている」と言うと、ほかの宗教を信じている人たちが、「自分たちと似たようなものだろう」と勘違いして、なれなれしくからんでくることが多いわけなのですが、わたしは、そういう連中はわずらわしいので、「わたしは、テーラワーダ仏教を支持しています」と、「テーラワーダ」というところに力を込めて言うことにしています。それでも分かってもらえないときは、「信仰対象を立てないのですよ」とか「祈らないのですよ」とか「すべてのものごとには実体がない、って言うのですよ」とかと、ユニークな部分を強調して言ってみます。
栽培生活との接点は、正しい生き方としての栽培生活、という考え方が成り立つのではないか、と夢想しているところと、もう一つ、現実の苦しみを取り除く方法として、精神分析とならんで仏教も有効だと思っているところとが、あります。

【林弘庵その日暮らし 月の水屋から】
名著『穀物をもっと楽しもう』(晶文社)の著者、料理人の林弘子さんのブログ。林さんは北海道出身なのですね。このたくましさ、あやかりたいです。

ここから下の9サイトは、前からあったので、省略! 以上です。
雪国の冬をすごすのは、4年目ですが、クマの冬眠のようでもあり、みそや酒なんかが、じわじわ時間をかけてできあがっていくようでもあり、独特の時間感覚があります。

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来年の畑について

例によって「ぐだぐだ」言っているだけで、あまり役に立ちませんから、お忙しい方は、とばしてください。

来年の、わたしの畑作業は、どこでどうやるのか、ということについて、一部で、とても心配してくださっている方がたが、いらっしゃって、ありがたく思っています。すでに相談した方もありますが、まだこれから相談したい方もあって、気持ちが揺れています。
「どこで」は、未定です。もし移動するとすれば、認定農業者になるのは断念しようと思います。つまり、地目が「農地」の畑は(貸し農園は別として)、使わない、ということになります。くわしいことは、わたしの中でも、まだ「ぐちゃぐちゃ」なので、言えません。
「どうやって」については、心境の変化があります。まず、培土(土寄せ)は、原則「する」ことにします。したがって、草生にはなりません。イネ科の作物の株まわりにクローバーを生やすのは、かまわないと思います。それから、マルチは、一部で使うことになるかもしれません。不織布も。
「ふつう」の野菜作りを学んでみようと思っています(何を今さら!遅すぎ)。とは言っても、もちろん、農薬と化学肥料とトラクターなどの大型機械は、使いません。西村和雄さんが講演でお話になっていたように、「有機栽培」に準ずるやり方でできるようになってから、少しずつ低肥料状態に移行していきたいと思います。それから、在来種は、極力、自家採種しようと思います。
それと、栽培面積を縮小することになると思います。「自給」からは、後退です。農作物の販売は、少量ながらも、やってみたいです。農業以外の仕事もして、現金収入を得ようと思います。

「天然農法」を提唱する藤井平司さんの『食生産の原理』(新泉社)という本には、文人が農業をやってみようとして、失敗した例が出ています。引用します。

おっちょこちょいの野坂昭如氏は〝有吉佐和子の『複合汚染』で、有機農業が話題になった一九七六年とその翌年に、埼玉県大利根町でコメつくりのマネ事をした。はたして有機農業とか無農薬農業とかいうものが通用するものかと思った。そしたら、たしかに通用しなかった〟と体験して「百姓の勤勉さと、また、そうしなければ食えない貧しい土地柄を思いつつも……日本の食いものは、究極のところ、こういった姿によって生み出されると思う」(『朝日ジャーナル』一九八一年十一月二十日号)と言っているのですが、これこそ農家を食いものにして、コメを食らっている差別根性が丸出しになっているでしょう。

わたしはテレビを見ないので知らないのですが、野坂さんて、今はなにをされているのでしょうか。「通販生活」には、出ていますね。
わたしは、栽培することがすきなので、規模は縮小しても、何かかにかは、栽培していたいと思います。それでも、農業について語りながら、農業から離れていったら、野坂さんと同じような非難を受けることになるかもしれません。
野坂さんの場合は、作家として名が通っているから、まだいいですけれど、わたしのように、これといった才能もない人にとっては、「あぁ、またあいつは、新しいことをかじって、でもやっぱり、続けられなかったねー」みたいなことになって、チョー情けないことであります。

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夢の畑

「栽培生活blog」と言えば、現在わが国では…… 当ブログだけですが…。13日に書いた「国内植民地」という記事が、「北海道独立計画」というブログに紹介されていました。
この「北海道独立計画」というブログは、名前は気宇壮大で、いさましいのですが、北海道独立とはあまり関係がなさそうな記事が多いみたいです。赤穂浪士のように、内に熱い思いを秘め、しかしそれを表には出さずに、周囲を油断させる作戦なのかもしれません。

わたしは、子どものころ、遊びで、「夢の家」の間取り図を描くのが、すきでした。そのころ住んでいた家に不満があったわけではないのですが、「こんな家に住めたらいいなあ」と思えるような家を想像するのが、とても楽しかったのです。
このごろは、栽培計画を考えて、それを「畑の図」に描いていると、「夢の家」を想像していたのと同じような喜びを感じます。思いを形にしていくというのは