草生雨読

われもまたたがやすものなり

栽培をしなくなってから久しい。それでも栽培生活のブログを続けているのは、アクセス解析を見ると、毎日それなりのアクセスがあるようでもあるし、あと、引っ越ししたりタイトルを変更したりするやり方がよく分からないからだ。←なんじゃ、そりゃ。

 

きょうは、「栽培をしない=食料生産をしない」ことにからめた話。
お釈迦様が率いる僧団は生産的な活動を一切しなかった。乞食(こつじき)、すなわち、家々を巡って食べ物を恵んでもらって、それを食べて生きていた。
あるとき、お釈迦様があるバラモンの家のかたわらに立って食を乞うと、そのバラモンが、「わたしは耕して種をまき、そして食べる。あたたもそうするがいい」というような意味のことを言う。それに対してお釈迦様は、「わたしもまた耕して種をまき、そして食べている」みたいに答える。で、バラモンが、そんなことしてるの見たことないぞ、と反論すると、お釈迦様は、次のように言う。

信は種子なり、戒は雨なり
智慧は軛につなぎし鋤にして
反省はその柄、禅定はその縄
正念はわが鋤の先と鞭なり
身をまもり、語をまもり
食するに量を制し
真理をもって草刈をなし
楽住をたのしむはわが休息なり
精進はわがひく牛にして
われを静けき安穏に運び
行いて帰ることなく
到って悲しむことなし
かくのごときわが耕耘にして
甘露(涅槃)はその果実なり
われはかくのごとく耕して
すべての苦悩より解脱せり
(相応部経典7、11「耕田」 増谷文雄『阿含経典 第四巻』筑摩書房)

世の役に立ってから食えと言われて、おれだって役に立ってるんだぜと、相手が価値の根拠と考えていることをたとえに使って反論している、という図だ。
このやりとりでは、バラモンは最後には納得するのだが、納得しない場合だってありうる。納得するかしないかは、相手の価値観を理解できるかどうかにかかっている。
お釈迦様の教えそれ自体も興味深く、素晴らしいのだが、生産をしない僧団を、生産することを価値と考える世(社会)の中にうまくなじませ、組み込んでしまったお釈迦様の僧団運営の手腕も、たいしたものだと思う。

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中井久夫「いじめの政治学」

本棚を整理していたら、中井久夫さんの『アリアドネからの糸』(みすず書房)という本が出てきた。今日のタイトルは、この本の冒頭に置かれたエッセイだ。今、この文章に出会えたのは、わたしにとっては、グッドタイミングすぎる。
こどもで言えばいじめ、おとなで言えばいやがらせ、ハラスメントとも言う。建前では、してはいけないことになっている。しかし現実には、どうしようもなく蔓延していて、あるのが当たり前のように勘違いされている。
著者の中井さんは、いじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けて説明している。なるほどと思う。

 いじめはなぜわかりにくいか。それは、ある一定の順序を以て進行するからであり、この順序が実に政治的に巧妙なのである。ここに書けば政治屋が悪用するのではないかとちょっと心配なほどである。

悪用される心配をしておられるが、わたしには、自分が置かれた状況を意識化し、呪縛を解く力添えになった。
いじめ、いやがらせがあっても、周囲の誰も、それをいけないことだといさめる人がいなければ、助けを求めることができなくされる。いじめ、いやがらせの原因がいじめ、いやがらせを受ける側にあるかのような考え方を前提にした「いじめ、いやがらせを受けないようにするための助言」をするのも、被害者を追いつめる。いじめ、いやがらせをしていい理由なんてない。いじめ、いやがらせをやり返したのでない限り、いじめ、いやがらせは、それをやるほうが100%悪い。いじめ、いやがらせは犯罪だ。
さしあたって必要なのは、とにかくなんでもいいから、安全な逃避場所を作ることだろう。そして、そこから少しずつ、いじめやいやがらせのない世界をひろげていけたらいいのだろう。

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本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間~歌う生物学~』(日本コロンビア)

前回紹介したCD付き本『歌う生物学 必修編』の姉妹編みたいなものです。これは本ではなくて、CD。なので、詳しい解説は付いていません。けれど、本川先生の歌のノリは絶好調です。
『必修編』が高校の生物の学習内容を歌にしたものであったのに対して、こちらは生物学一般の範疇から、本川先生独特の視点から選ばれた内容を歌にしたもの。
「えんちゅうけい!」とか、「いったいぜんたい、なんだねこれは」とか、「いっしょにくらそう、てをとって」とか、一度聞くと耳について離れない。
日本コロンビアからCDとして発売されていたものを、同じ版元からCD-Rで再発売している。再版するほどは金は掛けられないけれど、一定数の需要はある、ということなのだろうか。

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本川達雄『歌う生物学 必修編』(阪急コミュニケーションズ)

著者の本川達雄さんは生物学者。東京工業大学教授。高校の生物の教科書の著者でもある。この本は、高校の生物の学習内容を歌詞にして歌ったものだ。作詞・作曲・歌唱、全部本川達雄さん。シンガーソングライターだ。
歌詞と楽譜と解説があって、付属の3枚のCDに全70曲が本川さんご本人の歌唱で収録されている。面白い。こういうことをやりたい気持ちがよく分かる。歌詞と曲調がぴったりで、感心することしきりだ。すごい才能だ。
初めて聞く歌なのに懐かしい。ご本人が「芸術ではないからいくらでも作曲できる」みたいなことをおっしゃっているが、まったく、素人の勝利という感じがする。玄人の作曲家、歌手には、こういうものは作れないだろう。悔しかったら、この中の曲のどれかをでも歌ってみたらいいだろう。それでもし売れたら、それはそれで面白い。
内容が濃い歌たちだ。これだけ大量の情報を詰め込んだ歌も珍しい。生物学を歌にするというのが斬新だ。生物学だけでも、まだまだいろいろな歌が作れるだろう。生物学に限らず、これをまねて、いろいろな分野の歌が生まれてきたら面白いと思う。本川さんは、今まで歌にされなかったようなことを歌にしてしまうことの先駆になるだろう。
この本をネットで検索すると、版元がCCCメディアハウスであったり、TBSブリタニカであったりするが、わたしが買ったのは阪急コミュニケーションズとなっている。出版に関して何か事情があるのかもしれないが、よく分からない。

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酒井映子『五行歌集 ひまわりの孤独』(市井社)

上記タイトルの本から。

ページを
めくったら
白紙だった
終わりは
突然がいい

小説の終わり方と人の生の終わり方とを重ねている。老人ホームで働いていると、人が死ぬ場面によく立ち会う。人は老いて、いつか死ぬ。昨日まで普通にお話ししていた人が、今日は死んでいる、ということは、よくある。いっぽうで、長く苦しみながら死んでいく人もいる。確かに、突然、ぽっくり死ねたほうが楽だろう。わたしもそういう死に憧れる。しかし、人生思うようにならない、というのも、事実だ。

もう一つ。

崩れかけた
廃屋
朽ちるという
やすらぎに
身を任せている

これも、老いを語る比喩だ。老い衰えていくことは自然なことだと思えば、それを厭わしく思うこともない。むしろ、老いることに抵抗しないで、老いを自ら受け容れていくことの平穏さは、清々しい。……と、言うのは簡単だけれど、得てして人の意識は老いに逆らうもの。これをなだめすかすのが難しいのだが。

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増谷文雄『阿含経典』シリーズ

ちくま学芸文庫から増谷文雄編・訳の『阿含経典』のシリーズが三十数年ぶりで復刻されはじめた。原始仏典の抄訳だ。その昔、リアルタイムで新刊本として買って読みあさったのを思い出す。私は昔の元の本をまだ持っているので買い直すことはないけれども、そして原始仏典に関しては現在では網羅的な翻訳が何種類も刊行されているので、学術的な利用価値では他に譲るところもあるのだけれど、あの流麗な訳文には抗いがたい魔力がある。どうせ原始仏典を全部読み通す人なんてよっぽどの稀人なのだろうし、教養として、あるいは読むことの悦びとして読むのだったら、このシリーズぐらいの分量が丁度いいのかもしれない。それに訳文の美しさはもう絶品と言う他ないほどのものでもあるのだし。ともあれ、これら増谷氏による訳文が三十数年ぶりに手に入るようになったことを喜びたい。

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筑波常治さん

このブログで何度も話題にした筑波常治さんですが、今年の4月13日に亡くなっていたようです。Wikipedia を見て知りました。81歳でした。残された著作を繰り返し読んでいたいと思います。

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ユイ・リーチョン(文)、チュ・チョンリャン(絵)『チュン チエ――中国のおしょうがつ――』(光村教育図書)

絵本を見て泣いてしまった。少女の「わたし」のお父さんは、遠くに働きに行っていて、年に一度、お正月(いわゆる旧暦)に帰ってくる。舞台が一人っ子政策の中国だから、きょうだいはいない。お父さんの帰りを楽しみにしている、という、ただそれだけのお話しなのだけど、しみじみとしていていいんだな。

ふるさとがあって、家族がいて、伝統行事を楽しむ地域社会があるということ。わたしが失っていることがここに描かれている、と思った。わたしだけでなく、日本人の多くが、多かれ少なかれ失っていることなのではないだろうか。それは、なんでもないことのようなものなのだけれど、失ってしまうと、とり戻すことの困難なもの。

奥付をみたら、きょうが発行日になっている。

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福家貴美『若葉』(市井社)

偶然手にした、福家貴美(ふけ・きみ)さんの五行歌集。
食べものが出てくる詩に、おいしそうなのがあります。たとえば、

小麦畑という
うどん屋に
蒟蒻おでん
三角稲荷
ふる里の味ほおばる

うどん! 懐かしい気持ちにさせるイメージです。埼玉県に住んでいたころを思い出しました。
関東地方では、立ち食いそば屋では、立ち食いそば屋というぐらいで、うどんよりそばのほうが人気があるのですが、東武東上線沿線には、店で打った、こしのあるうどんを出す店が、何軒かありました。そばも、あるにはあるのですけど、そばのほうは、工場から届く出来合いのもの。ああいう店では、絶対にうどんに限ります。
おでんも、いなり寿司も、うちで作ってもらった記憶がありません。買ってきて食べていたのですね。でも、なつかしいです。食べたくなります。いなり寿司は、立ち食いそば屋のサブメニューにありました。
ふるさとの味とか、いわゆる「おふくろの味」とかいうのは、わたしは、思い出せないです。せいぜい、カレーライスか、クリームシチューか。
わたしの味の嗜好は、小学校のときの学校給食で形成されたのだと思います。

こんな詩もあります。

瑞々しさが去って
コクと旨みが
顔を出す
切干し大根の
乾き具合

大根を干しているのでしょう。生の大根は、みずみずしくておいしいのですけれど、切り干し大根は、生とは違った、また別の、切り干し大根独特のおいしさがあります。「コクと旨み」ですね。生から少しずつ切り干しに変化していくところを、味を想像しながら描写しているところが、おもしろいです。

家庭菜園の詩もあります。

「こんにちは」「こんにちは」
誰かれなく声かけて
青い空の下
9坪の
農園デビュー

農場を分割して、一般の人に貸している農園なのでしょう。栽培する楽しさが伝わってくる詩です。
野菜など、買って食べたほうが、安いし、早いし、効率がいい。それでも、あえて、自分で栽培したいという欲求がある。栽培することを楽しむ文化が、自分の中にも流れているのだなあ、と感じます。

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筑波常治「反自然性としての農業」

Hisaharu_tsukuba 筑波常治さん

「私淑する」という言葉があります。直接教えを受けたわけではないけれど、その人が書いた本などから間接的に強い影響を受けるようなことですけれど、わたしが生態学・生物学・農学が重なるような学問領域で私淑しているのが、筑波常治さんです。自然と人間の関わりとか、栽培=農という営みの意味と、その未来、といったことについて、筑波さんほど深く、しかも分かりやすく語れる人は、他にいないのではないかと思います。
きょうは、1975年に出版された、長須祥行編『講座・農を生きる3〝土〟に生命を』(三一書房)の第2章、筑波常治「反自然性としての農業」という文章を読みます。この本は、すでに書店では売られていませんが、大きな図書館に行くか、オンライン古書店なんかを利用すれば、入手して読むことができます。
「講座・農を生きる」というのは、全5巻のシリーズもので、各巻6~7人の執筆者が、それぞれの巻のテーマに沿った主張を繰り広げているものです。シリーズ全体の傾向として、筑波常治さん以外の諸執筆者は、農の意義を「復権」させようとする方向性を持っているように思われるのですが、筑波さんが書いた、この「反自然性としての農業」という一章だけは、唯一、人間の栽培=農という営みを批判的に捉えていて、強烈に異彩を放っています。

 たとえ話で考えてみよう。ある場所に、ライオンとシマウマがいて、前者が後者を食べている。もしライオンがシマウマを食べつくし、シマウマが絶滅してしまうと、つぎにはライオンが食糧不足におちいり、これまた絶滅せざるを得ないことになる。ライオンが種族として存続するためには、一定数のシマウマが種族として存続しなければならない。つまりライオンは無制限にシマウマを食べつくしてはならず、ある個体数以上のシマウマを食べのこさなければならず、ということはライオンの食物消費量が制限されることにほかならない。そして食物の制限は、必然的にライオンの個体数の制約をまねく。すなわちライオンはある数をこえてふえるわけにゆかない。こうして一定数以下のライオンと、一定数以上のシマウマが、その場所に共存することになり、こうして自然界のバランスがなりたってゆく。

生物の食物連鎖と、それぞれの種の個体数のバランスの保たれ方の話です。これは、生態学の基本中の基本で、生態学の教科書の最初のページに書いてあるようなことです。文明のありようを考えたりするときに、これほど重要な考え方は、他にないほどなのに、意識にのぼることが非常に少ない。小学校低学年でも、理解できるような簡単なことなのに、どうして学校でちゃんと教えないのでしょうか。学校で教えない理由は、まあ、だいたい想像がつきます。このような生態学的発想を敷衍していくと、国家の理想とずれていってしまうから、学校では、ちゃんとは教えられないのでしょう。
国家の理想は、人口が増え、都市が発達し、高度な文明が栄えることです。ライオンとシマウマのたとえで言えば、ライオンを増やすことです。ライオンが増えようと思ったら、餌であるシマウマを増やさなくてはいけなくなる。シマウマの餌を確保しようと思ったら、牧草を栽培しはじめなくてはならなくなる。ここが、人間とライオン(人間以外の動物)との、運命の分かれ目です。人間は増えようとした(減ることを恐れた)、だから農業をはじめた。いっぽう、ライオンは増えようとしなかった。だから農業をはじめなかった。
人間は、自然のバランスの中で生きていたころの何千倍もの数に増えてしまいました。そのために、年がら年中畑にへばりついて、働きづめに働かざるを得なくなったのです。いっぽう、ライオンは増えなかった。ですから、今でも、腹が減ったときにだけ、シマウマを捕まえて食べれば、それだけで生きていけるのです。食料を生産する必要がないのです。

人類の歴史の中で、一定の土地から、より多くの農生産物を得ようとする努力が重ねられました。しかし、生産性は無限に増やせるわけではなく、必ずどこかで頭打ちになります。
「農生産物」などと、つい、何気なく、あっさりと言ってしまいますが、これはいったい何なのでしょうか。筑波さんは、農生産物の「意味」を、人間による栽培の起源を想像しながら、明らかにしていきます。

作物は野生植物から進化したものである。ただ進化の原因が、人間の干渉によったのであり、この点で自然界の進化とは一線を画している。こうして利用価値がたかめられたが、それは具体的にいうと、利用できる部分が大きくなったのである。そしてその「部分」とは、作物にとって「器官」にほかならない。つまり作物とは、身体の一部の器官が、ほんらいの自然状態にくらべて、極度に肥大化した植物とみなすことができる。
(中略)
作物の特徴は、前述のように、身体ぜんたいのなかで、ある特定の器官だけが、いわばアンバランスに肥大していることである。イネやムギ類はたねの数が、ダイコンは根の容積が、キャベツやハクサイは葉の面積が、極端に大きくなっている。自然界の植物としてみれば、これらは完全な奇形である。人間によって、奇形化された植物群である。そしてその奇形のていどが、時代とともに「改良」の名のもとに、いっそうひどくなってきた。

「改良」の名の下に続けられてきた植物の畸形化は、栽培作物を脆弱化させました。自然にあらがう「栽培」という反自然的営為に対して、自然が逆襲をはじめます。

自然のままに放置しておくと、田畑にはいつのまにか、人間のまかざる各種の野生植物が根をおろしてしまう。そしてかぎりある空間と、そのなかのかぎりある養分や水分を、うばいあうようになる。その結果は、野生植物がかならず勝つ。なぜならば作物とは前述のように、奇形化した植物にほかならず、生活力が虚弱だからである。生存競争によって、弱者は駆逐される。人間がせっかくたねまいた――苗を植えた――作物はことごとく枯死し、消滅してしまい、田畑は野生植物におおわれることになる。換言すると、田畑にはつねに自然の土地の状態へ、復元しようとする作用が内在している。

かくして、「雑草や病害虫などとの戦い」がはじまるのです。自然との闘いは、反自然性としての栽培=農の宿命であるのです。宿命……そう、人間は、自ら、苦労を背負い込む方向へ進んできてしまったのでした。
栽培における人間の努力は、品種改良の他に、肥料の投入による、一定面積の畑からの収量の増加、というほうにも向けられます。これは、いわゆる化学肥料が量産できるようになるまでは、草を刈ってきて畑にすき込む、というやり方が一般的でした。
筑波さんは、ここで、再び、ライオンとシマウマのたとえを想起させます。そして、ライオンが際限なく増えることが困難であるように、採草地における有機物の枯渇のために、草をすき込む方式で畑を際限なく拡大することは、やがて限界にぶつかることを指摘します。

さて、ここで、筑波さんは、農業者が自然と農との関わりについてとらえるやり方において、奇妙な「倒錯」が起きていることを指摘します。

土地生産力の向上――おなじ面積の田畑から作物の収穫がふえることは、それだけ環境が人工化し、奇形植物の純粋培養にふさわしくなったわけだが、その意味を倒錯させ、農法のやりかたが自然に調和したればこそ、生産もあがるのだと判断した。そういう判断の前提には、土地のもっている生産力への過度にして無邪気な信仰があった。すなわち土地のなかには、無尽蔵な生産能力がかくされており、それを引きだすことこそ技術の役割であり、自然にたいしてもっとも誠実な態度なのだという信念である。人間が自然に手をくわえ、農業生産がたかまるのは、人間の努力にたいする自然の恵みにほかならず、かくして人間と自然との関係がますます理想的なものに近づくと考えられた。

ここに指摘されていることは、正直言って、わたしの中にもある傾向です。この部分を読んで、あまりの鋭さに、わたしは、思わず〝ギクッ〟と飛び退きました。「自然農」などと言って、自然を愛しているような気になっていながら、じつは、自然の「無尽蔵な生産能力」を「無邪気に信仰して」いるだけなのではないか。自然をよく知れば、生産性が上げられると思い込んでいないか。こういう「無邪気な信仰」は、投入した肥料の元素の量を計算するような、モダンな農法の人たちよりも、むしろ、「自然ナントカ」いうような農法の旗印を掲げるような人たちのほうが、より激しくとり憑かれているのではないでしょうか。

で、筑波さんの結論は、人類の繁栄という理想を断念しなければならない、ということになります。ちょっと長いのですが、どこも大切で、短く要約しにくいので、引用させてください。

自然の土地とはほんらい、無尽蔵に物をうむ「打出の小槌」ではないはずである。その生産力は、ある段階まででかならず頭うちになる。この限界をわきまえずに、生産力をひたすらあげつづけようとつとめることは、土地にたいする酷使ではないか。すでに明治以前から、化学肥料や農薬がでてくるよりもずっと前から、日本農業の中心は土地の「酷使」にあったのではないか。しかも酷使を酷使と思わぬような盲点を、それはともなっていた。だからこそ、ありとあらゆる人工的手段を土地にくわえ、自然状態から遠ざかった田畑にかえる行為を、大地への愛情の発露のごとく思いこんだのではないか。科学的農業のまねいたつまずきは、けっして予想外ではなく、多年にわたる蓄積の当然の帰結ともいえる。
 だが考えてみると、これは日本にかぎらず、農業という行為そのものの宿命ではあるまいか。自然界のバランスをこわし、人類という一種族の繁栄のみをもたらすための手段が、農業だったのであるから。日本の場合、人口密集型の社会という条件があって、その本質がことのほか早く表面化したということにすぎまい。 だとすれば、たんに化学肥料をふたたび有機質肥料にかえるといった小手先の転換で、問題は片づかないのである。農業の目標であった土地生産力の向上を、ある段階までで断念すること、ということは、人類のかぎりなき繁栄という理想への努力を、人間がみずからの意志で抑止すること、そのことが可能かどうかが、いま問いなおされているのではあるまいか。

筑波さんがこの文章を書かれたのが1975年。ほぼ同時期に書かれた『自然と文明の対決』(日本経済新聞社)の中で示された「亡国の思想を!」の主張につながっていく発想が、ここにも見られます。
今、政府は、少子化対策などと言っていますが、少子化、大いにけっこう、不景気、大いにけっこう、国力の減衰、大いにけっこう、そう言えなくては、だめでしょう。ライオンとシマウマの関係のように、食べたいときにとって食べればいいような、自然が与えてくれる範囲を超えないように生きる、その方向を目指すことが大切なのではないでしょうか。
一定量以上の農産物を出荷できないと、農業者として失格の烙印を押される。あるいは、自分名義の口座に、毎年負債が積み重なっていく。そんな絶望的な農業なんて、やりたくないでしょう? 落ちこぼれないように、競争しますか? 方向が真逆じゃないですか? やめちゃいなさいよ。
自然という宿主にとりついた、おぞましい寄生物である人間。放っておいても、そのうちに行き詰まって滅ぶのでしょうが、文明にブレーキをかけて、少しは自らの醜さを自覚していたんだよ、というところを見せられるでしょうか。わたしは、悲観的ですけど。やっぱり、頭悪いですよ、人間は。
自分への励ましをかねて言っておくと、物理的な痛みは、工夫して、できるだけ避けて、精神的な痛みは、幻想だから、気にしないようにして、死ぬまでなんとか生きていきましょう、ぐらいのことでしょうかね・・・・・・グラッチェ♪♪

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